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大日本史料 第九編之二十九

 本冊には後柏原天皇の大永四(一五二四)年九月から同年是歳までの史料を収録した。以下、留意すべき点をいくつか挙げて、報告に代える。
 一〇月六日条には、國學院大學所蔵「吉田家文書」の「松田頼藤意見状」に拠って、浄蓮華院と吉田社神主吉田兼満との相論を立綱した。この相論の関連史料は、前掲「吉田家文書」に原本が、天理大学附属天理図書館所蔵「兼右卿記」天文二(一五三三)年一一月一八日条・同三年正月二九日条には、「吉田家文書」に見られないものも含めて、写が残されている。これらのうち永正九(一五一二)年から同一七年までの史料については、本来であれば『大日本史料 第九編』の既刊分に採録されるべきであったが、全くなされていない。そこで、大永四年に至る一連の経過が分かるように、遡って永正二年以来の関連史料をまとめて便宜合叙した。なお、この相論については、設楽薫「将軍足利義晴期における「内談衆」の成立(前編)―享禄四年「披露事条々」の検討を出発点として―」(『室町時代研究』第一号、二〇〇二年一二月)三五~三八頁で詳しく検討されている。
 一〇月一七日条にも、吉田兼満の関与する相論を、主に「実隆公記」の記事及び紙背文書から、細川高国第で対決が行われた日に懸けて採録した。綱文を「吉田兼満、相論す」としたのは、争点及び相手方を明確にできなかったためである。ただし、この相論についても、前掲設楽論文で「吉田社家を一方の当事者とする訴訟一件」として取り上げられており(七八~九三頁)、争点及び相手方についても推測されている(八三~九〇頁)。また、その際に、関連文書として、天理図書館吉田文庫中の粟田宮関係文書及び内閣文庫所蔵「粟田宮文書」(請求番号一六〇―〇〇二四)が挙げられており、中には大永四年の年号を持つ文書も見られる。しかし、今回は十分に検討することができなかったため、大永五年以降の関連史料の編纂に併せて、原本調査等を踏まえて再検討したい。
 一〇月九日条には、国立国会図書館所蔵「寺社書上」(請求記号八〇二―四二)から太田資高宛「北条氏綱判物写」二点を採録し、「北条氏綱、武蔵本住坊に同国三田地頭方を寄進し、寺内を陣衆不入の地と為し、諸役を停止す」という綱文を立てた。また、「参考」として、同史料から、太田資高が、亡父追善のため、太田道灌建立の法住院を再建し、三田郷内の田畠を寄附し、寺号を法恩寺と改めたとする記事を収録した。『史料総覧』及び「史料稿本」は、彰考館本「太田家譜」に拠って、是歳条に「太田資高、父資康の為に、武蔵平川に法恩寺を建立す」等と立綱しているが、本所架蔵の「太田家譜」二種(謄写本、架番号二〇七五―一〇〇三、坂本左狂所蔵。写本、四一七五―五六七、太田資美差出)には該当する記事を見出せず、内容は右の「参考」と類似・重複するため、省略することとした。
 一一月三日条に採録した「紀伊守護畠山義堯奉行人連署奉書写」は、これまで「奥家文書」中の「奥家譜抜書」に収録された写によって知られてきた文書である(『和歌山県史 中世史料一』〈和歌山県、一九七五年〉。中田法寿編『高野山文書 第一一巻 旧高野領内文書(三)』〈高野山文書刊行会、一九三九年〉も同様と思われる)。しかし、本冊では、封紙と花押形を写
し、「奥家譜抜書」のものよりも、いくらかは文意の通じる本文を持つ国文学研究資料館所蔵「紀伊続風土記編纂史料」(本所写真帳、架番号六一七一・六六―三八)所収の写に拠った。本文書によって、奉行人の一人が「平若狭守英正」であることが確かめられ、もう一人が、「英作」ではなく、「本□左衛門大夫英治」であることが分かる(弓倉弘年『中世後期畿内近国守護
の研究』〈清文堂出版株式会社、二〇〇六年〉九三~九四頁参照)。
 一一月一三日第一条には興福寺慈恩会を立綱した。勅使が下向する維摩会を別として、興福寺の法会は、綱文を立てず、「雑載」の「仏事」項に収めるのが通例である。しかし、『史料総覧』の一〇月五日条「大乗院経尋、段銭を大和越智郷に課す、越智民部少輔、之に応ぜず」は、慈恩会の執行と関連し、単独で綱文を立てるより、併せて収録する方が理解しやすいと思われること、後の興福寺別当一乗院覚誉が竪義を勤め、維摩会研学竪義得請の長者宣を受けていること、記事が比較的詳細であること等から、敢えて立綱することとした。
