編纂・研究・公開

所報 - 刊行物紹介

大日本史料 第三編之三十

 本冊には、鳥羽天皇保安三年(一一二二)五月より年末雑載までを収め、巻末には前冊の同年正月より四月までの補遺を加えた。
 この間の主な事柄としては、中宮藤原璋子の御産(六月二十七日条)があり、そのための種々の祈祷がなされ(五月八日第二条・十四日第二条、六月十八日条、八月三日条)、誕生した皇女禧子の御祝(六月二十九日条、八月十七日条、十月八日条)と内親王・准后宣下(八月一日条)がある。次いで石清水・賀茂両社行幸(八月二十九日第二条、九月五日条・十四日条・二十八日条)については、上卿となった藤原宗忠の『中右記』が宮内庁書陵部所蔵九条家本『八幡幷賀茂行幸記』として残り、内容が豊富である。賀茂行幸にあたっては、修理左右宮城使・防鴨川使が補任されている(九月廿日条)。日次記としては残らない『中右記』の部類記から綱文を立てた条には、円宗寺御八講(五月五日条)、京都大風(七月十一日条)、釈奠(八月一日)、政(八月二十九日条)などもある。十二月については、藤原為隆『永昌記』の日次記があり、軸となる朝廷の諸行事についてたどりやすい。すでに『史料大成』などで本文は知られるが、現存諸本の祖本となる陽明文庫所蔵の古写本(文安六年万里小路時房写)に拠って収録した。同月十七日条の任大臣節会ほか、後世の史料からも事実関係の復元に努めた。同月二十二日条の京官除目については、前冊までと同様、京都御所東山御文庫収蔵『除目部類記』所収の藤原忠通「法性寺殿記」が詳細である。同月十五日第二条として、あまり良質な史料に恵まれないが、最勝寺結縁灌頂の創始がある。摂関家関係では、前年に関白に補せられた藤原忠通の第二度上表(五月十七日条)、第三度上表(七月二十三日第二条)があり、後者には併せて、関白詔や初度上表などに関する史料の補遺を合叙として収めた。また同じく忠通の日記「玉林」から記事を抄出する『執政神斎類要』(『摂政関白神斎法』)に拠って立てた綱文もあるが(八月四日第一条、同九日条、九月十一日条、十一月七日条)、本史料については別途、『研究紀要』三〇(二〇二〇年三月)に徳大寺家本に拠って全文翻刻した。なお『公卿補任』について、藤原俊成書写本を残闕(いわゆる「補任切」)含めて用いるのは見送ったが、現在通行本の祖本となる龍谷大学図書館所蔵山科家本は、画像のWeb 公開がなされていることもあり、本年分の記事についてはこれに拠ることとした。
 また仏事関係として、興福寺維摩会(十月十日第一条)について『類聚世要抄』所引「中暦記」(玄覚の具注暦日記)が比較的詳細であり、この他、祈祷の巻数・後代の記録からも綱文を立てた。とくに中川上人実範による『東大寺戒壇院受戒式』の撰述は、南都における戒律復興の象徴的な出来事して後世に記憶されており、全文を掲載した(八月四日第二条)。底本とした平岡定海氏所蔵本は嘉応二年(一一七〇)慶雅書写本で、石山寺にその書写本が残る慶雅(田中稔「石山寺校倉聖教について」『石山寺の研究』校倉聖教・古文書篇、法蔵館、一九八一年、六三八・三九頁)は実範の弟子であり、現存の最善本といえる。既刊本に見えない字句としては、教授師の一人に興福寺の済円(九八頁)の名がある。済円は康治元年(一一四二)『鳥羽院東大寺受戒式』(石田実洋「阪本龍門文庫所蔵『東大寺御受戒記』―附・宮内庁書陵部所蔵『東大寺御受戒次第』―」『戒律文化』二、二〇〇三年)にも、羯摩師の寛信と並んで教授師として現れる。既刊本と本文に字句の大きな相違はないが、訓点類は貴重なものといえ、『大日本史料』の体裁では反映できないのが惜しまれる。また五月十四日条の怪異では、参考として善勝寺に関する主要な記事も収録した。
 本冊に事蹟を収録した者は、藤原基頼(五月二十七日条)、源重資(十月十日第二条)、菅原在良(同月二十三日条)、顕覚(同月二十八日条)、長快(十二月六日第一条)、定暹(同日第二条)である。
 藤原基頼は、右大臣俊家男(母家女房)で宗俊・宗通、また歌人の基俊とは兄弟であるが、辞して内の昇殿をせず、兵馬を好み、陸奥守・鎮守府将軍となって北国の凶賊を討ち、正五位下能登守、八十三歳で亡くなったという。奥州藤原氏の興隆との関わりでも注目すべき人物であるが、詳しい事蹟はつかみにくい。安楽光院の本願とされており、その関係の史料も収めた。なお息の阿闍梨良雅も四月十四日(前冊)に寂している。
