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大日本史料 第十二編之六十二

 本冊には、元和九年(一六二三)年二月十三日から三月二十日までの史料を収録した。
 二月十三日の第一条では、秀忠による尾張名古屋城主徳川義直の江戸亭来訪を扱った。同亭では、数寄屋を始めとする各部屋に名物の置き合わせが多数飾られ、献茶、三献の祝儀、能などが催された。この来訪には、徳川頼房と藤堂高虎も相伴し、秀忠らと義直の間で刀などの下賜・献上が行われた。
 史料は、秀忠らを接待した側であり、最も豊富な記載内容を持つ尾張徳川家の史料を冒頭に配置し、次いで幕府の史料、家譜類、各大名家・寺社の史料という順で配列した。秀忠らの動きや置き合わせの種類については、史料間で若干の異同があり、秀忠来訪の様相を復元する際には、各史料の成立過程を踏まえながら丁寧に比較・検討を加える必要があろう。
 採録史料のうち特記すべきものとして「元和御成之記」(徳川美術館所蔵)がある。徳川美術館所蔵の二本のうち、今回は最近同館の所蔵に帰した方を底本として用いた。これは箱書きに「松花堂筆」、あるいは箱の覆いに「瀧本筆」とあり、松花堂昭乗の筆とも伝えられる。現在は巻子装であるが、料紙毎に中央部に山折りの跡が見られることから、元は袋綴装であったことが分かる。これまでに『徳川将軍の御成』(徳川美術館平成二十四年特別展図録)などで紹介されているもう一本は、この本から書写されたものと考えられる。元和寛永期における尾張徳川家と昭乗の交流は既に知られるところであり(山口恭子『松花堂昭乗と瀧本流の展開』思文閣出版)、本史料も昭乗が記し、後に尾張家にもたらされ、さらにある時期に流出したものである可能性は高い。今後、筆跡も含め史料そのものの研究が俟たれる。
 また、伝来の事情は不分明であるものの、「伊勢国飯野郡射和村大黒屋富山家文書」(国文学研究資料館所蔵)にも当該の来訪時に関する史料を見出すことができ、〔参考〕として掲げた。
 なお、元和六年二月十三日の条に、秀忠・家光が義直の亭を来訪したとするのは誤りであり、この条は削除することとした。
 二月十三日の第二条では、所司代板倉重宗による諸社寺への命令を取り上げた。重宗は、本年中に予定された秀忠と家光の上洛の際、継目朱印の発給がある可能性を考慮し、朱印状に記載された所領と現況が異なっている場合には、早急に届けるように諸社寺に命じている。ここでは、石清水八幡宮・松尾社・龍安寺に宛てられた重宗の書状計三通を採録した。
 二月十三日の第三条では、上杉定勝の従四位下侍従叙任を扱った。叙任に直接携わった武家伝奏三条西実条による「実条公御覚書」(早稲田大学図書館所蔵)を掲げたのち、一次史料である「元和九年御日帳」(市立米沢図書館所蔵)を含む上杉家の史料、幕府の史料という順で配列した。なお、同日付で定勝の父上杉景勝の家臣である千坂親利・同親信もそれぞれ従五位下右衛門尉・従五位下宮内少輔に叙任されており、定勝の叙任と密接に関わっていると考えられるため、両名の叙任に関する動きについても当条で同時に取り上げた。
 二月十五日の第一条では、禁裏および女院御所で行われた中院通村による源氏物語の進講を取り上げた。通村による源氏物語の進講は、元和七年二月八日に開始され、元和九年分の進講が始まったのが当該の二月十五日であった。進講は四月二十二日に終了し、同日には中和門院前子や通村らが歌を詠んでいる。採録した史料は、「泰重卿記」(宮内庁書陵部所蔵土御門本)と「中院通村歌集」(宮内庁書陵部所蔵中院本)の二つである。
 二月十五日の第二条では、江戸の武家屋敷内に町人・牢人などを置くことを禁じた幕府の命令を扱った。「東武実録」と「秀忠公御制法」(国立公文書館内閣文庫所蔵)の記述を載せるとともに、当該の命令を五月十日付とする「御制法」(国立公文書館内閣文庫所蔵)を〔参考〕として掲載した。
 二月十五日の第三条では、朝鮮釜山の倭館の火災を取り上げた。採録した「光海君日記」によれば、四月二日にも再び火災が発生しており、その原因は煙草の不始末であったとされる。
