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所報 - 刊行物紹介

大日本古文書 家わけ第二十二 益田家文書之五

 本冊には第八十軸⑴から第九十三軸までの十五巻一冊、および補遺として第百十二軸の一巻、文書番号で九一七号から一〇七六号まで百六十点の文書を収めた。
 まず、本冊所収文書群を益田家における文書編纂作業上に位置づけてみると、『益田家文書之一』の出版報告で指摘したように⑵、六次にわたって行われた『益田家什書』編纂のうち、第八十七軸までは第三次整理分、その後の部分は第四次以降の整理分にあたる。第四次以降になると、益田元祥以前の文書を巻子装とする方針はうかがわれるが、現存する巻子編成から、文書整理の具体的な方針等を見出すことが難しくなる⑶。形態的にも巻子の形をとらないものがあり、本冊所収文書でも九十一軸は冊子、九十二軸はその中に三巻の巻子が含まれるといった状態である。本冊所収文書群を大きく分類すると、冒頭の第八十・八十一軸は、前冊所収の第七十二軸から続く部分に含まれ、知行関係の比較的長い文書類が適宜巻子とされている。その次の「古書簡時代未考并取集物共五十五通」と題簽のある二巻(第八十二・八十三軸)以降第八十六軸までの部分は、一部例外はあるが、案文も含めた益田元祥以前の文書をまとめようとした意図が読み取れ、「往古記録類」「古書簡写」などの題簽がついている。以上の第三次の整理では、最後に第八十七軸として、元祥に続く時期の家継承に関わる近世文書をまとめたと推測できる。益田家文書には、原則として巻子装にされ通番が付けられ、本所謄写本『益田家什書』(2071.73-8)に写された「什書分」以外に、一万八千点以上の未成巻文書・書籍等がある⑷。このなかには系図など、益田家にとって貴重な史料も含まれており、系図は什書からはずされ別途まとめられたと推定できるが、他の近世文書について、成巻し什書に含める基準が何であったのかは、前冊の出版報告でも指摘したように、今後考究するべき課題といえる。なお、本冊をもって、益田家文書のなかの益田元祥時代以前の文書、特に中世文書はすべて刊行されたことも付け加えておきたい。
 さて、文書の内容について、以下巻子の順を追って簡単に説明したい。
第八十軸・第八十一軸
 九一七・九一八号の永和二年卯月二十二日付の田数年貢目録帳は、記載方式、作成年月日、末尾に署判する者も同一で、両者合わせて考察するべき長大な土地台帳といえよう。益田本郷の土地台帳として井上寛司氏をはじめ⑸多くの研究で言及されているが、賦課内容等によって分類された土地の性格、公事物の内容・性格など、いまだ十分には解明されていない点も多く、今後の詳細な研究が望まれる。特に冒頭に花押を据える祥兼(益田兼見)が、どのような意味で袖判のような花押をここに据えているのか、永和段階でこうした土地台帳を作成指示するだけの十分な基盤を祥兼が有していたのかといった諸点については、さらなる検討が必要だといえよう。なお、九一七・九一八号とも、紙継目裏花押と同じ人物によって、全体的に計算値の誤りに対して修正が加えられている。
第八十二軸・第八十三軸
 両巻は、「古書簡時代未考幷取集物」を二巻に分けて成巻したものである。益田家文書成巻にあたっては、文書はその内容から歴代各当主にあてて分類し、文書中に当主の官途名のみ出てくる場合は、その内容からどの当主の時代なのかを推定している。「時代未考」とされた両巻所収文書は、そうした時代推定の手掛かりを明示的には持たないものといえる。一方、「取集物」とは、益田氏が集めた文書ということになる。家伝来文書は、その家が上部権力から得た権利文書をはじめ外部と交わした文書、譲状や置文など世代間あるいは主従間で交わされた家内部の文書から通常は構成される。その意味で、益田氏が本来の受領者・作成者ではない、他氏から入手した文書を「取集物」の語は意味すると考えられる。以下両巻所収の各文書について、時代や益田氏との関係について、やや詳しく考察したい。