 一二月八日条には、菊隠瑞潭示寂の綱文を立て、伝記史料を収めた。菊隠は、但馬城崎郡の生まれで、俗姓は荒木氏。曹洞宗雲岫派に属し、甲斐永昌院開山一華文英の法を嗣ぎ、同寺の二世となった。
 収録史料の大半は、菊隠の語録「菊隠録」・「菊潭集」に拠る。このうち「菊隠録」については、以下のとおり、すでに数回にわたって全文が翻刻、刊行されている。
  『曹洞宗全書 語録一』(曹洞宗全書刊行会、一九三一年)
  『甲斐志料集成 一〇 教育・宗教』(甲斐志料刊行会、一九三四年)
  『甲斐叢書 第八巻』(甲斐叢書刊行会、一九三五年)
さらに、『山梨県史 資料編6 中世3上 県内記録』(山梨県、二〇〇一年)は詳細な解説を、尾崎正善編『訓註曹洞宗禅語録全書 中世編 第一一巻 菊隠和尚下語』(株式会社四季社、二〇〇五年)は、訓み下し、語註及び解説を加えている。
 一方、「菊潭集」は、前掲の『山梨県史 資料編6 中世3上 県内記録』に、「菊隠録」と重複しない漢詩文のみが収録されているに過ぎない。
 本所には謄写本「菊隠録」(二〇一六―四六四、永昌院所蔵、一八八九年写)及び謄写本「菊潭集」(二〇一六―四六五、永昌院所蔵、一八八九年写)を架蔵するが、二〇二〇年一一月八日~九日、龍石山永昌院(山梨県山梨市)に出張し、改めて原本の調査・撮影を行った。御高配をいただいた御住職堀内正樹氏に厚く御礼を申し上げたい。調査の成果については、『所報』本号「史料採訪」の「4 菊隠瑞潭伝記史料の調査・撮影」に報告している。
 「菊隠録」と「菊潭集」とには重複して収められる漢詩文が多く見られる。収録に当たって、両本を校合したが、いずれかを善本と決めることはできなかった。そこで、これまでの翻刻、刊行状況を鑑み、両書に重複するものについては、原則として「菊潭集」を底本とし、「菊隠録」によって補訂できる校異のみを注記することとした。また、両書にはそれぞれ朱書・墨書
による多くの振り仮名・送り仮名・返り点・記号等が付されているが、煩雑になりすぎるため省略した。
 伝記史料の排列について。「菊隠録」が史料を分類して収録しているので、これを避け、まず、「事歴」として年代が確定できるものを編年順に排列し、次いで、「事績」として確定できないものを収めた。
 「参考」として掲げた「新編武蔵風土記」は内閣文庫所蔵浄書稿本(請求番号一七三―〇二一〇)に拠った。内閣文庫所蔵「新編武蔵風土記稿」(活字本、内務省地理局、一八八四年、二六七―〇〇七九)、これを底本とした蘆田伊人編集校訂『大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿』(雄山閣、一九二九〜三三年)は、いずれも浄書稿本の一行分に相当する「一華文英、永正六
年六月六日示寂、按ニ、通龍禅師」が脱落しているためである。
 一二月二七日条に収めた東京大学文学部所蔵「由良文書」の「足利高基書状」は無年号であるが、本所影写本「由良文書」(三〇七一・三三―一四、原蔵者不詳、一八八七年頃写)所収の同文書写の端に写された封紙と思しき記述に「大永弐年十二月廿七日」とあることから、大永二年の文書とされてきた(『新編埼玉県史 資料編6 中世2 古文書2』(埼玉県、一九八〇
年)・『群馬県史 資料編7 中世3』(群馬県、一九八六年)・佐藤博信編『戦国遺文 古河公方編』(東京堂出版、二〇〇六年))。しかし、本所写真帳「彦部文書」(六一七一・三三―一八、彦部氏所蔵、一九六八年撮影)に本文書と同文の文書が封紙とともに収録されており、こちらは封紙に「大永四年十二月廿七日」(四は二を二つ並べたかたちの異体字)と記されている。そこで、本冊では、「彦部文書」所収の封紙がより原本に近いと考え、大永四年の文書として採録した。ただし、「彦部文書」と文学部所蔵「由良文書」とでは筆跡・花押形等に若干の相違があり、「彦部文書」として撮影された文書が「由良文書」として文学部の所蔵に帰した訳ではない。
 本冊の編纂に当たっては、山家浩樹氏・末柄豊氏・木村真美子氏の協力を得た。
(目次一二頁、本文三一四頁、本体価格八、二〇〇円)
担当者 渡邉正男

『東京大学史料編纂所報』第56号 p.42-44