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大日本近世史料 廣橋兼胤公武御用日記 十四

 本冊には、明和元年(一七六四)十二月より同三年二月までの「公武御用日記」と、同二年正月より六月までの「明和二年東行之日記 江府日光」を収めた。
 明和元年の兼胤は五十歳。官位は前冊と同様、権大納言・正二位である。本冊における兼胤の年頭勅使としての関東下向は明和二年三月十三日から五月十八日までの間である。この年の年頭勅使は大嘗祭祝儀の勅使・女院使・親王使・准后使を兼ねており、さらに年頭挨拶等を江戸で行った後に、徳川家康百五十回忌に参列するため日光へ赴いている。三月十三日に京都を出立し、二十五日に着府した。登城は二十八日であり、まず殿上間にて御台所への大嘗祭祝儀を老中に伝達し、次いで白書院へ移動して将軍と対顔し、将軍・世子への年頭・大嘗祭の祝儀を伝達した。その後は例年通りに能見物の登城や御三家への使者を勤めた。四月一日には水戸徳川家世子徳川治保が在国中の父徳川宗翰の名代として兼胤宿所を訪問したが、その際に先例に反して門外ではなく門内にて下乗するという事件が発生した。これに対して兼胤は、治保が幼年であり、従者が不案内であったための心得違いであり、以後の例とならないようにすべきことを高家へ申し入れている。
 兼胤・姉小路公文の武家伝奏二人は四月六日には江戸を発ち、日光へ向かった。越谷・古河・宇都宮に宿泊し、九日に日光に到着している。往復ともに江戸・日光間の宿駅は代官によって準備が整えられており、兼胤も江戸の馳走所と同様の応接を受けている。武家伝奏以外の法会に参加する公家衆は京都から直接日光へ赴いており、四月十日から十五日にかけて日光に到着した。十五日に法会が行われる場所を下見し、十六日には贈経使が天皇・女院・親王・准后からの贈経を幣殿に納めている。十七日は東照宮奥院で行われた八講に将軍名代井伊直幸・世子名代酒井忠望などとともに両武家伝奏も参列した。十八日には本社で行われた御経供養に参加し、鷹司輔平以下の公家衆とともに拝殿に着座した。十九日には本地堂で行われた曼荼羅供に参加した。十八日・十九日ともに、導師は輪王寺宮公啓入道親王が、証誠は青蓮院宮尊真入道親王と梶井宮常仁入道親王が勤めている。法会の終了後、兼胤は二十一日に日光を出発し、二十四日に江戸に到着した。その他の参列公家衆も順次出立し、江戸に向かっている。五月一日には江戸城へ登城して将軍と対顔し、日光登山の御礼を申し入れた。四日にも登城し、将軍より年頭・大嘗祭祝儀への返答や勅会法事への御礼を申し渡されている。六日に帰京の途につき、十八日には京都に到着、将軍などからの御請を言上している。日光へ出立する前の四月三日には、江戸帰着後に参向中の公家衆等による楽の演奏を将軍が所望していることが高家より伝達されており、兼胤が京都へ出立した後の五月九日に江戸城にて管弦の演奏が行われた。鷹司輔平と正親町公明が笙を、平松時行が篳篥を、四辻公亨が笛を担当し、他に楽人も参加して、万歳楽などの曲目が演奏された。
 次に本冊における人事を確認しておきたい。明和二年十月十六日に植松賞雅が所労により議奏辞退を願い、二十四日に勅許され、二十五日に所司代の了承を得ている。跡役には同日、櫛笥隆望が任じられている。同年十二月十九日には飛鳥井雅香が所労により議奏を辞し、大原重度に跡役が仰せ出され、二十二日に所司代の了承を得ている。また、大原がそれまで勤めていた准后肝煎には四辻公亨が任じられた(明和二年十二月二十二日の条)。