 まず冒頭の九一九号文書については、大町基佐の官途名が文安二年三月三日大町基佐寄進状(豊楽寺文書)では山城守であることから、彦右衛門尉を名乗る本文書はそれ以前と推定できる。石見守護は応永十三・四年に道弘(山名義理)の在任所見があり(八二・五一八・五二一号)、応永十七年からは常勝(山名教清)が守護となっており、彼らのもとで沙弥色貞大町氏が奉行人として現れる。その後常勝の守護在任所見は益田家文書では応永二十九年(九七号)から文安元年(一〇二号)まで飛び、その間永享九年(一〇七号)・同十一年(一〇一・一〇八号)・同十二年(一〇九号)には山名煕貴の石見守護在任所見がある。すなわち煕貴が嘉吉元年六月の嘉吉の乱で死去後、常勝が再任されたと推測できる。大町氏は道弘・常勝等山名氏を主人としていた一族らしく、「建内記」には、山名氏被官として、嘉吉元年に大町六郎左衛門尉清守(七月)・大町河内(十二月)・大町山城(十二月)、文安四年五月には大町山城入道曽俊なるものが出てくる。この曽俊は大町基佐と推定でき、彼が嘉吉元年十二月には既に山城守を名乗っていた可能性が判明する。とすると基佐は山名氏家臣として煕貴のもとで守護奉行人を務めていた、つまりこの文書は嘉吉の乱以前、煕貴守護在任中に出されたものということになる。そこで、その期間で本文書に相当する事案を探してみると、永享十一・十二年に幕府・守護山名氏から和睦の命が出された益田・三隅・周布・福屋の御神本一族間の確執という事件(一〇八・一〇九号)が浮かび上がる。周布氏側には、この確執に関係すると思われる永享九年三月十八日周布氏親類・扶持人連署起請文(萩博物館保管周布文書)も残っている。これらの状況から、現時点では、本文書は永享九年から十二年頃のものである可能性が高いと考えている。
 次の九二〇号も極めて興味深い内容を有し、大内氏が分郡守護である吉賀郡(鹿足郡)の状況を示す重要史料である。益田氏と吉見氏はこの地域をめぐり長く争うが、吉賀郡の守護領田尻郷の在地領主下瀬氏から、守護領代官益田氏の家臣である下氏に出されたこの長文の書状では、大内氏・下瀬氏・石見吉見氏・本吉見氏(能登吉見氏か)らの動きが述べられている。下瀬氏のような在地領主は、自己の本領における権益を確保するため、益田・吉見氏らの間で戦略的に動いていることが、本文書からもうかがわれる。なお按文に記載したように、本文書は第二紙・第三紙の紙継目部分に墨痕が確認でき、何らかの修文・改竄の行われた可能性がある。
 九二二号の斎藤玄輔は、益田氏の所領安堵に関する幕府御教書を取り次ぐなど(一五号と五一〇号の関係など)、益田氏と懇意な幕府奉行人である。本文書でも、文中に見える「御感御教書」の発給を約しているが、これは按文に記したように、前年応永十一年の安芸国人一揆に際して益田兼家が守護山名氏利に従って出陣したことに対する感状と考えられ、この感状は八〇号文書として現存する。
 九二三号の安富元盛は細川京兆家重臣だが、九七五号端裏の記載では、享徳三年に益田氏の所領安堵のための文書目録を預かるなど、安堵御教書発給に大きな役割を果たしていることがわかる。本文書の文中「京都時宜中村方可被申候」とある中村氏は益田氏の雑掌で、在京し幕府等との折衝に当たっている所見が複数見える。先の九七五号益田氏什書目録の差出者はこの中村式部丞信為であり、本文書も享徳三年頃のものと推定できる。中村氏は、幕府関係者と考えられる長尾尹世の長禄二年書状(九六二号)充所では「中村美濃守」となっているが、九七五号と近接した時期なので、この「美濃守」も信為と推定した。なお益田氏は、安富元盛や前号斎藤玄輔のような上級権力の重臣や奉行人層である安堵仲介者に対して、かなりの額の礼銭等を送っており、これも益田氏の政治的戦略として注目すべきであろう。
