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大日本史料 第十編之三十

 本冊には天正三年(一五七五)五月二十一日条を収めた。
 本冊は月日順に関係綱文と史料を収める、いわゆる暦年の一冊だが、この日はいわゆる「長篠の戦い」のあった日にあたり、関係史料が厖大にあるため、この一日で一冊という特殊な構成となる。したがって通常の暦年の冊とは多少異なる編纂方針のもと史料を収めた。全体構成は次のとおりである。
(一)長篠の戦いの戦況や結果を記したり、織田信長・徳川家康に対して戦勝を祝った書状など
(二)戦いの知らせを聞いた京都の公家などの日記
(三)比較的同時代ないし近世前期頃までに成立した記録・編纂物・軍記
(四)一八世紀以降に成立したとされる記録・編纂物・軍記
 以上が通例の暦年の構成に準じた内容であり、(四)は従来の冊同様「参考」の扱いである。(三)(四)は、本条が対象とする五月二十一日の鳶巣砦攻から有海原における双方の激突、武田軍の敗走、織田・徳川方の行賞に至る全体を叙した史料を収めた。(四)に収めた史料については、諱や官途などの異同が大きく、煩雑を避けてとくに註記などで正すことをしなかった。
 従来の暦年と異なる体裁にしたのは次の部分である。合戦の戦場、立場などによって関係諸史料を整理分類した。
(五)酒井忠次を大将とする鳶巣砦攻に関わる史料
(六)長篠城に籠城した奥平信昌および奥平家の諸士に関わる史料
(七)有海原における織田方諸士に関わる史料
(八)有海原における徳川方諸士に関わる史料
(九)有海原における武田方諸士に関わる史料
(一〇)討死した武田方諸士の卒伝
(一一)長篠の戦いに関わる逸話・武功談など
 このなかには、(四)までの本条にある「参考」扱いの史料(比較的後世に成立したもの)も多く含まれるが、これらのなかにこうした区別を用いることによる構成上の煩雑さを避けるため、あえて区別なく収めることにした。
 (一〇)の卒伝については、このとき討死した武田家家臣のなかで、長篠の戦いでの討死に関わる同時代史料、長篠の戦い以外の文書など同時代史料、武田家家臣としての活動を示す後世の記録類、系図や過去帳などの討死に関わる記事を総合したうえで検討し、とりわけ同時代史料の多く残る人物十三名について、独立した卒伝を立てた。
 (一)に収めた史料は、既刊自治体史・史料集にて知られているものが大半だが、このなかでは、近年紹介された五月二十二日付北畠具房・同具教宛信長黒印状写と六月四日付奥村源内宛明智光秀書状が注目される。
 前者は、河内将芳氏により『奈良史学』三七号に紹介された(二〇二〇年)。写ではあるが、河内氏の考証にあるようにとくに疑うべき点はなく、信長次男の信雄(当時北畠信意)が参陣していたことを裏づける(これまでは『武家事紀』など後世の記録などで知られていた)貴重な史料である。
 後者の宛所奥村源内は、近江の土豪とされる人物だが、本文書後半において、光秀は源内が「東国」で高名をあげたことを羨んでいる。この書状を含む益田(家)文書を紹介した高木叙子「近江八幡市益田家文書に含まれる中世文書十通について」(『(滋賀県立安土城考古博物館)紀要』二二、二〇一四年)では、本文書を天正三年のものと比定し、源内の「東国」での高名とは、長篠の戦いでのそれであると推測している。本書でもこの年次比定に従って収めた。
 これによれば光秀は、長篠の戦いに従軍していないと思われる。このことは、(二)に収めた『兼見卿記』天正三年五月二十四日条にて、見舞のため光秀の坂本城を訪れた吉田兼和に対し、光秀は信長から送られていた「御折帋」を見せていることからも裏づけられる。なお、光秀が長篠の戦いに従軍していたとする説は、一八世紀初頭に成った『総見記』が最初のようである。