 前冊中の宝暦十三年十二月、近習の不足に対応するために増員が決まり、十二月十九日に六人、宝暦十四年八月一日に二人が追加されたが、本冊中でも引き続いて増員が進められている。明和二年八月一日に芝山持豊・東坊城益良、九月二十日に冷泉為栄・烏丸光祖・中院通維、十二月十九日に石井行文、明和三年二月十九日に葉室頼煕が近習に加えられた。この間、明和二年八月一日に錦織従房は近習を免ぜられている。明和二年八月二十二日には堀川康実と花園公純が病気により親王附を免ぜられ、十月八日には親王肝煎が姉小路公文から葉室頼要に交代している。葉室は二宮(伏見宮貞行親王)の御世話を勤めていたが、明和三年正月二十七日に免ぜられ、大原重度が替わりに二宮御世話に任じられている。このほか、下﨟伊予の壬生盈子から壬生泰子への交代(明和元年閏十二月二日)、柳原光房弟の小児への召し出し(明和二年七月二十八日)、非蔵人番頭の鴨脚能光から大賀宗恵への交代(明和二年十二月十九日)などがあった。また明和元年閏十二月二十二日には、京都町奉行が松前順広から太田正房へ交代している。
 朝廷内の出来事として目立つものに、松殿家の再興に向けた動きがある。松殿家は十二世紀に松殿基房によって興された家であり、摂関家に匹敵する家格であったが、戦国期に断絶した。江戸幕府成立後の寛永期に九条幸家の三男道基が幕府から千石の知行を得て再興したが、道基の死により再度断絶していた。明和二年二月二十八日、九条尚実は次男武丸(後の松殿忠孝)に相続させて、九条家を再興したいとの願書を武家伝奏に差し出した。寛永期の再興では摂関家の家格であったが、この時は清華家同等に左大臣へ昇進できれば本意であり、家領も幕府からの新知ではなく、九条家から三百石を分知するとしている。三月十一日に兼胤は九条からの願書と摂政からの書付を所司代に提出した。そこでは延宝六年(一六七八)の醍醐家(清華家)の立家を先例とした再興を願っている。七月一日には所司代から幕府の意向が書付で伝えられた。書付の内容は、醍醐家の立家は後水尾法皇の叡慮によって実現されたものであり、今回の再興の先例とはできないため、適切な先例を他に選ぶべきこと、九条家の知行からの分知で支障はないのかということであった。これに対して、今回の再興も天皇の思召とする予定であること、九条家は知行が減少しても差し支えないことを、七月十九日に所司代へ書付で伝達した。これを受けて、幕府から御内慮伺いを達するようにとの連絡があり(八月二十三日の条)、九月二日に兼胤は御内慮書を所司代に渡している。十月十八日には幕府から九条家再興を認める旨の返答があった。同月二十九日に松殿家の再興が兼胤から九条尚実に伝達され、同日中に摂家・大臣家・清華家・親王三卿・小番頭・親王家・諸門跡へ伝えられている。十二月九日には、参内の際の伺候所など松殿家の家格について摂政から示され、十一日に親王家・清華家・親王三卿・武家伝奏の同意を得て決定されている(松殿家再興については、長坂良宏『近世の摂家と朝幕関係』(吉川弘文館、二〇一八年)を参照のこと)。
 准后の別殿への転居に関連した動きも目を引く。明和二年正月十一日、准后が薙髪後に移る別殿の敷地を吟味するようにと兼胤は摂政から命じられた。兼胤は取次に敷地の吟味を命じ(正月十二日の条)、取次は候補地を東西二箇所選定して図面を提出している(正月十六日の条)。東側の候補は正親町家・白川家・七条家・万里小路家・甘露寺家・櫛笥家の屋敷と礼成門旧地を用いるというものであり、西側の候補は御舂屋と今出川家・施薬院家の屋敷を用いるというものであった。正月二十二日、西側の候補地を採用したいこと、幕府へは両候補とも伝えた上で西側となるようにすべきことが摂政から命じられている。二十九日に兼胤は所司代へ絵図を持参している。