 源重資は醍醐源氏で、少納言から弁官・蔵人頭、参議大弁を経て権中納言に昇った。諸国受領を兼任し、太宰権帥として赴任もしている。携わった公事は多く、特徴的となる評価の良くない記事を採取しているが(二〇六頁以下および連絡按文)、日記の作成や儀式書の所持なども見え、長期にわたり朝儀運営に関わった人物として、能力を低く見過ぎるのも適切ではなかろう。第二編未刊年次と第三編既刊冊未収の記事については基本的に本文を収録しているが、亡くなったのは七十八歳と高齢で、連絡按文では多数の所見記事を列挙せず、綱文での所見のみに止めた。当面、データベースの索引を活用いただき、別途手段を検討したい。
 菅原在良は、道真七代の末裔で、儒家として文事に仕え、式部少輔・大内記・文章博士・式部大輔を歴任し、鳥羽天皇の侍読を勤めた。唐橋家の祖とされる。詳しい伝記研究に福井迪子「菅原在良―その伝と文学活動―」(『今井源衛教授退官記念文学論叢』、一九八二年。『一条朝文壇の研究』桜楓社、一九八七年、再録)がある。新訂増補国史大系『尊卑分脈』の記載に従って、保安二年十月二十三日卒・八十一才とされる傾向があるが、宮内庁書陵部所蔵壬生家本『菅原氏系図』の保安三年卒・八十才に従った。『尊卑分脈』の菅原氏ほか諸家は脇坂本に拠っており、優位性は自明でなく、保安三年とする版本『諸家大系図』も参照すると、「八十一才」も「一」の衍字の可能性が高いように思われる。官歴に関する記事の他、既刊未収の記事および年号勘申などの主要な経歴を示す記事を収めた。和歌・漢詩はほぼ網羅し、一部には内容から作成時期を推定できるものもあるが、配列は出典ごとでの巻順とした。長く大内記を勤めて多数の詔書・宣命を草しており、現在では字句に校訂が必要となっている場合もあろうが、既収であるため、連絡按文にて所在を示すに止めた。北野社では道真子孫の輔正・定義らが境内の小神となっており、在良も大輔殿、元徳二年(一三三〇)には後醍醐天皇より贈位されて三位殿として祀られて、その関係の主要史料も収めた。
 顕覚は園城寺僧で、四月十二日(前冊)に亡くなった源雅俊の兄弟である。長快は熊野別当として、寛治四年(一〇九〇)を最初に数度の白河院御幸を受け入れているが、具体的な様子が詳らかでない。定暹は園城寺の学僧として誉れ高く、諸法会に講師等として出仕し、堀河天皇没後の籠僧となり、その御堂の供僧ともなった。法成寺学頭として、同寺宝蔵にあった行成手蹟が失われたのを、祈祷により出現させ、禄に預かっている。
 年末雑載には、暦、天文、神社、仏寺、諸家、生死、学芸、題跋、荘園、諸職、充行、免除、訴訟、処分、去渡、売買に部類した。史料の種別を大きく分けると、『類聚世要抄』や寺誌など仏教関係の記録類、聖教奥書・金石文、荘園などの諸職や田地の売買等に関する文書となる。
 うち仏寺の項から比較的長文のものを示すと、高山寺旧蔵の長承四年(一一三五)「地蔵堂結縁八講縁起」(四四四頁以下)は、近木荘(貝塚市)大塚の地蔵堂の草創と本尊による救済説話を含む内容で、後代の主要な所見記事も掲げた。末尾の日下に行尊の名があり、その作とも考えらえる『釈迦講式』(四五五頁以下)は、『密教文化』一〇四~七(一九二二年)分載の翻刻およびニールス・ギュルベルク「講式データベース」に拠っており、それらを大きくは変えるものではない。覚鑁の求聞持法発願(四六三頁)については、『興教大師覚鑁写本集成』(法蔵館、一九九七年)を参考としたが、当初の姿を復元するのにやや難しいところがあった。京都国立博物館所蔵守屋コレクション『自誓受戒作法』は、外題に「東寺観智院」、保安四年五月二十四日書写奥書、延享五年賢賀修補奥書があり、その紙背文書(四七〇頁以下)は全十通が本年の年紀ある諷誦文だが、人物関係など詳しい事情は未詳。荘園の項では、前年雑載や若干の綱文とも関わるように、東大寺領黒田荘と東寺領大国荘関係のものがまとまっている。その他の文書群においても、売券などの原文書が残り始めるのに注意されよう。
 巻末には、前冊で漏れた四月までの史料を補遺として収めた。とくに藤原尹通の伝記(四月二日条)に懸けて、その室に但馬内侍があることから、内侍藤原元子〈但馬〉の記事をまとめた。尹通室と同人と断定はできなかったが、女官の個人としての事蹟がたどれる一事例として貴重であろう。
 刊行が遅滞して年度繰り越しとなり、二〇二〇年四月より着任した小塩慶が終盤で校正に加わった。非常勤職員(含、当時)の天野清美・内田澪子・貫井裕恵・尻池由佳・太田克也ほかが原稿作成・校正で協力した。個別の明記は控えるが、御所蔵者をはじめ、本冊刊行にご助力を賜った各位に深謝申し上げる。
(目次一一頁、本文五四六頁、本体価格九、五〇〇円)

担当者 田島 公・藤原重雄・小塩 慶 

『東京大学史料編纂所報』第55号 p.44-46