 ところでこの光秀書状は、折紙の文書の袖の上下に切り込みを入れ、上下端を切除してここを封紙の代わりとし、本文の書かれている部分を折り畳んでこの中に収めるという形態の封式をとり、料紙を開くと封紙上書が本文とは天地逆になる(写真は右記高木論文もしくは史料編纂所データベースHi-CAT Plus 参照)。高木氏は同様の封式の書状一通を紹介しているが、封紙と本紙を一枚の料紙に記した折紙の書状としてめずらしい事例ではないかと思われる。
 (二)では、当時正五位上右中弁・蔵人であった中御門宣教の日記『宣教卿記』が注目される。この五月二十一日条に「首注文」として討ち取った武田方武将の名が書き上げられている(木下聡「長篠合戦における織田方の首注文」『戦国史研究』七一、二〇一六年・同「長篠合戦における戦死者の推移について」金子拓編『長篠合戦の史料学』勉誠出版、二〇一八年)。
 『大外記中原師廉記』によれば、長篠の戦いの勝利を報じた信長の書状が京都に届いたのは三日後の二十四日のことであり、それは村井貞勝宛であった。貞勝が朝廷に披露し、公家の日記に記されたものだろう。宣教も中原師廉も、その情報を得た日の記事ではなく、合戦当日にかけて記している。師廉の場合、二十四日に知らせが届いたことを示す線が引かれている。
 信長が合戦当日勝報を送ったのは、長岡藤孝(『細川家文書』)、上杉謙信(『編年文書』六月十三日付信長書状写)宛の書状からも知られる。前述した光秀宛の「御折帋」もそれに該当すると思われる。
 信長は藤孝に宛て、「仮名改首注文」を送ることを伝えている。それが『宣教卿記』所載の注文(の原拠)に該当すると思われ、これらの情報は太田牛一の『信長記』にも流れこんでいる。木下氏はこれを「仮名で記した首注文」と解しているが、「仮名けみょう」を改めた(討ち取った首の名前を特定した)注文と考えるべきではなかろうか。
 (三)に収めたのは、太田牛一の『信長記』、また『三河物語』『松平記』『当代記』といった史料である。
 また、これまで本所謄写本から収めていた『大須賀記』について、底本を国立公文書館内閣文庫所蔵の『大須賀家蹟』に変更した。史料本『大須賀記』の奥書に「海老江某之記也、弘文館之蔵書也」とあり、いっぽう内閣本は、午六月二十四日付で海老江勝右衛門里勝が井上太左衛門に対し、彼が経験したいくさについて語った書状の形式になっている。内閣本奥書によれば、大須賀康高の事蹟を知ろうと、旗本井上太左衛門と阿部豊後守が里勝のもとを訪れたことに対する返事として執筆されたものであり、井上から康高の孫忠次(のち父忠政の実家である榊原家を継ぐ)にこれが伝えられたようである。史料本と内閣本の本文を比較すると、内閣本がより整っており、書状という古態を残しているという意味でも、内閣本を底本に選んだ次第である。
 井上太左衛門は、正保三年(一六四六)に没した井上重成に該当するかと考えられ、阿部豊後守は、慶長七年(一六〇二)生の阿部忠秋かと思われる。忠秋の母は康高の息女であり、彼もまた康高の孫であった。以前から『大須賀記』の史料的信頼性を高く評価する向きはあったが、十七世紀前半に成った、康高を知る〝戦国時代の生き残り〟の体験談という意味で、あらためて『大須賀家蹟』に注目してもよかろうと思われる。
 (三)には『甲陽軍鑑』も収める。最近の冊では、土井忠生氏所蔵本を酒井憲二編『甲陽軍鑑大成』(笠間書院)に拠って収めていた。本冊では、土井本が、影印も収めた『甲陽軍鑑大成』によって容易に見られることから、元和七年(一六二一)の小幡景憲識語があり、酒井氏が「現存する軍鑑写本中最古に属する本」とする佐藤憲太郎氏所蔵本を本所写真帳から収めた(末
書のみ『甲陽軍鑑大成』所収の酒井氏所蔵本に拠った)。長篠の戦いに関する部分を比較するかぎり、佐藤本と土井本とのあいだに、史実の見直しを迫るような大きな異同は確認できないが、本文に多少の出入りがあり、また言い回し、表記の異同も少なくなく、比較の意味で佐藤本を採用した。『甲陽軍鑑大成』本と見くらべていただきたい。