 二月十八日の条では、家光による徳川義直の江戸亭来訪を扱った。これは、二月十三日に行われた秀忠来訪と一体のものとして準備が進められ、実施されたものである。当日の流れは、秀忠の来訪時とほぼ同様であるが、献上品の規模などの面では、秀忠の来訪時と差がつけられている。また、徳川頼房・藤堂高虎に加え、徳川忠長も相伴している。史料の配列は、二月十三日の第一条に準じた。なお、記載の内容に鑑み、「元和御成之記」・「本光国師日記」(南禅寺金地院所蔵)については関連箇所を二月十三日の第一条と重複して採録した。
 二月十九日の条では、三河吉田城主松平忠利の江戸参勤および秀忠・家光への謁見を取り上げた。二月一日、参勤の命令を伝える飛脚に接した忠利は、二日に江戸へ荷物を送ったのち、六日に吉田を発する。七日に遠江日坂まで来たところで、江戸下向は不要であるとの秀忠の意向が忠利に伝えられるが、そのまま移動を続け、十四日に江戸に到着し、十九日に登城して秀忠・家光に謁見した。忠利本人の動きが克明に窺える「松平忠利公御日記写」(島原松平文庫所蔵)を採録した上で、秀忠らへの謁見を十四日のこととする「肥前島原松平家譜」を〔参考〕として掲載した。
 二月二十二日の条と同二十五日の第二条では、それぞれ禁裏における和歌の行事として、水無瀬宮法楽和歌御会と北野社法楽和歌御会を扱った。二月二十二日は水無瀬宮に祀られる後鳥羽院の忌日、同二十五日は北野社に祀られる菅原道真の忌日である。両条の構成としては、後水尾天皇の歌集である「鷖巣集」(東山御文庫所蔵)、八条宮智仁親王の和歌を集成した「智仁親王詠草」(『図書寮叢刊智仁親王詠草類一』所収)、「青蓮院文書」に含まれる青蓮院尊純の和歌懐紙、伏見宮家歴代の歌集である「瑶玉和歌集」から関連する作品を採録し、日野資勝の日記「凉源院殿御記」(国立公文書館内閣文庫所蔵)・「資勝卿記」の記事により補った。なお北野社法楽和歌御会については本年中にかかるものを便宜合叙し、また〔附録〕として曼殊院良恕親王主催の北野社法楽和歌会について取り上げた。宮内庁書陵部所蔵伏見宮家旧蔵本「瑶玉和歌集」は、近年の禁裏・公家文庫史料の整理・研究の進展により、活用しやすくなったもので、二〇二〇年より本所SHIPS データベースのHI-CAT Plus で画像が公開されている。
 二月二十四日の条では、春日祭を扱った。基本史料は当時春日社正預であった東地井祐範の日記「中臣祐範記」(元和九年分は個人蔵)と彼の手による「春日祭記」(春日大社所蔵)、および次預であった大東延通による「社頭御神事記」(同上)とその別記として作成された「春日祭記」(同上)である。東地井祐範は本年の閏八月一日に老病により八十二歳で死歿するが(『史料纂集 中臣祐範記』第三)、二月にはすでに体調は思わしくなく、各種神事も欠勤しがちで、この時が祐範にとって最後の春日祭となった。なお、祐範の「春日祭記」は元和二年二月から寛永四年十一月までの分が一冊の冊子として残されているが、祐範の死去後は、祐範の養子で慶長二十年から辰市家を継承していた祐長(実父は神主の中東時広)が書き継いだものである。一方、大東延通の「春日祭記」は慶長十九年二月から寛永二年二月の分の途中までが残されており、こちらの方が全体として詳しいものとなっている。
 二月二十五日の第一条では、「泰重卿記」の記事により、漢和連句御会を取り上げ、〔附録〕として左大臣近衛信尋と右大臣一条兼遐がそれぞれ主催した漢和連句会を取り上げた。近衛信尋興行の漢和連句では、最後の一句を主催者の信尋が思案する間に、里村玄的が奪い取って付けてしまうというハプニングがあり、土御門泰重は「古今希代狼藉人、言語絶筆也」と評している。なお、「漢和写連歌等」(京都大学附属図書館所蔵平松文庫)にこの時の作品全体が収録されており、実際に玄的がどのような句を最後に付けたのかも分かるのが面白い。
 二月二十六日の第一条では、常陸小張城主松下重綱の下野烏山城主への移封・加増のことを取り上げた。これについては、史料により元和二年二月、元和二年三月、元和九年三月十三日とするものもあるが、「松平忠利公御日記写」と「本光国師日記」により、本日に綱文を立てた。それ以外の諸説に関する史料は〔参考〕に掲げた。