 さて九二四号は、差出が「河田判官□家」と実名一文字分の解読が困難であった。文書中に「神馬」「巻数幷両所之御香水」とあるので、石清水八幡宮関係の可能性を探ってみると、永禄十二年七月二十七日善法寺雑掌三問状案(『大日本古文書 石清水文書(菊大路家文書)』四六七号)に「河田と申者、乍此方被官」と出てくる。また『史料纂集 石清水八幡宮社家文書』所収の「永正五年日々記」は、善法寺家の日次記であり、記主は「実家」なる者だが、彼は同時代史料に「右筆実家」と記す善法寺家右筆(執事)であることが、同書解題(鍛代敏雄氏執筆)に記されている。「実家」の名字は不明だが、九二四号文書の実名は「実家」と読むことが可能である。かつ「永正五年日々記」に、この年将軍義尹と共に周防から上洛した大内義興への対応が種々記述されていることからも、義興に従って上洛した益田宗兼が、石清水八幡宮祠官善法寺家の被官河田実家から本文書を得た蓋然性は極めて高いといえる。以上の点から、本文書の時代・差出・充所について注記したが、同時に「永正五年日々記」の記主は、河田実家といえるのでないかと考えている。
 次の九二五号文書の差出は「道城」で「三隅入道」とする押紙が貼ってある。他史料に「道城」の所見はなく、「三隅入道」としても信性(三隅兼連)とは別人であることは花押形の違いから確かであり、そもそも道城が三隅氏なのか自体が問題になる。充所の「徳屋遠江入道」は、応安五年八月十三日了俊(今川貞世)書下(益田實氏所蔵文書二五号)、永和二年閏七月八日室町幕府御教書写(古証文七)の充所となっている他、「得屋入道」として至徳二年八月十三日大内義弘預ケ状(長府毛利家文書「筆陳」所収)、本冊所収応永二年三月十九日右田弘直打渡状(九五七号)の充所となるなど、南北朝末期に幕府・大内方からの文書充所となっている人物である。ところで本冊の九四一号・九四五~九四七号の各文書から、「得(徳)屋郷惣領地頭」を称する岩田氏は、南北朝期には三隅氏と同じく南朝・足利直冬方で活動していたことがわかる。岩田氏イコール得屋氏と解釈すれば道城が三隅氏という解釈もありうる。しかし、益田家文書関係でみる限り、九三九号で得屋三郎兵衛尉が軍勢催促を受けているのは北朝方上野頼兼であるなど、得屋氏が南朝・足利直冬方で活動したとする所見は一切なく、道城を三隅氏とする積極的な理由は見当たらない。文書の内容からは、道城は大内氏の奉行人層の可能性があるといえよう。
 ここであわせて岩田氏関係文書についても触れよう。九四五号の証判は、吉川家文書一〇〇七号文書の沙弥信性(三隅兼連)裏花押と同形と判断し、信性とした。また岩田氏関係ではないが、九五〇号文書の「石見眼代職」を某氏に安堵している沙弥は、その花押形が九四五号とほぼ同形なので、これも信性の安堵状とした。他方、九四六・九四七号の証判には「兼忠」とあるが、この兼忠を益田氏と推定し、兼世の子兼直に比定する考え方がある。その根拠は、岩田氏関係ではない九四八号避状の差出が兼忠で、同文書中に「右所領(宅野別符地頭職)為兼忠重代本領之上」とあり、宅野別符は益田氏の相伝所領だから兼忠は益田氏とするものである。しかし、益田家文書を厳密に調べてみると、宅野別符を益田氏本領とする文書正文は、兼見の代になって初めて確認できるのであり、九四八号を以て兼忠を益田氏と確定することはできないといえる。益田氏が一貫して北朝方に与している点も、三隅兼連等と同じ南朝・足利直冬方である兼忠を益田氏とすることには疑問を感じさせる。よって兼忠についてはさらに検討が必要といえる。なお、益田家文書にこのように多数の岩田氏関係文書が入った理由についても考察する必要があろう。