 (三)には、新たに国立公文書館内閣文庫所蔵の『権現様御一代記』を収めた。第二十九冊に収めた『松平十郎左衛門忠勝筆記之写抄録』(東京大学総合図書館南葵文庫所蔵)とほぼ同内容で、より良質な写本であることがわかったためである。著者に擬される松平忠勝は、長篠の戦い(鳶巣攻)において討死した三河深溝城主松平伊忠の次男にあたる(本書収録『系譜書上写』参照)。彼は慶長十四年(一六〇九)に没しており、忠勝著という所伝を信じるならば、近世のごく初期に成った、当事者に近い人物による記録として注目される(金子拓『鳥居強右衛門』平凡社、二〇一八年も参照)。
 内容的にも、徳川方の構築した馬防柵は横だけでなく縦にも設けられていたことや、鉄砲により武田軍を撃退したことにはまったく触れていないこと(これは『大須賀家蹟』にも共通する)、鳶巣砦攻に参加した兵たちは、有海原での戦闘状況をほとんど知らず、武田方の敗走を知ってようやく自軍の勝利を悟り、敗走する兵を追撃した結果伊忠が討死したことを記すなど、その
真偽はともかく独特であり、長篠記事以外の部分も含めた全体的検討が待たれる。
 (五)では、鳶巣砦攻の大将となった酒井忠次、これに加わり、長篠の戦い全体において徳川方のなかで討死した武将としてとくに著名な松平伊忠に関わる史料を多く収めた。
 酒井忠次に関しては、その末裔庄内藩酒井家の史料を伝える致道博物館が所蔵する『一智公世紀』『御系譜参考』といった江戸時代に編纂された家譜を収めた。後者は、庄内藩士阪尾宗吾らが江戸後期に編んだ史書『大泉叢誌』に収められ、致道博物館から活字刊本が刊行されているが、本書では同館所蔵の浄書本(天明二年=一七八二成立)を底本にした。ここには編者である庄内藩士堀季雄が、先行する諸記録の史料批判と考証を行なった詳細な按文が付されており、当時の人々の長篠の戦いをめぐる歴史認識を知るうえで貴重な証言となっている。
 松平伊忠に関してはとくに独立した卒伝を立てなかったが、それに準じるかたちで、島原松平文庫所蔵史料から、伊忠の末裔島原藩(深溝松平家)が編んだ史書『深溝世紀』や、伊忠の事蹟や室・子息がわかる系図を収めた。
 (六)では、武田軍により攻囲されていた長篠城の守将であり、戦後とくに家康・信長より褒賞を受けた奥平信昌および彼の家臣たちに関わる史料を多く収めた。
 長篠城籠城戦に関わる奥平家家臣の事蹟については、忍藩(奥平信昌の子で、家康息女亀姫所生の松平忠明を祖とする家)が江戸時代に編んだ家譜(『勤書』『旧忍藩士従先祖之勤書』)に拠り、前冊の四月二十九日条にもある程度収めたところだが、本冊では、中津藩奥平家の史料を伝える中津城・中津市立小幡記念図書館所蔵の記録類から、奥平信昌の事蹟、および奥平家家
臣の武功を記す系図記事を収めた(なお、調査時に小幡記念図書館に所蔵されていた史料は、現在中津市歴史博物館に移管されている)。
 これらをみると奥平家では、長篠の戦い後家康からその武功を賞された一族七人・家臣五人を長く名誉とするとともに、寛政十一年(一七九九)には「長篠城開運」二百二十五年、文政七年(一八二四)には同二百五十年を祝うなど、奥平家にとって長篠の戦いが後世に至るまで重要なできごととして認識されていたことがわかる。
 (七)は、織田方の諸将のうち、近世に至って大名などとして存続した家に残る史料に依存せざるをえず、そのなかでは、このとき鉄砲隊の奉行を務め、自らも負傷した前田利家に関わる史料がやや手厚く残っている。
 (八)は、有海原における徳川方の戦いぶりがわかる諸史料を収めた。関係史料を整理し、家康・信康父子の旗本に属した諸士以下、ある程度の軍団として戦功が記録される大久保忠世・忠佐兄弟、大須賀康高、榊原康政、本多忠勝、鳥居元忠の諸隊をまず掲げ、その他の諸士、また、この場で討死したり負傷した諸士の記事を収めた。またここには、史料中に長篠の戦いに従軍した記事があるものの、鳶巣攻か有海原か、場所を特定できない徳川方諸士の記録も収めた。
