大日本古文書家わけ第十九「醍醐寺文書之七」

本冊は六にひきつづき醍醐寺文書第十函の後半、及び第十一函の前半、合せて三九六点の文書を収める。文書の排列は既に整理せられたる順に従い、編年等の方法はとらない。
収載文書は例のごとく年次・内容ともにきわめて雑然たるものあり、指摘すべき特徴的な性格をもたない。ただ本冊においては、寺周辺地より納付される年貢の、戦国末より江戸中期に至る約二〇〇通の請取状を収録したことが、少くも量的には目立つ点であろう。
個別文書の解説はもとよりこれを略すが、編者の個人的興味に従い、一・二の文書を紹介しておこう。欠年であるが内容より建武四年と確定しうる僧正隆舜申状の土代(第一三九四号文書)は、三宝院流賢俊の寺家内部での優位が一挙に確立されつつあった時点での、報恩院流の苦境を具体的に物語る史料であり、同時に畿内に転戦した北畠顕家の軍隊が奥羽への帰途、建武三年七月鎌倉において義詮捜索に名をかりて広範に追捕狼藉を行った事実を示している。再度にわたる北畠軍の西上東下は、当時の大軍の長途移動という面からも南北朝期の一研究対象であり、帰路における動静を知る数少い史料として興味をひく。なおこの文書の紙背は、当時の長井の嫡流挙冬の書状で、これまた珍らしいものであろう。
次に醍醐には満済をはじめとする座主の置文がいくつかのこされているが、第一四四二号文書は第七九代座主義堯の自筆置文案である。義堯がこの文書を書するに当って、満済のそれを範としたことは、端裏に自筆で「申置条々」と記しその下に花押を据えるなど、体裁や篇目の立て方などの類似から明らかであるが、内容的には自己に親密、或は疎遠な坊人に対する様々な配慮が細々と記され、当時の僧侶集団における主従制的擬制などを知りうる史料といえよう。
次に編纂後も編者のもっとも心のこりである文書を掲げておく。第一四六一・二号文書は、何れも明応なる者が座主義演に充てた書状で、内容的には六角承禎をはじめ永原・後藤・進藤などの人名をのせ、或は鉄砲百丁・弓五六十丁だとの文言もあって、もし明応が如何なる素性の人物であるかが判明すれば、当時の近江の状勢などについて好史料たりうる可能性があると思われるが、遂にその素性を明らかにし得なかった。充所の書式からだけみても相当な地位の人物であることが容易に推定しうるにも拘わらず。
(目次三一頁、本文三二七頁)
担当者 笠松宏至

『東京大学史料編纂所報』第6号 p.103*-104