 さて、九二七号は差出・充所ともに不明であるが、文中の「国久」が長野荘惣政所虫追氏であることから(六号より)、九三五・九四〇・九五三号と同様、虫追氏関係の文書であることが判明する。ここで虫追氏関係文書についてもまとめてみていこう。九三五号は、虫追政国軍忠状だが、証判は厚東武藤に比定されている⑹。また注目できるのは九五三号で、長野荘の領家に比定される卜部仲光⑺の惣政所職安堵状である。この文書から類推すると、九四〇号の袖判も領家あるいはそれより上の上級権力のものである可能性が強い。領家が明示的に出てくる文書としては、時代は下るが九六三号守護山名政清安堵状も注目できる。粟田社領長野荘豊田郷領家分について、領家蔵人大郎仲堯に返付を命じる文書だが、この仲堯も卜部氏と考えられる。
 次の九二八号は仮名消息で一部判読しがたい部分があるが、吉賀郡の吉見氏本領や「御台」と推測できる文言が出てくることから、石見吉見氏の実質的支配のもと、御台(日野栄子)御料所となっていた吉賀郡の所領について、御台側関係者からの仮名消息と推定できる。
 九二九号は北条時頼書状案で、類した文書の有無が問題になるが、時代的に若干下るものの、同型文書として正安元年七月十一日北条貞時書状(相模法華堂文書)などがあり、こうした文書が存在した可能性はあるといえる。文中「石見国御家人乙吉小太郎兼宗」とあるが、正嘉二年三月十八日関東御教書(長府毛利家文書)の充所は乙吉小太郎となっており、同一人物と推定される。なお、乙吉・土田両村安堵申請に係る乙吉氏の文書が益田氏に伝わった経緯については、さらに検討する必要があろう。また九三〇号は同じく乙吉氏関係の文書だが、差出・内容等ともに不明である。
 九三一号は石見邇摩郡の大家荘関係だが、大家荘については長府毛利家文書、周布文書、石見吉川家文書などに史料が分散している。また時代が十六世紀に降るが九七〇号小笠原長隆契約状の充所は大家氏である。こうした大家荘・大家氏関係文書が益田家文書に伝来した理由を究明する必要があろう。同様に、九四四・九五二号の田村氏、九四九号の河原氏の文書についても、長野荘に関係することから、益田氏が後から他氏所持の文書を入手した可能性など含め、伝来理由の解明が必要といえる。なお九五一号も同様な文書で、差出の「中務大輔」は不明である。
 次の九三二号の充所「弥次郎」は、益田荘内小弥冨地頭ということから、益田氏と同じ御神本一族の永安氏と推測でき、系図等から永安兼員と考えられる。兼員に関しては、益田家文書中に他にも永安兼員着到状(四九六号)があるが、永安氏関係と推定できる文書は、本号をはじめ本冊だけでも九三三・九三四・九五五・九五六号と複数にのぼる。永安氏は益田兼長の妻阿忍の実家三隅氏の庶家であり、兼長死後の所領配分によって阿忍分とされた所領の帰属をめぐり、応安年間に至って益田兼見と争ったことがわかる⑻。こうした背景を考慮しつつ、永安氏の文書がなぜ益田氏へ移動したのか、その契機を考える必要があろう。なお、永安氏の所領は永安祐賀女子良海とその弟兼員の間でも争われ、良海が吉川経茂に嫁したことから吉川家文書に関係史料が多数存在する。九三四号では、その良海と兼員が和与した所領に対して、別の祐賀女子が訴えている。
 九五八号の差出は三者共に人名比定できなかったが、充所の犬橋氏は山名氏家臣なので山名氏奉行人奉書とした。本文書には押紙があるが、内容については不明といえる。続く九五九~九六一号は掃部頭清宗が差出だが、内容から守護クラスの者が出した文書と推定でき、文明四年頃と推定される六二三号に「山名掃部頭殿父子」とあることから、清宗は山名氏とした。
 九七二号の一色清範は、八九五号[永正八年]十一月十九日一色清範・益田宗兼・仁木高行連署申状案(土代)で益田宗兼らと連署しており、同文書の端裏書に「江見兵部少輔出仕之儀、大外様衆以加判申上候案文」とあるように、益田氏とは大外様衆としての結びつきがあった。益田家文書の二六三号永正七年在京衆交名の「大外様衆」の箇所には、一色右馬頭・江見兵部少輔・仁木次郎・益田治部少輔の名がみえる。また九七三号の充所麻生上総介は、文安年間幕府番帳案(『大日本古文書 蜷川家文書』三〇号)の五番衆に見える奉公衆だが、彼は六九〇号伊勢貞遠書状で、貞遠と宗兼を仲介していることがわかる。在京中の宗兼はこうした幕府関係者との交流を重視し、細々とした関係書状類が益田家文書中には多く残されている。