五月十九日に幕府からの返答があり、施薬院家の敷地を利用することへの異論や凝華洞を利用しないことへの疑問、堂上の屋敷替の場合に幕府からの手当が必要であるかなどの問い合わせがあった。これに対して七月十九日に、候補地を変更して、清水谷家・中院家・西園寺家・中御門家・綾小路家・高倉家・六条家・小倉家の屋敷地および曇華院里坊・花畑を利用したいことを所司代へ兼胤は伝達している。九月二日には幕府から表向き申し入れるようにとの返答があった。この時、屋敷を供出して替え地に移転する諸家へは新屋敷の建設費用が下されることも連絡されている。この後、移転予定の諸家へ替え地として承秋門院の旧地が下されることが決定され(九月十五日の条、十月十三日の条、十一月十日の条、十一月十一日の条)、承秋門院旧地の諸家への引き渡しも進められた(十一月十八日・二十日・二十二日・二十六日の条)。並行して、准后の別殿の建設準備も進められていた(九月十五日の条、十一月二十日の条)。十月十四日には平松時行および修理職奉行の油小路隆前・園池房季・大原重度が別殿指図御用掛に、吉田兼彦・松尾相連・吉見永叙が御用掛非蔵人に任じられ、同十六日には取次の土山武真・町口是彬が別殿指図掛に任じられた。十二月二十五日には指図が完成し、兼胤は所司代へ提出している。明和三年に入ると、幕府側の普請御用掛が定められ、さらに別殿の板囲いや門前の通りの幅、門の構造など細かな仕様が幕府との間で定められていくが(明和三年正月十九日の条、二月十九日・二十二日の条)、その一方では御殿の間数について幕府から減少を要請されてもいる(正月十九日の条)。
 そのほかの朝廷内の出来事としては、(イ)財政の不足に関する問題、(ロ)英仁親王・准后・二宮の体調不良、(ハ)禁裏小番・非蔵人の勤務状況に関する問題、(ニ)僧官の執奏をめぐる大覚寺門跡と仁和寺門跡の対立があげられる。
 (イ)については、まず前冊から続く大嘗祭に伴う祈祷のための支出による財政逼迫への対処があげられる。明和元年十月に五百両が幕府から取替金として給付され(前冊明和元年十月十七日の条)、さらに五百両が給付される予定であったが、これを減額したい旨が幕府から伝えられている(明和元年閏十二月二日の条)。その後どのような交渉があったのかは不明だが、閏十二月二十六日に五百両が禁裏附から届けられている。さらに明和二年十月には、天皇の有卦入および天仁遠波伝授に関連した祈祷や親王の不例に伴う祈祷などによって支出が五百両増大したため、その分を関東より補填してほしい旨を禁裏附に相談し、台所向きの取替金に付け加える形で進上することに決まっている(十月十七日・二十五日の条)。准后方でも財政不足に陥っており、明和元年閏十二月二十一日に禁裏附と相談がもたれた。関東へ連絡していては間に合わないと判断され、五百両の要求を三百両に減額した上で、在京役人の判断により例月の取替金の臨時分として処理することに定められた(閏十二月二十一日・二十二日・二十五日の条)。明和二年五月二十四日には、准后は二宮と同居しているために物入りが多く、毎年の支出過多が予想されるので、幕府から財源を手当てするか、または取替金の提供を毎年行うかのどちらかに定めてほしい旨の願いが准后方から出された。この願いについて所司代へ掛け合ったものの幕府から返答はなく、結局年末近くになってから所司代と交渉がもたれ、前年と同様に取替金を准后方から願い出るという形で処理された(十一月十五日・十六日・十七日・二十六日の条)。