 (七)に多くが含まれる加賀藩士の由緒書(『先祖一類幷由緒付帳』)、また(八)に多くが含まれる紀州藩士の由緒書『紀州家中系譜並びに親類書書上げ』)、榊原家関係の史料(旧高田藩和親会管理榊原家史料、上越市立歴史博物館寄託)などは、第十二編の編纂に関わる調査の驥尾に付して調査を行ないえたものである。
 (九)は、有海原における武田方諸士の戦いぶりがわかる諸史料を収めた。(一〇)において独立した卒伝を立てるに至らなかった討死諸士の伝はここに収め、卒伝のある人物についても、参陣や討死に関わる部分のみここに収めている。また、このとき討死した武田家家臣の跡職相続をめぐり武田勝頼らが発給した文書もここに収めた。
 (一〇)は、討死した武田家家臣のなかで、同時代史料の多く残る人物について独立した卒伝を立てた。対象としたのは、安中景繁、市川昌房、三枝昌貞、真田信綱、武田信実、土屋貞綱、土屋昌続、内藤昌秀、馬場信春、原昌胤、山県昌景、横田康景、和田業繁の十三名で、配列は便宜的に五十音順とした。史料上に多くの痕跡を残すものだけでも十三名の討死者が出ており、馬場・山県といった武田家の重臣から、武田信実のような武田家一門、あるいは安中・真田・和田など動員された国衆まで、多岐にわたる。ここにも、長篠の戦における武田方のダメージの大きさが反映されているといえよう。
 各卒伝では、これまでの第十編の体裁に従って史料を分類して配列し、死亡に関わる同時代史料、系譜、過去帳、年未詳の発給・受給文書、花押彙纂、室および子女に関する史料、軍記・地誌による人物情報を採録した。ただ紙幅の制約もあり、採録文書や連絡按文は当人の活動が判明するものだけに絞り、奏者として吏僚的に関与したものなどは割愛した。また、系譜類や軍記・地誌についても、検討のうえで主要なものに限定して採録している。
 十三名のほかに卒伝立項まで至らなかった人物も含めて、このとき討死した武田家家臣の調査にあたっては、既刊の『山梨県史』をはじめとする各自治体史や、『戦国遺文武田氏編』などの関係する史料集、『武田氏家臣団人名辞典』などの辞典類、雑誌『武田氏研究』や関連書籍などの戦国期武田氏研究の成果より多くの学恩を蒙っている。とくに丸島和洋氏が一連の研究(「高野山成慶院『甲斐国供養帳』」『武田氏研究』三四号、二〇〇六年ほか)のなかで詳細な検討を加えてこられた高野山成慶院所蔵の過去帳類には、長篠の戦の戦死者に関する情報が多く、本冊の編纂にあたって大変有益なものとなった。
 (一一)は、ここまでの分類に収めきれなかった、長篠の戦いに関わる逸話などを記した史料を収めた。
 編纂にあたっては、二〇一〇~一五年度史料編纂所特定共同研究「関連史料の収集による長篠合戦の総合的研究」、二〇一六~一七年度同特定共同研究「戦国合戦図の立体的復元」、および二〇一一~一三年度科学研究費・基盤研究B「中世における合戦の記憶をめぐる総合的研究―長篠の戦いを中心に―」、二〇一五~一七年度科学研究費・基盤研究C「戦国時代における「大敗」の心性史的研究」、史料編纂所附属画像史料解析センター「長篠合戦図屏風プロジェクト」による調査の恩恵を受けた。これらの共同研究にご参加いただいた所内教員・技術職員各位、また所外の共同研究員各位に御礼申し上げる。史料の収集整理にあたっては、本所特任研究員木下聡氏(現東洋大学文学部)・学術支援専門職員田中信司氏の特段のご協力を得た。
 調査のさい格別のご高配を賜り、また掲載についてご許可をいただいた史料所蔵者・所蔵機関およびその関係者の皆様には、この場をお借りして厚く謝意を表する次第である。
(目次二頁、本文六一八頁、カラー図版四枚、本体価格一二、六〇〇円)
担当者 金子 拓・黒嶋 敏・須田牧子

『東京大学史料編纂所報』第56号 p.44-47