 ここでは触れえなかった他の文書については、按文等に記した通りだが、特に両巻では一部が切断された文書が多く、充分に内容理解に至っていないものが少なからず存在する。以下簡単に記すと 九二一号は差出者不明で、充所も「美州殿」と一応解読したが不明である。「益田安堵」「御屋形」の文言より、安堵に関する守護被官書状と推測でき、年代も閏四月のある幾年かに絞られるが、他に内容を明らかにする手掛かりに欠ける。九二六号は差出が不明、九三六~九三八号は文書の一部が切断されていると推測できる。なお九三七号の文書名は、書き止め文言から書下とはせず奉書とした。九四二号も充所がなく、差出者不明の花押影と判断した。九六七号の足利義尹奉行人と推定される一人「左衛門尉」の実名も不明である。大方のご教示を乞う次第である。
第八十四軸
 本巻には証文目録が中心に収録されており、記載された文書が原本・案文で現存する場合は、その旨を注記した。既に触れたものを除いて本巻で特に注目できるものは九八〇号の証文目録である。冒頭「関東御下知 波多野家ヨリ譲証文」とあるように、益田氏は美濃地・黒谷の本主波多野氏と契約し、波多野家伝来の関東御下知・譲状等を入手して、それを自らの幕府安堵申請のための証文類に利用していた。按文にあるように、関係する八五六号では提出用の整えられた目録となっている。美濃地・黒谷が、石見吉見氏と益田氏との激しい抗争の対象となっていたためであろう。益田家文書に他氏文書が入る一つのあり方を、この波多野氏の場合が示しているといえよう。
 なお九八一・九八二・九八四・九八五号の什書年表・年号注文も興味深い。九八二・九八四・九八五号は帰洛後の永正十七年に作成されたものだが、自身の家に対する益田氏の歴史意識の高まりを象徴しているとも読みとれる。
第八十五軸
 本巻には益田元祥以降の近世文書が収められている。特に「惣家来中」充の九八六号は内容的に大変興味深く類例をみないが、文書名・年代をはじめ、さらに検討していく必要があろう。また九八九~九九三号は元祥が遺した道具類・金銀類を示しており、これも珍しい史料である。その後の史料は収録の基準がやや不明確だが、その中に、元祥父藤兼に関係する近世になってから作成された史料がまとめられており、その内一〇〇一号は、「七ツ尾御城」が出てくる点で注目されている。
第八十六軸
 本巻は中世文書の案文が中心であり、巻末の近世文書四点はむしろ次巻の直前の時期にあたるもので、本巻に収められた理由は不明である。また題簽には「三十二通」とあるが、これは単純に写されている文書数であり、本冊文書番号自体は、続紙に連続して写された複数文書は一つの文書番号とし、そのなかの各文書には子番号を付すという、大日本古文書の編纂方針に従っていることをお断わりしておく。なお中世文書の案文については、既刊何号文書の案文かをできるだけ示した。そのなかで注目されるのは一〇一六・一〇一七号である。按文に記したように、元になった原本と比べてみると、黒谷・美濃地関係の文言が明らかに意図的に付加されており、こうした案文が残された事情については別に若干の考察を行った。次に注目されるのは、一〇二一号の大内政弘母書状案である。続紙に七通の案文が記されているが、按文に記したように、六〇九号、七〇二~七〇六号、本冊所収の九六五号文書に相当する一部前欠の案文である。なかでも六〇九号の案文である(五)には、現在原本では欠けている「正月廿六日申候、大まいる」の部分が写されており、ここから既刊六〇九号文書の按文で「文明三年末ノ頃」と推定した年次は、「文明四年正月廿六日」と訂正しなければならない。また一〇二一号の紙継目裏には印を抹消したような汚れが存在するが、これも不明である。