 同日の第二条では、幕府目付への加増のことを取り上げた。これも主に「松平忠利公御日記写」と「本光国師日記」によった。
 二月二十七日の条では、「舜旧記」(国立公文書館内閣文庫所蔵)の記事により、山城で起こった地震を取り上げた。
 二月二十八日の条では、徳川義直への賜暇のことを取り上げた、これも「松平忠利公御日記写」と「本光国師日記」によって本日に綱文を立て、「源敬様御代御記録」(徳川黎明会徳川林政史研究所所蔵)など尾張徳川家の史料も参照した。
 二月是月の条では、家光の武蔵川越での放鷹と、陸奥会津若松城主蒲生忠郷への従五位下侍従に叙任のことを取り上げた。
 三月一日の条では常陸水戸城主徳川頼房の老臣水野分長の死歿を取り上げた。「松平忠利公御日記写」によると、分長は二月二日の段階ですでに病状が重く、本日の日暮れ頃に亡くなったとされる。経歴は「寛永諸家系図伝」・「寛政重修諸家譜」・「三河設楽水野家譜」・「東藩文献志」など史料によりばらつきがあるが、元は尾張の国人で、天正十二年の小牧・長久手の戦いでは、他の尾張の諸士とともに家康の麾下に入り、同十八年の小田原攻めにも参陣した。その後、家康に謁見して蒲生氏郷に附属させられ、同十九年の九戸一揆の鎮圧にも参陣した。慶長四年より直接家康に仕え、大番頭となり、同五年の関ヶ原の戦いにも従った。同六年には尾張知多郡小河とその周辺で九千八百石余りを給され、同九年に従五位下備後守に叙任、同十一年に三河新城に移され、一万石を領し、同十九・二十年の両度の大坂の陣にも参陣した。元和二年の家康薨去後は秀忠に仕え、同六年四月より徳川頼房に付家老として附属させられ、安房・上総両国内で一万五千石を領し、同九年三月一日に病歿した。三河永住寺に葬られ、法号愛光院(または学光院)英真。男子元綱は三河の旧領を継いでおり、安房・上総の領地は収公された。
 三月三日の条では、「泰重卿記」・「孝亮宿禰記」(宮内庁書陵部所蔵壬生本)の記事により、上巳節句、御闘鶏、ならびに詩歌御会を取り上げた。
 三月四日の第一条では、秀忠・家光の賀正への答礼の勅使として権大納言三条西実条を江戸に遣わすことを取り上げた。朝廷は早目の派遣を希望したが、本年は秀忠・家光の尾張徳川家江戸亭への来訪(二月十三日の条および二月十八日の条参照)のために延引となった。「凉源院殿御記」・「孝亮宿祢記」の記事により、この日に出立し、四月四日に京都に戻ったことが分かる。勅使延引の事情は「土山文書」の二通の土山武久宛板倉勝重・同重宗連署状により明らかとなる。
 同日の第二条では、旗雲の出現について取り上げた。本年は、この日から四月二十日にかけて旗雲が出現したことが「孝亮宿祢記」から分かる。
 三月十日の条では、江戸小石川伝通院と江戸天徳寺への幕府からの寺領寄進を取り上げた。「寛文朱印留」(国文学研究資料館所蔵)などによると、この日、小石川の伝通院へ三百石、西久保の天徳寺へ五十石の寺領が寄進された。ともに徳川将軍家の帰依する浄土宗寺院であり、伝通院は家康母於大の菩提を弔い、天徳寺も、その後、多くの将軍家関係の女性たちの菩提寺となっていく。この日、同時に、両寺に寺領が寄進された具体的な経緯の詳細は不明であるが、徳川家の女性たちの菩提寺についての何らかの配慮があった可能性もある。伝通院への寺領三百石寄進については、当時、増上寺の中心にいた廓山正誉の功績であることを示唆する史料もあり、〔参考〕にあげておいた。廓山には七日後に紫衣の永宣旨が下される。
 三月十五日の条では、徳川家光の右近衛大将並びに右馬寮御監兼任のことを取り上げた。
 三月十九日の条では、この日寂した前妙心寺住持一宙東黙の死歿を扱った。一宙は、その死の直前に遺偈を書いており、弟子の雲居希膺は、その顛末と遺偈の浄書を残している(蟠桃院所蔵)。一宙の歿年については、年号の確実な一次史料が乏しく、元和七年説などもあるが、享保七年三月十九日を百年忌とする蟠桃院の文書(「樹下堂漫記」)と、一宙の遷化の年月日を問われて元和九年三月十九日と答えた雑華院の回答(「雑華院要記」)などの記述に従った。
