大日本維新史料類纂之部「井伊家史料七」

本冊には、安政五年六月一日から同年七月二十日までの史料を収めた。
 この時期は、日米通商条約の調印(六月十九日)および徳川慶福の将軍継嗣決定(六月二十五日)という二大事件をめぐり、老中堀田正睦・松平忠固の罷免と太田資始・間部詮勝・松平乗全の老中登用(六月二十三日)、本多忠民にかわり酒井忠義の京都所司代就任(六月二十六日)、徳川斉昭・徳川慶恕・松平慶永の謹慎処分(七月五日)、将軍徳川家定の死去(七月六日)など、重要事件に満ちている。
 本冊には、徒頭薬師寺元真から彦根藩側役兼公用人宇津木六之丞に宛てた書状が多数収録されているが、これらは、こうした複雑な情勢の中での幕府内部一橋派の策動の様子を詳細に伝えている。とくに右の書状には、別紙として小姓頭取諏訪安房守・同高井豊前守および田安家小普請奉行松永半六が元真に提出した風聞書を添附しているが、これは非常に重要な史料である。元真は、この風聞書に基づいて将軍継嗣決定の日を六月十八日にすべきであると説き、十八日以降においては二十三日には是非とも強行すべきであると力説している。また一橋派を抑えるためには間部詮勝の老中登用が必要であること、将軍徳川家定を死に至らしめたのは奥医師岡櫟仙院の仕業であることを述べている。
 彦根藩系譜編集用懸長野主膳と九条家家士島田左近との往復書状は、この時期における江戸と京都の情勢を知る好史料である。とくに主膳のものは草稿が残されているため、その真意をうかがうことができて興味深い。
 本冊所収史料の中でもっとも重要なものと思われるのは、幕府が発した公文書の草案である。これによって、『幕末外国関係文書』などで周知のものとなっている幕府の公文書が、誰によって起案され、どのような修正を経て成案となったかという過程を克明に追うことができる。以下、二、三の実例を紹介しよう。
 〔第三一号〕これは勅許をまたず条約に調印した事情を述べた武家伝奏宛の老中奉書で、完成稿は『幕末外国関係文書』第二〇巻に第二〇二号および第二〇三号として収録されている。この文書については、宇津木六之丞の筆になる草案が二通残っており、起案者が六之丞であったことがわかる。条約調印が止むを得なかった理由について、最初の草案では「勝算無之、忽爭端を開、敗軍之上ニ而ハ、此度之條約而已ニ而ハ相濟不申、淸國之覆轍を踐セられ候樣相成候而ハ、不容易御義ニ付、」とあったものが、完成稿では「忽爭端を開、萬一淸國之覆轍ヲ踏候樣之儀出來候而者、不容易御儀ニ付、」と簡略化されている。
 〔第四一号〕条約調印の事情を幕府が諸大名に通達した文書で、完成稿は『幕末外国関係文書』第二〇巻第二一五号文書と同文である。これには四通の草案があり、宇津木六之丞が起案して推敲を重ね、最後に井伊直弼が加筆している。
 〔第一一五号〕これは武家伝奏宛の大老老中奉書の草稿で、草稿として『公用方秘録』に所収されている。内容は条約調印が止むを得なかった事情と、開港してもさして実害はないことを述べたものである。残されている四通の草案は、いずれも長野主膳が執筆したもので、最終草稿は宇津木六之丞の筆である。
 以上の例示によって、この時期の幕府の公式文書は、実際は宇津木六之丞あるいは長野主膳によって起案され、最後に井伊直弼が目を通すことによって完成された、という事実を知ることができる。井伊直弼が大老として幕政を専制していたことが、この側面からも立証されるのである。
 また、井伊直弼が九条尚忠や三条実萬にあてた文書の草案も六之丞や主膳が執筆していたことは、第五四号・第五八号などを見れば明かである。これら草案には、完成稿にはまったく姿をみせない記述、たとえば直弼らの意思に反して幕議が条約調印に傾いたため、直弼は引責辞職を決意したなどの文言が多くみられる。
 以上、本冊所収史料を利用する上で、とくに留意すべき点を摘記した。なお、現在、維新史料部がおこなっている全国的な幕末維新期藩政史料調査の一つとして、財団法人宇和島伊達文化保存会を採訪したが、同会所蔵の伊達宗城および宗紀宛の井伊直弼書状四通(第二九・四二・四三・四九号)を関連史料として本冊に収録し、そのうち第四二号、六月二十二日宗城宛書状を図版として巻頭に掲げたことを付記する。
(目次一八頁、本文三三五頁)
担当者 吉田常吉・山口啓二・小野正雄・河内八郎

『東京大学史料編纂所報』第6号 p.107*-108