第八十七軸・第八十八軸
 すべて近世文書であり、家継承の危機ともいえる寛文三年の益田就宣養子問題、延宝八年の益田兼長末期養子問題、そして就宣弟で他家養子となっていた益田就祥(就恒)の益田家家督継承およびその養子問題に関する一連の文書が収められている。元祥―元尭―就宣と継承されてきた益田家では、就宣子が次々早世するなかで就宣養子問題が生じるが、種々の事情から養子は実現しない。その後出生した実子虎之介(兼長)が就宣死去後幼くして家督継承するが、延宝八年危篤となり末期養子問題が生じる。この時の江戸・国元の一族・親類や毛利家重役の人々の間で交わされた文書は多数に上り、世襲で継承される家の危機の内実と、その時どのような範囲の人々が親族として関与するのかがうかがわれて興味深い。その点で、元祥の子息一族はもちろん、元祥女子の嫁ぎ先一族も含めた人々が関与している点が注目できよう。結局末期養子は認められ、他家に養子に入っていた就宣弟就祥の幼い子息久之允が家督継承し、就祥は益田家に戻って代役となる。しかし貞享元年には久之允も早世し、代役である父就祥が家督継承するも実子はなく、元祥四男就之の孫である就賢を養子とするところで八十七軸は終わる。この間就祥(就恒)の養子として毛利綱広子息を迎える話が生じ、結局実現を見なかったその経緯に関する文書も八十八軸に収められている。
第八十九軸
 天文十一年八月に交わされた陶隆房(晴賢)と益田尹兼との契約状、およびその時交わされた両者の書状である。この文書巻子がなぜこの位置にあるのかは不明である。
第九十軸
 按文に記したように、『益田家什書』では「益田家於石州被官中間書立」が写されているが、現在は嘉永六年と推定できる文書一通が「益田家文書九十」の押紙を付して存在するだけで、本来の文書は不明である。什書作成から益田家文書の什書分が史料編纂所に寄託された一九五八年までの間に、何らかの事情で流出したものとみられる。
第九十一軸
 冒頭に「庄内所々田数注文」とある冊子で、『益田家什書』で「九十一」として写されている。庄内(長野荘)の吉田・豊田・市原・得屋・須子・安富・高津の各領家分と小坂分・下黒谷分に分かれ、それぞれ田数・人名が記載されている(高津領家分・小坂分については「百姓」何人の記載と人名のみ)。井上寛司氏は天正十九年の惣国検地を受けて給地を家臣に配分したもので、天正十九年のものと推定している⑼。本文書は記載内容が一様ではなく、何故この地域がまとめられているのかといった点も不明で、さらに検討して位置付けていく必要があろう。
第九十二軸
 『益田家什書』で冒頭「藤兼公 元堯公 就宣公 就恒公 御直筆物」と記される通り、元祥を除いた中世末期から近世初期の益田家当主四人について、譲状・置文、それに類した自筆文書を三巻にまとめたものである。自筆だけに家に対する当主の思いが記載されている点で興味深い史料といえよう。
第九十三軸・補遺第百十二軸
 益田家文書にて「牛庵一代御奉公覚書」と題簽にある文書は二点あり、一点は既刊四六一号(第四十六軸)、一点は本冊の一〇七五号(第九十三軸)である。後者は牛庵(益田元祥)孫無庵(元堯)が戌の卯月に、従弟にあたる堅田就政と益田就固、それに繁沢家養子となった自身の子息就充に書き与えたものであることが明らかである。戌年については、元祥没年が寛永十七年、元堯没年が万治元年十月なので、その間の戌年とすると、死去の年万治元年より正保三年が適切かと推定した。今後益田家一門の中心となっていく人々に対して、祖父元祥の毛利家に対する奉公・事績を、この時点で元堯の立場から書き記し与えたものと位置づけられよう。