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所報 - 刊行物紹介

正倉院目録八 続々修三

 本冊は、正倉院文書の原本調査の成果を断簡ごとの目録として刊行する 『正倉院文書目録』の第八冊で、二〇一五年四月に刊行した『正倉院文書目
録七 続々修二』に続き、正倉院宝庫に伝存する正倉院古文書の続々修古文書(続々修)のうち第八帙から第十二帙まで全八〇巻を収録した。
 続々修古文書は、現状で第一帙から第四十七帙まで合計四百四十巻・二冊からなり、帝室博物館編『正倉院古文書目録』では、第一類・写経類集(第
一~十一帙)、第二類・経巻歴名(第十二~十六帙)、第三類・諸司文書(第十七~十八帙)、第四類・経師等手実行事上日(第十九~二十八帙)、第五
類・筆墨紙(第二十九~三十七帙)、第六類・食口(第三十八~四十帙)、第七類・布施用度雑器雑物(第四十一~四十四帙)、第八類・雑文書(第四十
五~四十七帙)に類別されている。本冊に収録した第八帙~第十二帙の帙ごとの内容は次の通りである。
    第一類 写経類集
     第八帙 千四百巻経幷金剛般若経(二〇巻)
     第九帙 仁王経及寿量品(一三巻)
     第十帙 灌頂経梵網四分律及最勝王経(二九巻)
     第十一帙 私写経(七巻)
    第二類 経巻歴名
     第十二帙 経巻歴名上(一一巻)
  続々修第八帙には、千手千眼幷新羂索薬師経(千四百巻経、天平宝字二年)、金剛般若経(写千巻経所、天平宝字二年)、後金剛般若経(天平宝字二年)等の書写に関する書面が見える。この中で、続々修八ノ十三の金剛般若経紙充帳は、紙長五一・二センチ程度の料紙八枚からなる口座式の紙充帳で、右端に軸があって巻き取られて使用されたことが、裏面に何カ所か残る文字の墨うつりから判明する。それとともに、各紙の左右中央と紙端(継目)に縦折目が明瞭に残っており、折目に沿って筋目状に料紙が傷んでいる箇所が多くみられる。この折目は、料紙の半分ほどの幅で折本状に折り畳んだ形で本帳が使用(記帳)されていたことを示している。巻き取りから折り畳みへ、あるいはその逆に、使用時の形態の変化がうかがえる事例である。
 続々修八ノ二十⑴~⑼は、表は連続する後金剛般若経食物用帳を構成し、⑶第3紙(巻首から第5紙)の裏に、案主佐伯里足が記した鳥の絵の封があることで知られている。(大平聡「正倉院文書の五つの『絵』―佐伯里足ノ ート―」〔『奈良古代史論集』二、一九九一〕、山本幸男「正倉院文書に見える「鳥の絵」と「封」―写経所案主佐伯里足の交替実務をめぐって―」〔同『正倉院文書と造寺司官人』法蔵館、二〇一八、初出一九九二〕)。写真等からの観察により、鳥の絵は、巻き取った状態の帳簿を紙紐などで結び、その上から記されたものと指摘されている。今回、原本を検じたところ、鳥の絵の右端に紐を通すための紙面を貫く穴(縦一・四糎、幅〇・二糎)があること、穴の位置に縦の折筋が天から地まで通っていて、料紙がそこで折り返されていたことが判明した。絵に用いた顔料(朱)のうつりが、折筋を対称に絵の反対側の料紙に残っていることから、折り返しは鳥の絵の上にかかるものであったと考えられる。以上から、巻き取った状態にただ紐をかけた程度の仕方ではなく、穴をくぐらせて紐を結び、封を加えることで、紐がずれたり、巻子が開かれたりしないよう厳重に措置したものであることがわかる。また、封がされた時点で、⑶第3紙左方には料紙が継がれていない状態であったと考えられる。里足の鳥の絵は、正倉院文書にもう四箇所が知られている。それらは将来の調査の範囲となるが、今回の所見は里足の鳥の絵の意味を理解するための一つの手がかりとなろう。
 続々修第九帙には、百部仁王経疏(天平勝宝二年)、仁王経疏(天平宝字七年)、寿量品(天平勝宝二年・三年)等の書写に関する書面が見える。この中で、続々修九ノ二の仁王経疏充紙本筆墨帳は、右端への往来軸の取り付け方が他にあまり見られない様態を示している。往来軸は、通常、料紙端の上に置かれて巻き取られる。したがって、料紙の表(おもて)面と軸が接することになる。ところが続々修九ノ二では、料紙右端を裏に折り返して軸を包むように糊付けする形で、往来軸が料紙の裏に取り付けられている。そして、その状態で軸ごと表に折り返して左方の料紙の巻き取りが始まっている。往来軸のこうした取り付け方の結果、料紙右端は、裏と表に互い違いに折り畳まれる形となっている。こうした軸附けは、通常であれば料紙裏面の左端に軸を附ける場合と同じ様態である。したがって、単に軸附けの表裏を誤ったとも見えなくはないが、そうではなく、軸が幅広であることから(軸幅二・一糎、厚〇・四糎)、表面に軸を附けた場合に第1行が隠れてしまうのを避けるための処置であったと考えられる。
