大日本史料第十二編之四十五

本冊は、後水尾天皇元和八(一六二二)年六月十九日から、七月十五日に至る約一箇月間の史料を収めている。
 この期間のうちで、最も顕著な事件は、陰暦七月十三日(陽暦の旧暦八月十九日)幕府の命により長崎奉行長谷川藤正が、長崎の商人平山常陳とその持船で密航してきた二人のスペイン人宣教師を火刑に処したことである。これに関する欧文材料七点とその訳文を掲載した(欧文六〇頁、和文一〇四頁)。
 平山常陳は日本布教を志した二人の宣教師、すなわちアウグスティノ会のフライ・ペトロ・ド・ツニガ、ドミニコ会のフライ・ルイス・フロレスの密航を援護して自分がその船長のポルトガル製フリゲート船で、マニラより日本へ渡航中のところ当時ジャカトラを発して日本に向いつつあったイギリス・オランダ防禦艦隊所属のイギリス船エリザベス号により台湾沖で拿捕され、曳航されて、元和六年七月六日平戸へついたが、これに関するイギリス側及び教会側の記録は『大日本史料』第十二編之三十四に掲載されている。
 本冊においては、これらの三名及び彼等と同行したキリスト教徒の水夫・商人等の虜囚生活の有様、彼等に対する審問及び処刑の状況に関する教会側の史料を集めた。処刑はまずこれらの水夫・商人等十二名の斬首に始まり、ついで前記三名の火刑が行われた。この処刑は、ついで行われたいわゆる元和の大殉教(元和八年八月五日)の前奏曲を成すものであった。
 平山常陳等十五名処刑に関する史料は、従って大殉教関係記事とともに構成される一連の史料からの抄出の形をとらざるを得ない。そうした史料の内、まず根本史料としてイエズス会・ドミニコ会・アウグスティノ会に由来するもの五点、ついで二次史料として布教史関係概説書二点からの抜萃を挙げた。すなわち、一六二二年度の『日本耶蘇会年報』(Lettere
annve del Giappone dell'anno MDCXXII e della Cina Del 1621 & 1622. Roma, 1627)はイエズス会宣教師がこの処刑の一部始終を見聞した上で客観的立場から叙述したもの、また『一六ニニ年日本に於て行はれたる大殉教の報告』(Relacion
breve de los grandes y rigurosos martirios que el ano passado de 1622 dieron en
el Japon a ciento y diez y ocho ilustrissimos martyres. Madrid, 1624)はマニラからローマに送られたイエズス会員の報告である。『日本に於ける聖ドミニコ修道会のパードレ十一人の殉教に関する略記、一六一八年・一六ニニ年』(Breve
relatione del martirio d'vndici religiosi dell' Ordine di S. Domingo seguito nel
Giappone del 1618 e 1622. Roma, 1624)及び『フランシスコ・カレロ編、聖ロサリオ管区竝びに日本国に在る聖ドミンゴ修道会の勝利、自一六一七年至一六二四年』(Francisco
Carero, Triumfo del Santo Rosario y Orden de Santo Domingo en los Reinos del Japon,
desde el ano del Senor 1617 hasta el de 1624. Manila, 1868. Cap. XXIII)は、ドミニコ会のフライ・ルイス・フロレスと同会聖ロサリオの組の会員ホアキン・ディアス(平山常陳)の殉教に関する克明な記述である。『アウグスティノ会代理管区長グティエレス報告書、一六二二年十月』(Dos
relaciones del martirio en Japon de 1622 per Padre Fr. Bartholome Guttierrez,
Vicario Provincial de la Orden de San Augustin)は、かねてパジェスによって引用されていた一六二三年二月二十四日の報告書に先立つ同じ趣旨の報告書で、天理図書館所蔵の稿本によって掲げたもので、処刑当時長崎に居合わせなかった筆者が、その修道会のフライ・ペトロ・ド・ツニガの殉教をめぐって各種の情報をまとめてローマに送った斬新な報告となっている。これらの史料及び他の二つの概説書(Daniello
Bartoli 及び Leon Pages)からの抄録は、いずれも、大殉教に関する次冊の記事に続くものである。
 つぎに本冊において、死歿した人物の事績を収載したものは次の如くであり、この部分が本冊の大半をしめている。