両方の覚書を比較してみると、大筋の内容で重複する部分があるとはいっても、前者には詳細に記載されている小早川氏臣であった元祥子息益田景祥の話が後者にはないなど、話の内容・順序・分量・文章には大きな違いがある。元堯筆記のものは秀吉時代の奉公話が特に膨らませて記載されていること、元祥および先祖伝来の諸道具に関する由緒書が加わっていることなどに特徴がある。一方、前者牛庵自身が記した奉公覚書については、いつどのような目的で作成されたのかが充分に解明されていなかったが、その点を明らかにする史料が補遺として収めた一〇七六号である。これは『益田家什書』では「百十二」として収められているが、その題簽にも記されているように、牛庵覚書に添えた神文であり、原本調査の結果も、継目裏印などから四六一号に接続することが確認できる。本来この起請文は四六一号に併せて収めるべき史料なので、軸の順序を越えて、本冊に補遺として収めた。この牛庵血判と思われる起請文の内容を読むと、寛永十一年の冬頃から、牛庵に逆意ありとの讒言があり、毛利家当主秀就も同意しているかに見える、もともと毛利家内部には元祥を疑う者がいたが、毛利輝元は取り合わず親しく召し使ってくれた、ここに記した自身の奉公の次第を、輝元女子で吉川広正に嫁した「御屋敷様」と広正に取り次いでほしいと述べ、吉川広正臣今田氏と輝元女に使える女房充に起請文をしたためたことが読み取れる。つまり四六一号は、寛永十二年に、具体的な状況に際し具体的な目的を以て、牛庵益田元祥によって作成されたものだと結論できる。吉川家に嫁した輝元娘を頼ったのは、彼女が輝元に大変愛された毛利家内でも特に存在感のある立場であったことや、牛庵のことをよく承知している人物であったためかと推測できる。同時に、女性を介して申し入れるという点では、(天文十九年)毛利元就井上衆罪状書(『大日本古文書毛利家文書』三九八号)の充所が「尾崎つぼね」(隆元夫人大内(内藤)氏)であることを想起させ、毛利氏における女性の役割とその伝統をも示唆している。血判の誓紙が益田家文書中に残されていることから、実際には提出されなかった、あるいは益田家に帰された可能性なども考えられよう。

 最後に、本冊に収載できなかった残りの益田家文書什書分については、その画像を史料編纂所データベースより公開していることを付記する。なお、膨大に存在する近世分についても、今後同様な形で、既存の目録・画像の公開が計画されよう。
 注
 ⑴益田家文書の巻子は、題簽の記載によって従来から「巻」ではなく、「軸」と呼びならわされているので、以下本稿でも「軸」を用いる。
 ⑵『東京大学史料編纂所報』第三五号、二○○○年。
 ⑶久留島典子「益田家伝来の中世史料」(『科学研究費研究成果報告書 大規模武家文書群による中・近世史料学の統合的研究』二○○八年)においても文書整理の詳しい経緯について考察した。なお、そこでは什書に写された部分を「什書分」とし、それ以外の益田家文書と区別した。
 ⑷益田家文書の近世史料については、宮崎勝美「益田家伝来の近世史料」(注⑶科研報告書収載)を参照のこと。
 ⑸井上寛司・岡崎三郎編『史料集 益田兼見とその時代』(益田市教育委員会、一九九四年)。
 ⑹『長門国守護厚東氏発給文書』同書編集委員会編(山口県地方史学会、二〇一四年)。
 ⑺西田友広「中世前期の石見国と益田氏」(『石見の中世領主の盛衰と東アジア海域世界』島根県古代文化センター、二〇一八年)。
 ⑻久留島典子「益田氏系図再考―史料編纂所寄託益田氏関係系図の紹介と考察―」(『東京大学史料編纂所研究紀要』第二十九号、二〇一九年)。
 ⑼井上寛司・岡崎三郎編『史料集 益田藤兼・元祥とその時代』(益田市教育委員会、一九九九年)一六八頁。
(例言三頁、目次一五頁、本文三八八頁、花押一覧一〇丁、本体価格九、八〇〇円)
担当者 久留島典子

『東京大学史料編纂所報』第56号 p.54-60