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大日本史料 第十一編之二十九

 本冊には、天正十四(一五八六)年四月・五月の事件にかかる史料を収めた。
 豊臣秀吉は、前冊の範囲までに、徳川家康との対決を回避した(前冊二月八日条)。そのため、本冊の範囲において大きな軍事作戦が発動されることはなく、秀吉の行動は不活発であった。大坂から京都・大津に赴いたことが知られる程度である(四月十二日条など)。
 家康とのあいだでは、和睦の証しとして、妹・旭姫が家康に嫁することとなり、まず家康側から納采が行なわれたのち(四月二十二日条)、五月十四日に姫の乗輿が浜松に入った(同日条)。「家忠日記」がこの模様を詳しく記録しており、饗宴の配膳・献立などは絵図で示されている。これらをすべて翻刻した。秀吉側については、「一柳文書」などによって、秀吉の指令のもと、輿入れへ向けてさまざまな準備が行なわれたことを示した。
 家康との関係が好転したため、秀吉の関心は、越後から関東・東北方面に向くこととなった。関東では、下野鹿沼・同国佐野などを舞台として、佐竹義重・宇都宮国綱と北条氏直の争いが展開されていたが(四月十九日条および同月二十九日条)、秀吉は使者山上道牛を派遣して、前者に近い白川義親などに接触した(五月十三日条)。このとき秀吉が山上に持たせた文書は、いずれ関東の争いに介入することを宣言したもので、「富士一見」という文言があることでも知られている。これらを石田三成・増田長盛らによる副状も含めて収録した。一方、佐竹氏の方からも、秀吉に使者を送った形跡がある。この使者は、北陸道経由で帰国したようで、秀吉は、通過地に対し、使者に伝馬を提供するよう命じている(五月二十三日条)。東北については、佐竹義重を通じて、蘆名・伊達両氏に和睦を促している(四月十九日条)。越後の上杉景勝に対しては、三成・長盛ら秀吉側近の連名で、景勝の側近・直江兼続充てに、関東情勢が固まる前の早期の上洛を勧めた(五月十六日条)。この結果であろう、上洛が実現することとなり、秀吉は景勝一行の迎えとして、三成を加賀に派遣することにした(五月二十八日条)。
 西国についても、大きな動きがあった。豊後の大友宗滴(宗麟)が大坂に上り、秀吉と対面して歓待を受けたのである(四月五日条)。「大友家文書録」に、宗滴自身の長大な見聞記があるほか、イエズス会の宣教師による記述も残り、これらをすべて収録した。後者については、巻末に原文(欧文)を掲出し、本編にはその訳文を掲げた(いずれも特殊史料部に原稿作成を依頼した)。いわゆる「黄金の茶室」が、この対面の際にも披露されている。また、秀吉は、宗滴との対面を契機として、九州の処置について定めたという(四月十日条)。
 その九州では、島津氏が豊後侵攻の機会をうかがっており(前冊二月十九日条)、本冊の範囲でも、同氏の幹部が頻りに情勢を分析し、意見を交換している(四月二十三日条)。宗滴の上坂と秀吉の対応は、島津氏に対抗する意味の強いものであったと言える。秀吉は、すでに九州への出動を視野に入れており、経路にあたる中国の毛利輝元らに対して、道路や宿所などに関する指令を発している(四月十日条)。九州問題を取り扱う使者として、黒田孝高を派遣した事実も知られる(五月二日条)。また、島津氏が使者を上せて接触してきたのに対し、九州処置の方針を具体的に示した上で、七月までに回答しなければ出動すると告げている(五月二十二日条)。
 同じく九州では、三月から五月にかけて、対馬・宗氏の兵が壱岐を経て肥前に侵攻し、松浦鎮信の兵と戦う一幕があった。これについては、対馬側に多数の史料が残り、出征を控えての譲状に類するものや、壱岐から肥前への行動を記録した日記などが見られる。これらを四月十日条にまとめて収録した。なお、秀吉は、鎮信にも九州の処置について伝え、人質を出せば安全を保障すると述べている(五月二十八日条)。
 以上のほか、五月四日、秀吉は、イエズス会の申請に応じて、布教に関する特許状を与えた(同日条)。日本側の史料は残らないが、同会の宣教師による記述が複数あり、このうちルイス・フロイスの「日本史」には、特許状の体裁と文面が写し取られている。これらを前出の大友宗滴の場合と同様の方法で収録した。
 また、五月二十二日には、若き日の秀吉との因縁で知られる(ただしこれは俗説である)蜂須賀正勝が死去した(同日条)。この条には、徳島城博物館所蔵の正勝の肖像画をはじめ、正勝とその周辺にかかる史料を網羅した。とくに、新出の「高野山光明院旧蔵文書」および上村観光氏所蔵「法語集」によって、死去の直後から十七回忌までの法会などについて示した。さらに、正勝の事蹟を連絡按文のかたちでまとめ、花押の変遷については図示した上で、附録として前出の「高野山光明院旧蔵文書」などに見られる正勝関連文書(事蹟には収まらないもの)を掲出した。
