大日本史料第十編之十四

本冊には、正親町天皇天正元年二月一日から、同年三月是春までの史料を収めてある。
 この年は、七月二十八日に将軍足利義昭が織田信長に追放されて足利幕府が滅び、元亀が天正と改元され、名実ともに織田政権が確立された年に当っている。そうした大勢のなかで本冊の中心となったのは、義昭を背後から有力に支援した武田信玄の動きである。
 信玄は前年(元亀三年)十二月に遠江の三方原で徳川家康を破り、本年正月には三河に入って家康の属城野田城を囲み、二月中旬に攻め陥した。このとき、信玄は守将菅沼定盈・松平忠正等を捕え、のち家康と交渉の結果、家康の許にあった属将奥平貞勝等の人質と交換することに成功した(二月十七日条)。この事件は、「古証文」以下の文書等によって大概を理解できるが、詳細は比較的良質の史料である菅沼家譜(延宝五年正月跋)にみえている。また、同家譜は、信玄の死因を野田城攻撃の際の鉄砲による負傷とし、この家譜を所蔵する三河の宗堅寺には、そのときの鉄砲とされるものも伝存しており(七十一ページに網版掲載)、この俗説が、徳川方では早くから行われていたことが窺えるであろう。信玄の兵は三月、東美濃に出て信長の兵と戦うが(同月是月条)、信玄自身は既に病んでおり、甲斐へ帰国の途にあったようである。なお、信玄の死去(四月十二日)については、次冊に収録する予定である。
 一方、敗北した家康は、子の信康に三河の足助城を、また平岩親吉に遠江の天方城の久野宗政を攻めさせているが(三月是月条)、さしたる行動ができないままの状態であった。
 ところで、信玄の三方原における勝利と野田城の陥落は、義昭をはじめ、反信長グループに大きな影響を与えたものと考えられる。すなわち、義昭と信長の関係は、義昭が将軍となった翌年(永禄十二年)から隔絶が生まれ、元亀三年九月、信長が義昭に異見十七ヵ条を差し出してその失政を諫めたことで、いっそう険悪な状態になった。
 このような時点で義昭は、本年二月、信玄・浅井長政・朝倉義景等と謀り、信長打倒の兵を山城の半国守護光浄院暹慶等に挙げさせた(二月二十六日条)。義昭は信玄の上洛にすべてをかけていたものと想像される。さらに、山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝久次等、山城・近江の諸侍が相次いで信長に背き、摂津の伊丹親興も本願寺光佐に与し、光佐は信玄と連絡をとり、しきりに義景に出兵を促すという有様で(二月二十七日条)、信長にとって楽観できない事態であった。そこで信長は、暹慶等の根拠地である近江の石山・今堅田に柴田勝家・明智光秀等を遣して破るとともに、実子を人質として義昭に和議を申し入れている(細川文書等)。
 しかし、義昭はこれを斥け(三月七日条)、二月に信長の党細川昭元を摂津の中嶋城から和泉の堺に追放した三好義継・松永久秀と、三月に同盟し(二月二十七日条・三月六日条)、遠く小早川隆景・浦上宗景等の参陣も求めている(三月二十二日条)。そうした情勢によって上洛の必要に迫られた信長は、三月二十九日に入京し、知恩院に陣したのである(同日条)。こののち、四月七日に義昭と信長の和議が結ばれるが(次冊収録予定)、それまでには紆余曲折があった。
 これら一連の義昭対信長の抗争についての史料は、いずれも政治史上重要なものであるが、とくに光秀が今堅田の合戦で討死した千秋輝季以下十八名の霊供料を近江西教寺に寄進したものからは、彼の真情が窺え(西教寺文書)、また、丹波のキリシタン信者内藤汝安が義昭から誓書を求められて拒否したこと(パードレ・ルイス・フロイス書簡)、さらに、上洛した信長が吉田兼和に義昭の行動について禁裏の風評を尋ねていること(兼見卿記)など、興味深い史料も散見する。
 なお本冊所収の期間に、禁中関係は平穏であり、その他地方では、荒木村重が高山重友を誘って和田惟長を摂津の高槻城から退城させたこと(三月十一日条)、常陸の佐竹義重が下野の皆川広照を攻めて、広照の属城同国の深沢等を陥れたこと(二月十三日条)、島津義久が大隅の肝属兼亮の党禰寝重長を誘降したこと(二月二十六日条)、義久が薩摩の揖宿に出陣し、島津征久等に命じて大隅の大姶良西俣に兼亮の兵を破ったこと(三月十八日条)などが目立った動きといえる。
担当者 菊地勇次郎・染谷光広
(目次九頁、本文三三一頁、欧文目次二頁、欧文本文二六頁)

『東京大学史料編纂所報』第6号 p.100