 一宙は、美濃出身の牧村利貞の舎弟とされる。「雑華院要記」によると、利貞により天正十一年に建立された妙心寺の塔頭雑華院の開山となった。その後、妙心寺住持を経て、前住として長く寺内にいるが、その後半は、歿するまで塔頭蟠桃院におり、希膺をはじめとする弟子の指導にあたっている。
 一宙と妙心寺との関係を示す早い時期の史料としては、天正十二年の「正法山妙心禅寺米銭納下帳」に「座元一宙」から妙心寺への官銭の皆納を示す記事がある。以後、この妙心寺の会計資料である「納下帳」類に、一宙の名を確認することができ、とくに、慶長四年以降元和四年までの間は、妙心寺前住としてほぼ毎年名を連ねている。「鹿苑日録」や「本光国師日記」にも一宙の足跡が見いだせる。慶長六年閏十一月には、前田玄以の息前田秀以の葬儀で下火をつとめ、翌年の前田玄以本人の葬儀でも掛真をつとめている。また、慶長十二年正月には、大坂城で秀頼のもとに伺候している(以上「鹿苑日録」)。一方で慶長十五年から十六年にかけては、妙心寺内や京都の禅宗寺院向きのことで駿府におもむき、金地院崇伝とも面会している(「本光国師日記」)。
 大坂の秀頼との関係については、推測の域を出ないが、「大悲円満国師年譜」にある、弟子の希膺が、大坂夏の陣に際して大坂方との内通を幕府から疑われたとのエピソードは、慶長二十年五月の「妙心寺米銭納下帳」に、「一宙和尚儀ニ付、前住評議、」とあることと関係があるかもしれない。「雍州府志」に、一宙が秀頼の読書の師となっていたとの記事もあり、豊臣氏との関係は一宙の政治的位置を考える上で無視できない。
 三月二十日の条では、この日米沢に薨じた出羽米沢城主上杉景勝の死歿と、その子定勝の嗣封のことを扱った。
 景勝の訃報は、その十三日後には、武蔵足立郡芝村の長徳寺住持龍派禅珠のもとにもたらされている(「寒松日記」)。足利学校の縁で、当時米沢禅林寺にいた九山宗用からもたらされた可能性も推測される。
 景勝は、前年の江戸からの帰国直後より病床についたとされ、その死の直前には、領内の法音寺と極楽寺にあてて、自らの死後の法要のあり方を指示し、供養をなるべく簡素にすることや、法名を「宗心」とすることなどを言い遺している(「上杉家文書」など)。法要は、三月二十八日に、米沢城下西の郊原で営まれた。江戸にいた定勝が米沢に到着するのは、四月十三日であり、この日より以降の定勝の行動については、「元和九年御日帳」から詳細に確認することができる。そこでは、景勝死後初めてとなる定勝の米沢入部直後の短期間に、家中法度の整備、奏者番の任命、御堂の九ヶ寺からの拝礼、家中惣知行帳の確認と惣家中礼の実施、近隣大名からの使者の受け入れ、景勝の遺品の家臣たちへの下賜等、定勝入部にともなう諸事が、集中しておこなわれている。五月八日には、秀忠の上洛に供奉するために米沢を出発し、同十四日に江戸へ着いた。二日後の同十六日には、江戸城内で徳川秀忠・同家光・同忠長に謁見をおこなっている。この謁見の日を、上杉家では、景勝から定勝への家督相続を将軍から認められた日として位置づけている(「上杉年譜」など)。
 一方、高野山へ家臣松木貞吉が派遣され、六月二十九日には清浄心院において「覚上院殿権大僧都宗心法印」の位牌が建てられている(清浄心院所蔵「越後日月牌過去帳」)。
 米沢城二の丸には、景勝が、先代の上杉謙信の霊のために営んだ御堂があり、そこで、上杉家をあげての大規模な謙信の供養が営まれていたが、景勝歿後は、その供養の対象に景勝自身も含まれることとなった。その後の景勝供養法事の記事を、「上杉年譜」を中心に多様な記録・史料から、確認できる範囲で明治二年に到るまで掲載した。祥月命日のみならず、月命日についても、二百年以上にわたって供養が続けられている。
 なお、〔参考〕の史料中に、景勝の花押および印章のうち、その生涯の中での変化を理解するのに参考となると思われるものを掲載した。また、天正三年以降の景勝の行動に関わる綱文との連絡案文を付した。
 本条の調査にあたっては、加澤昌人氏の諸論考も参考とさせていただいき、また米沢の法音寺(米沢市)を調査させていただくにあたり、氏のお世話になった。記して謝意を述べる。
(目次三頁、本文四二三頁、本体価格九、四〇〇円)

担当者 小宮木代良・及川 亘・石津裕之

『東京大学史料編纂所報』第55号 p.46-49