 さらに、五月二十六日、秀吉が、禅僧玄圃霊三を南禅寺住持に任じたこと(同日条)については、京都府宗雲寺に遺る秀吉公帖、道旧疏・同門疏を原本により収めたほか、その他の入寺法語等を写本類から収録した。この公帖は、秀吉発給の最初のもので、「鹿苑院公文帳」には「関白殿公帖之濫觴」と記されている。また、入寺にともなって作成される疏は、多くが語録集等に写しの形でしか遺っておらず、原本は極めて稀なため、写真図版を掲載した。なお霊三は四月十三日にも、足利義昭から公帖を受けている(同日条)。
 朝廷においては、誠仁親王の動きに、やや目立つものがあった。親王は、三月八日、曇華院を訪問したが(前冊同日条)、本冊の範囲でも、五月六日に大聖寺を、同月二十七日に大覚寺を訪問している(それぞれ同日条)。その模様を「兼見卿記」「御湯殿上日記」によって示した。親王の父・正親町天皇の周辺では、近く親王に譲位する方向で準備が進んでおり、仙洞御所も完成に近づいた(四月二十四日条)。親王が相次いで要所を訪問したのは、践祚を控えての行動であったかとも思われる。
 寺社については、京都の大徳寺および東寺において、四月初旬、それぞれの寺内構成員が一斉に起請文を提出している(同月是月条)。この前年、京都の諸領主に対して、秀吉による検地が行なわれた。その際、自分たちが提出した指出に不正は一切ない旨が、これらの起請文では誓われている。両寺を合わせて約七〇例が残っており、その全部を様式の細かな違いに注意しながら収録した。それぞれの寺内行政の所産と見られるが、日付や文言にはほとんど違いがなく、秀吉またはその奉行からの指令、および文案の提示があったことも想像される。また、このような措置を必要とする、何らかの具体的な事件があったことも想像に難くないが、現在のところ明らかにすることができない。
 大和では、羽柴秀長の主導のもと、春日社の造替が行なわれた。正月から準備が進められ(前冊正月五日条)、五月二十一日に新殿の立柱上棟、二十七日に遷宮の儀式を見るに至った。「天正十四年日竝并遷宮之記」は、同社の社司・東地井祐父が残したもので、その記事は詳細をきわめ、この造替のことをもっともよく伝える史料であるといってよい。ほかに、社司・今西祐国の日記(「祐国記」)や、興福寺の僧侶たちの日記(「多聞院日記」「寺務日記第二」)にも多くの記事がある。正月以降、立柱上棟までの記事を二十一日条にまとめ、遷宮の直前と当日の記事は二十七日条に収めた。なお、遷宮に先立って、本願寺光佐の妻子、および秀吉の生母(大政所)が春日社に参詣している(四月八日条および五月十四日条)。
 一般社会における事件として目につくのは、京都・大坂・奈良において、呼吸器系の感染症と思われる病気が流行したことである(四月二十四日条)。その症状は「風気」「咳気」などと記され(「多聞院日記」)、「五三日中」(「兼見卿記」)に治癒することから「三日ヤミ」(「多聞院日記」)と称された。なお、秀吉も、四月二十二日付の文書のなかで、少し「咳気」を煩っていると記している(同日条「安藤重寿氏所蔵文書」)。
 巻末に補遺を付した。本冊を編纂する過程で新たに見出された、天正十一年から十四年初頭までの事件にかかる史料をここに収めた。具体的には、①四月十二日条などの編纂にともなう「近衛家文書」「広橋家記録」の点検、②四月十九日条の編纂にともなう「真武内伝附録」の点検、③五月三日条の編纂にともなう「河西文書」の点検、④五月二十一日条などの編纂にともなう大和関係史料の点検、⑤五月二十二日条の編纂にともなう蜂須賀正勝関係史料の点検、以上の作業によって見出された史料を収めている。
 なお、前冊について、以下の誤りが判明したので、この場を利用して訂正を掲げておきたい。
四頁正月二日条ほかの〔御湯殿上日記〕
 誤「なかハし(高倉量子)」/正 (高倉量子)を削除
七頁九行目
 誤「まてのこうち(充房)・頭弁(勧修寺光豊)」/正「まてのこうち頭弁(充房)」
八頁八行目
 誤「ゑもんのすけ(甘露寺経元)」/正「ゑもんのすけ(甘露寺経遠)」
四〇頁二行目
 誤「かんろしゑもんのすけ(経元)」/正「かんろしゑもんのすけ(経遠)」
四〇頁三行目
 誤「頭弁(勧修寺光豊)」/正「頭弁(万里小路充房)」
 誤「うせうへん(万里小路充房)」/正「うせうへん(勧修寺光豊)」
一三四頁一一行目
 誤「信濃大室」/正「越後大室」
(目次一四頁、本文四一五頁、欧文目次一頁、欧文一五頁、本体価格一〇、四〇〇円)
担当者 村井祐樹・畑山周平・鴨川達夫

『東京大学史料編纂所報』第56号 p.47-49