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所報 - 刊行物紹介

大日本古文書 家わけ第十九 醍醐寺文書之十七

 本冊には、前冊に引き続いて、醍醐寺文書(醍醐寺所蔵)の第二十五函一号から第二十五函一九八号に相当する文書を、整理番号の順に収めた。本冊における文書番号は第三八四八号から第四〇九〇号までである。
 本冊所収文書の年代は、南北朝・室町時代のものを中心に、文禄・慶長期にまで及ぶ。
 第二十五函に相当する文書は、全体としてまとまった性格があるものではないが、第三八四八号から第四〇六〇号までは、おおよそ年代の古い順に並んでおり、近代の史料整理の段階である程度意図的に整理番号が付与されたものと推測される。
 内容の面で、ある程度まとまった史料としては、丹後国志楽荘朝来村関連(第三八六一〜三八六五号)、上醍醐行樹院および院領関連(第三八七九号、三九二九号、三九三〇号、三九三二〜三四号、四〇〇三号、四〇一一号、四〇五二号、四〇五四号、四〇五九号)、上醍醐常念坊相承関連(第三九〇二〜〇四号、四〇五七号、四〇五八号)東寺講堂修正関連(三九六五号、三九六六号、四〇三九号、四〇四六号、四〇四七号)などがある。
 また、高野山金剛峯寺検校職の補任に関する史料がまとまって見られるが(第四〇六一〜七二号)、これは金剛峯寺内で独自に補任していた検校職を義演が東寺長者の補任に改めたために残されているもので、後で触れるように、義演自身の筆によるものが含まれている。
 さらに、等持寺で開催された武家八講に関しても、いくつかの史料が存在している。第三九一五号・三九一六号・同紙背は、参加した公卿・殿上人の交名であるが、いずれの交名においても公卿のうち定親のみが官職・敬称を略して記載されているので、奉行を務めた中山定親の記録とみられる。第三九一七号・三九一八号・三九二二号は、法会に参勤した僧侶の交名であるが、このうち三九二二号は仲承という僧が自身の参加記録を記したものと思われる。第三九二五号は、某所に所蔵されていた八講関係の記録の目録で、応永二十一年の記録が見えていることから、少なくともそれより後の段階のものである。
 そのほか注目される点としては、義演の筆による史料の写しや覚書が多数みられ(第三八七四号、三八七五号、四〇〇六号、四〇二三号、四〇六七号、四〇六八号、四〇七一号、四〇七三〜七八号、四〇八〇〜八二号)、按文に明記するには至らなかったもののあるいは義演の筆かと疑われるものもいくつか存在する。これらの多くは備忘のための控えとして残されたものと思われるが、一部は、義演が『醍醐寺新要録』などの編纂物を編む際に資料として活用された可能性がある。
 なお、第二十五函は未了であり、次冊に続くものである。
(例言三頁、目次二〇頁、本文三四六頁、花押・印章一覧六丁、本体価格九、五〇〇円)
担当者 高橋慎一朗

『東京大学史料編纂所報』第56号 p.54