 続々修第十帙には、灌頂経十二部(天平宝字六年)、百部梵網経(天平勝宝六年)、梵網経幷四分律(天平宝字七年)、百部最勝王経(天平二〇年)、七百巻経(最勝王経・宝星陀羅尼経・七仏所説神呪経・金剛般若経、天平宝字七年)、瑜伽論(天平勝宝元年)、四十巻経(十一面神呪経ほか、天平宝字七年)、その他の書写に関する書面が見える。この中で、続々修十ノ七⑶裏の安都雄足告では、書面の折り畳み方に関する所見が得られた。雄足告は、二次利用の際に右方が切断され、左半分が残っており、紙面には二・九~二・二糎幅の折筋が見え、折幅は左に行くにつれて狭くなっている。このことから、左端より巻き畳まれていた状態が想像されるが、左端より一〇糎ほどの位置にある行の文字の墨うつりが、その行のすぐ左方に認められる。こうした墨うつりは、単純に巻き畳んだ状態では生じ得ない。上記の折筋の三本分ほどの幅でまず巻き畳み、それをさらに三つ折にしたものと考えられる。書状類の巻き畳み方にこうした様態もあったことがうかがわれる。
 続々修十ノ二十五⑴~⑿は瑜伽論帳として連続する継文であり、その右端に木簡転用の往来軸が取り付けられている。その題籤の側面下部に小動物が齧ったような欠損が認められる(一部欠損した題籤の姿は刊本の図にも示されている。『大日本古文書』十一―七二)。正倉院文書から知られる鼠害についてはすでに指摘があるが(馬場基「平城京の鼠」、同『日本古代木簡論』、吉川弘文館、二〇一八、初出二〇一二)、本例はその実物となろう。
 続々修第十一帙には、五十部法華経幷法華摂釈(天平十五年)、僧正弥勒経(天平十六年)、人々大般若経(知識大般若経、天平宝字二年)等の書写に関する書面が見える。この中で、続々修十一ノ三の僧正弥勒経料充紙幷充筆墨帳(天平十六年)は、未叩解の木質を多く含む同質の料紙六紙で構成されている。同質の料紙については、紙質調査が行われ、報告が公表されている(「正倉院宝物特別調査 紙(第2次)調査報告」四〇頁、『正倉院紀要』三二、二〇一〇)。この種の紙は、製品としての紙を梱包するために用いられたものと考えられ、その紙を漉いた製紙技術者の氏名・年月日などの記載が残されている場合があり、三野部石嶋など、木簡にもその名の見える人物が登場する点など注目される。続々修十一ノ三では五紙に天平十二年の日付や、三野部石嶋・刑部広国の名前が記されている。いずれも『大日本古文書』未収であることから、ここに紹介しておきたい。なお、これ以外にも本冊に収録した巻冊の各所で同種の料紙が使用されており、そのことは各断簡の按文に記載している。
 続々修第十二帙には、写大小乗経目録(天平五年)、図書寮一切経目録(天平勝宝八歳カ)、写経目録(天平五年)、常疏写納幷櫃乗次第帳(天平十九年)、図書寮経目録(天平勝宝七歳カ)、その他、経巻目録・歴名、疏本等所在目録などが見える。この中で、続々修十二ノ十①、②⑴~⑸の図書寮一切経目録(小乗等)はこの順の接続に問題なく、その左方に続々修十二ノ十一②が接続することを確認した。また、続々修十二ノ二⑴~⑻の図書寮一切経目録(大乗)は、全二二紙で構成され、貼継に問題ないものと認められるが、⑹と⑺(全体の紙数で第11紙と第12紙)の継ぎ合わせは特異な形態をとっており、両紙端に切り穴三箇所をあけて、そこに麻紐を通して綴じ合わせている。また、⑴の裏に⑻裏の文字の墨うつりがあることから始まって、本目録の裏には、紙背文書(一次文書)相互の文字の墨うつりが各所に見られる。その状態からみて、目録として全体が貼り継がれた状態で、目録の文面を外側に出す形で二つに折り重ねられていたと推定される。この結果、裏の一次文書は文面同士が重なり合う状態となり、左文字の墨うつりが生じたのであろう。綴じ紐を用いた継ぎ合わせや、全体を大きく折り重ねて文面を外側(表裏)に示す仕方など、どういった利用形態にともなうものであるか、興味を引かれる材料である。
 本冊の編成及び記載内容については、前冊までと同様の方式をとった。補遺には、続修三十二④、続々修五ノ二②の二断簡を収め、既刊冊で使用していた断簡番号の変更について断簡番号変更表を掲載した。
 本冊編纂のための原本調査は、山口・稲田・田島公・遠藤基郎・黒須友里江と、前所員の石上英一(二〇一二年三月退職)・厚谷和雄(二〇一六年三月退職)が行った。
 正倉院文書の調査を許可され、本所の刊行に格段の配慮を賜った宮内庁及び同正倉院事務所に厚く謝意を表する。
(例言四頁、目次七頁、本文四三五頁、対照目録三三頁、補遺四頁、定価 一八、〇〇〇円)
担当者 山口英男 稲田奈津子

『東京大学史料編纂所報』第55号 p.42-44