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所報 - 刊行物紹介

大日本近世史料 市中取締類集 三十一

 本冊には、旧幕府引継史料の一部である市中取締類集のうち、芝居・床見世之部一冊のうちの芝居之部と、芝居所替之部二冊を収めた。
 芝居之部には、嘉永二年十月から同六年九月までの一一件を収める。嘉永二年十月、猿若町三狂言座は、顔見世狂言を来正月へ繰り延べて実施することを願い出、当年限で許可された。しかし翌年には前々の仕来りに戻った(第一・五件)。同年十二月、町火消は組人足等と三丁目権之助芝居出方の者が芝居前で口論、人足一名が負傷した。翌日、組合人足の若い者が聞きつけて仕返しの動きがあり、大勢で押しかけてくると勘違いした出方の者が南町奉行所へ駈込訴し、奉行所の見分を受けることになった。結局この件は、組合頭取・芝居座元の手で一部の者を処分し決着した(第二件)。嘉永三年二月、一丁目狂言座勘三郎は、興行の際芝居前往還に桜を植付けたいと願い出たところ、前例があるにも拘わらず、海老蔵赦免の折柄「俳優之事寛過候様風聞候而者如何」との判断により認められなかった(第三件)。その海老蔵と三丁目座元権之助は、同年八月、与力の芝居見分で「目立候衣装」を摘発された(第四件)。同年十一月から十二月にかけ、勘弥と羽左衛門の代替わりがあった(第六・七件)。嘉永三年十二月から五年四月にかけ、かねて困窮していた操座は、大破した建物を取崩して置くことを認められたが、他所稼ぎの願いは却下された(第八~一〇件)。嘉永六年九月、一丁目勘三郎芝居仕組の内に鍋島家に紛らわしい名目を取り交ぜている旨、同家留守居から申し出があり、興行前に仕組を引き替えた(第一一件)。
 芝居所替之部の配列は年代順ではなく、以下のように内容毎の一件が並んでいる。天保十二年十一月、老中水野忠邦から芝居場所替と取締について諮問を受けた北町奉行遠山景元は、移転に反対の意見を述べた。しかし風俗取締を理由に芝居町移転は決定され、十二月、狂言座・操座等への申渡が行われた(第一件)。町奉行所では、木挽町芝居移転の引料・御手当残金を猿若町地主に割渡し、地代・店賃の引き下げを命じさせることにした(第二件)。猿若町一丁目~三丁目の町名は天保十三年四月二十八日に遠山から町行事に伝えられ、一丁目・二丁目の地所割渡しは同年六月九日、同十九日から普請取りかかりとなった(第三件)。猿若町の家作は塗家造りとすべきところ、申渡以前から用意されていた木組もあり、当面は惣体瓦葺で容認することとした(第四件)。町奉行所では猿若町三芝居狂言座取締につき、従来申渡してきた内容を厳しく守るよう、関係者に申渡した(第五件)。以下、非常手当火消人足の取り決め(第六件)、入口木戸へ雨覆いを付けることは不許可(第七件)、猿若町非常口に関して浅草寺地中町医玄貞なる者を隠密廻が摘発(第八件)、狂言仕組・看板・衣装等を事前に月番役所へ提出のこと(第九件)、操座人形遣い旅稼ぎ許可(第一二件)、操人形ヘ歌舞伎役者子供出演許可(第一三件)、役者共地借店借の節素人の受印禁止(第一四件)、猿若町芝居茶屋が遠方からの客を止宿させた一件(第一六件)、勘三郎狂言を悴へ譲渡一件(第一七件)、狂言座羽左衞門熱海へ湯治願(第一八件)、猿若町名主沽券状継書は三町で認め方を同じにすること(第一九件)、などを収める。猿若町三丁目狂言座の興行をめぐっては、借財の嵩んだ森田勘弥の櫓を引き受け河原崎権之助が十年間の興行を許可されてきたが、その間に勘弥が死去し名跡の相続についての出入が吟味中であったため、年限後も権之助による興行の継続が認められている(第二〇件)。風俗取締の観点から、在方では三都からの旅役者を抱え入れて興行することが禁じられ(第二一件)、江戸でも猿若町以外で旅役者を置いたり興行したりすることが取り締まられた(第二二・二五件)が、嘉永二年には湯島天神社境内での子供手踊興行が許可されている(第二九件)。在中の芝居興行の取締方については、勘定奉行から町奉行に掛合が行われている(第二七件)。猿若町では夜分の家業がない上、芝居の休座中には芝居関係者が他行し風俗にも関わるとして町内での寄場渡世の開始願が出されたが許可されなかった(第二三件)。猿若町に狂言座と操座が移転してから、見物人は歌舞伎の方に集まり操座は不入りとなったため、操座の座元が居宅で丸薬商を願ったが許可されず(第二六件)、市中寄場で興行する浄瑠璃太夫に町内で人形芝居に取り組むよう命じることを願う願書も出された(第二四件)。猿若町では掛名主が狂言座と操座での芝居衣装を事前に見分して問題ない旨を上申したほか、同町での事件の報告にもあたっている(第二八件)。
(例言一頁、目次二二頁、本文三七四頁、本体価格一〇、三〇〇円)
担当者 鶴田 啓・杉森玲子

『東京大学史料編纂所報』第56号 p.49-50