 まず六月十九日には、前安房館山城主里見忠義が、配所伯耆倉吉に卒している。忠義は慶長十九年九月九日、大久保忠隣の一件に縁坐してか伯耆に移されていたが、二十九才をもって配所に卒した(二十七才、三十才との説もある)。里見家は清和源氏新田流で、上野国碓氷郡里見郷を本貫の地とし、十五世紀の中ごろ、里見義実が安房一国を支配して以来、安房を本拠とし、上総・下総にまで勢力をもった豪族であった。慶長から元和にかけて有力な外様大名は次々と改易・断絶の憂目にあっているが、里見氏もまた伯耆に移され、忠義の死去により、嗣子なく断絶となっている。既刊の『大日本史料』における忠義に関する条は、連絡按文に記した如くであるが、その後発見された史料も多くある。これらの史料は、本来ならば補遺として収録すべきものであるが、その繁をさけて、この死歿の条に一括しておさめ、その旨の按文を附した、これらの内、閏七月三日の梅鶴丸の文書については挑裕行「神託で閏月をきめること」(『日本歴史』一六三)を参照されたい。また忠義室大久保氏に関しては忠隣女と忠常女の二説があるが、本巻では両者について史料を掲げた。さらに参考として里見家分限帳三点の全文を収載したが、これらは川名登氏の最近の研究によって信憑性の高いことが明らかとなったものである(「いわゆる里見分限帳の信憑性について」〈『歴史地理』九一−二〉、『里見家分限帳集成』〈昭和四一刊〉)。なお慶長十一年の分限帳は、内閣文庫本よりもより原本に近いと思われる東京教育大学本を底本とした。
 つづいて六月二十五日には京都妙顕寺住持日紹が寂し、二十七日には京都の医師吉田宗皓(意安)が歿している。ともに史料は必ずしも豊富ではないが、日紹については、妙顕寺所蔵の「代々御譲状」を新たに蒐集して収載した。
 陸奥仙台城主伊達政宗の家臣支倉六右衛門は、慶長遣欧使節の人物として人口に膾炙しているが、その死歿の年月日は必ずしも明確ではない。大槻文彦の校合にかかる「支倉六右衛門家譜」に拠り、一応七月一日の条に収めた。支倉六右衛門が主君伊達政宗の命を帯びてサン・フランシスコ派の宣教師ソテロと共にスペイン及びローマに赴いたことについては、『大日本史料』第十二編之十二(慶長十八年九月十五日の条)に一件史料を収めたが、その後発見された二つの文書群によって、使節の行程図が補訂され、且つ新事実も明らかになったので、同条の補遺として本冊に収録した。すなわち、支倉等がマドリッドを発してイタリヤに向う節の次に「支倉等、途上、サン・トロペに寄港す」の一条を設けてフランス国アンギンベルティーヌ図書館所蔵エクス高等法院ペイレック顧問官書写文書(Recueil
des manuscritr fait par le Conseiller Peyresc Parlement d' Aix-en-Provence)を載せ、一行が寄港した当時の領主等の書翰にその動静を見たのち、「イスパニヤの使節日本に来り次で政宗の船に便乗してメキシコに帰る」の節の内、欧文材料第二百三十八号の前にメキシコ国立一般文書館の未刊文書『一六一八年クレメンテ・デ・バルデスの請願に関する調書』(Informacion
de pedimento de Clemente de Valdes, 1618)を掲げて、メキシコ経由日本帰航に際して支倉等日本人が所持の財貨に関税を課せられないようマニラ市代表バルデス、支倉六右衛門より請願し、これに関しメキシコ市民等が証言を行い、メキシコ政庁がこれを裁可した事情を明らかにした。後者はとりわけバルデスがマニラ市の代表権を得た一六〇六年当時の、及び証言を行った市民等の過去二〇年間の、日比間通交状況についても有益な史実を提供している。尚、フランス文書は共立女子大学教授高橋邦太郎氏、メキシコ文書は清泉女子大学教授佐久間正氏の斡旋により掲載することを得たものである。
 七月三日には加賀金沢城主前田利光(利常)の室徳川氏が金沢に歿し、十日には陸奥仙台城主伊達政宗の族臣石川昭光が卒している。利光の室は将軍秀忠の第二女として生れ、利光に嫁して多くの子女を産んだが、産後の肥立悪く死歿した。昭光は伊達晴宗の子として生れ、石川晴光の後を継いだ。政宗の叔父に当るわけである。
 本冊に収められた期間は僅か一箇月ばかりである。その間には、平山常陳の事件があるのみで、他に注目すべき事件も見当らない。しかし、表面は平穏無事のようであるが、つづいて元和八年中におこる出羽山形城主最上義俊の所領没収とそれに関連して諸大名の転封、さらに幕府年寄下野宇都宮城主本多正純の配流といった大きな事件をひかえて、幕閣や諸大名の間には複雑な動きがあった筈である。それらの史料については最上の改易、本多の配流の条に収められるであろう。
 尚、里見忠義の老臣正木大膳亮時堯に関して「池田光政日記」承応三年三月二十二日の条を、前田利光室徳川氏の死歿に関して元和八年七月二十六日細川忠興文書(『細川家史料』二−三四二号)、同年同月六日・九日の細川忠利文書(『熊本県史料』近世篇一)を採り漏らしたが、後日、補遺をもって採録したいと考えている。
 また、大久保彦左衛門忠教の「三河物語」は、元和八年四月から六月頃の成立となっているが、高木が「三河物語の成立年について」(『史料編纂所報』五号)において論考した理由によって、本冊では採録しなかった。
 担当者 小野信二・福田栄次郎・高木昭作
 欧文担当者 沼田次郎・金井圓・加藤栄一・五野井隆史
(目次三頁、本文三七三頁、欧文本文補遺共目次二頁、欧文本文六〇頁、補遺目次一頁、補遺和文四六頁、補遺欧文二八頁)

『東京大学史料編纂所報』第6号 p.101-102