 (ロ)については、明和二年九月十三日に山科泰安と武川建徳の医師両名へ親王の拝診が命じられた。武川は町医者であるため、町奉行に吟味が申しつけられている(九月十四日の条)。同月十六日には武川が拝診した親王の容態を天皇へ言上し、摂政にも申し入れるなど、ある程度重い病状だったと推定されるが、十月八日には回復したようであり、床払いの祝いが催され、親王の治療にあたっていた大塚文安・生駒光長・山科泰安へ褒賞が申し渡されている。しかしこの後も親王の体調不良は続き、十月二十五日に大塚文安は投薬の効果がないため診察を免ぜられ、代わりを山科泰安が命じられている。同時期に准后・二宮も体調不良になっており、大覚寺門跡へ親王・准后・二宮の快復の祈祷を命じている(十月廿四日の条)。親王・准后の病状は不明だが、二宮は眼が不調であり、眼科の原田尚現が拝診を命じられている(十月二十九日の条)。
 (ハ)については、欠けることなく禁裏小番を勤めている者へ褒美を下すこと、小番の勤務を怠っている者が多いので禁誡を申し渡すべきこと、小番勤務に懈怠が多い者は官位の沙汰に及ぶ場合もありうることが、十月十三日に摂政から仰せ出されており、翌十四日には非蔵人も勤番を懈怠無く勤めるようにと非蔵人奉行へ兼胤が申し渡していることを確認できる。
 (ニ)は普賢院と迎接院の住職が明和元年に大僧都の宣下を受けたことによって発生した問題である。両僧が先例を破り正官の宣下を受けたこと、さらに大覚寺のみが執奏し、仁和寺へは届けがなかったことを、仁和寺門跡守典入道親王が問題視し、幕府が吟味した上で両僧を処罰することを求めた。摂政は仁和寺と大覚寺との確執が発生することを懸念し、山科頼言に取りなしを命じている(明和二年十二月十六日の条)。
 朝幕間の出来事としては、将軍世子竹千代の元服に関わる交渉が目立つ。明和二年十月十三日に諱として「基」の文字を用いることに朝廷側に支障はないか問う書面を所司代から渡され、翌日に問題ない旨を書面で伝えている。十二月九日には諱が家基となったことが所司代から伝えられた。その間の十月二十二日には、竹千代は冬の間に着袴を行い、元服は翌年四月であること、高倉永範に元服調度の調進を命ずべきことなどを伝える老中奉書を所司代から渡された。これをうけて兼胤は老中奉書を披露し、従二位・大納言を宣下するという御内慮を幕府へ伝達するように命じられている。十二月十二日には竹千代の官位宣下の日時の内勘文が摂政から示され、兼胤は所司代へ内々に問い合わせている。この際、官位宣下は元服の前月にするのが先例ではなかったかと申し入れたところ、念のため元服前月の吉日も選定してほしいと所司代から依頼されたため、十八日に元服前月についての日時勘文も伝達している。翌明和三年正月十八日には、官位宣下は二十四日を除く三月中から選定してほしい旨が所司代から伝えられている。十二月十九日には、元服・官位宣下のために関東へ参向する者が定められ、衣紋の高倉永範、身固の土御門泰邦以下へ内意を申し渡している。
 そのほかの出来事としては、吉田家・土御門家からの諸社禰宜神主法度の再触願いとその却下(明和二年五月十九日の条、七月十九日の条)、幕府から進献された氷砂糖の壺の不備による賄頭など禁裏役人の処罰(明和二年七月二十四日の条、八月十七日の条)、御所周辺地域の河原での大花火を禁止する幕府触(明和二年九月九日・十日の条)、閑院宮典仁親王の屋敷地拡張のための拝領願い(明和二年九月十九日の条、十月十四日の条)、乱心者の御所内侵入とそれに伴う門番の処罰(明和二年十月三日・四日・五日の条)、美濃国の紙漉きが図書寮の支配を願い出るも京都の紙漉きが許容できないと主張したため、町奉行所で詳細に調査することになった件(明和二年十二月七日の条)、神今食・大嘗祭・新嘗祭解斎での調進の再興についての内膳司からの願い出(明和三年正月十三日の条)などがあった。
(例言一頁、目次二頁、本文三一五頁、人名索引四一頁、本体価格一一、〇〇〇円)
担当者 荒木裕行・松澤克行

『東京大学史料編纂所報』第56号 p.50-54