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大日本古文書 家わけ第十七 大徳寺文書別集徳禪寺文書之一

 大徳寺文書は本篇として本坊文書を、別集として同寺塔頭真珠庵所蔵文書の編纂を行ってきたが、本冊より同じく別集として徳禅寺所蔵文書の編纂を開始する。徳禅寺は大徳寺開山宗峰妙超の弟子、徹翁義亨が暦応三年(『大日本古文書 大德寺文書』一四六号)から貞和三年(『同』六五二号)の間に開いた寺院である。徹翁義亨は大徳寺経営基盤の確立に努め、その活動と徳禅寺の位置づけについては、竹貫元勝氏の研究(「林下における教団経営」『日本禅宗史研究』)に詳しい。
 徳禅寺関係文書は徳禅寺のほか、大徳寺本坊・真珠庵所蔵文書のなかにもまとまって残されており、これについては、既に本家わけ本篇及び別集において編纂を行ったところである。そして本別集の対象となる、現在徳禅寺が所蔵する史料は、重要文化財に指定されている徳禅寺法度・正伝庵法度などのいわゆる「一般的な」文書群と、一九八四年、方丈襖絵修理に際して発見された下張文書群から構成される。
 本別集は方丈襖下張文書から編纂を行う。建具としての襖は、その基礎となる木製の骨格(ほね)と、表面、すなわち襖絵が描かれる表張との間に、骨格に近いところから順に、骨格縛(ほねしばり)、蓑張(みのばり)、蓑縛(みのしばり)、泛張(うけばり)と呼ばれる和紙製の装丁が施されている。これは、襖の表を美しく見せるために必要とされているものである(山本元『増補改訂表具の栞』)。徳禅寺の下張においては、このうち骨格縛、蓑張に反古文書が使用されている場合がある。本冊には、襖一表裏・二表裏・三表に張られていた文書を収載した。
 すでに田良島哲氏によって指摘されている通り、徳禅寺の下張文書は、後世の修理に際し攪乱を受けているようであり(田良島哲「襖・屏風の下張文書」『MUSEUM』474)、文書の断片化が進んでいることも少なくない。このため、例言において述べた通り、文字が一文字以下の断片、一文字以上の文字が残されているものの、解釈不能の断片、主には仮名書状の連綿体部分断片などについては、編纂から除外することにした。なお除外したものについては、本別集編纂の終了後に、何らかの形でまとめて示すことを検討している。
 また接続することが明らかになった断片も少なくない。しかし下張文書という特性上、破断形状が複雑であることが多く、版面上に接続の状況を正確に示すことが困難であった。このため、新たな試みとして各断片のデジタル画像を合成したものを、該当箇所に挿入し、接続状況を示すこととした。その際、各断片の状況を把握できるよう、各断片間に若干の隙間を設けた。
 また断片に関し、付属文書としたものの取り扱いについて述べておきたい。たとえば四号文書には、修理の際に、貼り重ねられていた文書を剥ぎ取った際、文書繊維がほぼ同一化していたため、剥ぎきれなかった小断片が残されている。これは現状において細かく観察しても、境界線も不明瞭であるため、独立の文書とはせず、四号文書の付属文書とし、法量についても計測不能として記載していない。
 本冊に収めた文書は、下張文書としてよくみられる帳簿類や、日常的な書状がその中心であるが、他の下張文書史料群と大きく異なるのは、そのほとんどが中世のものであるという点、また二五〇号権大僧都行厳寄進状のように、本来であれば、他の大徳寺文書と同様に、近世においても保管されていたであろう中世における公験も含まれている点にある。以下、いくつか特徴的な文書を取り上げてみることにしたい。
 まず初めに恥ずかしながら、校訂の段階で大きなミスを犯しており、この点を訂正しておきたい。二号文書(三)の紀伊守護代遵行状案であるが、奉者たる「兵部少輔」の人名注を陶弘房としてしまっており、また六二号文書(一)の大内氏奉行人奉書案の充所「陶周防守殿」の人名注を陶弘護としてしまっている。当然ながら「兵部少輔」・「陶周防守」ともに陶弘宣である。二号文書(三)号の文書名は、紀伊守護代陶弘宣遵行状案、六二号文書(二)の文書名は、紀伊守護代陶弘宣遵行状ヵ案となる。発刊後すぐにミスに気付いたが、校正中に見落として続けていた点、自責の念に堪えない。お詫びして訂正申し上げる次第である。
 さてこの二・六二号文書を始めとして、紀伊高家庄関係の史料が数点みられる。とくに注目したいのが、四六・四七号文書である。残念ながら断片であるため年月日未詳とせざるを得ないが、高家庄からの河手をめぐり、大徳寺と「鹿瀬城守」が相論をしていることが知られる。鹿瀬城は、現在の和歌山県広川町と日高町の境界にある鹿ヶ瀬峠に築かれた城であり、この峠の南側(日高町側)に高家庄がある。鹿ヶ瀬峠は交通の要所として知られており、こうしたところに築かれた山城に「城守」が任じられ、かつ「城料所」も設定された結果、相論となっていることは興味深い。二・六二号文書は、この相論に関して作成された書継案文である可能性も考えられる。
 所領関係ではほかに、播磨小宅庄や美濃長森庄領家方に関するものがみられる。一一四号某美濃長森庄年貢請負状案は、後闕ではあるものの、端裏により寛正六年であることがわかり、この時期に長森庄が三十五貫寺納で請け負われていることが明らかになる。また一四〇号は長森の年貢算用状である。このなかに、年貢京進に「就公人之儀商人」との注記が施されている。これに関して、三三五号某書状に、「当年一向に長森より商人不上候」とあり、長森からの年貢京進に関して、公人としての「商人」が大きな役割を果たしていることが知られる。
 帳簿類としては、そのほとんどが断片ではあるものの、大徳寺内における資源配分に関する史料が多く含まれている。この中で注目されるのが、大徳寺典座帳である。五四号文書や三〇八号文書などに文書名を記した断片が残されており、この帳面が「典座帳」と呼ばれていたこと、また三二八号文書に末尾部分の断片があり、作成者もその名の通り典座であったことを知る。その内容は、月を旬に分け、その旬ごとに、「本尊・開山・徳禅・維那・侍真・知客・納所・典座・了・堂・縁・性・珎・倫・心」の名の下に、上・中旬は一から十までの数字、下旬は一から九もしくは十の数字が書かれ、更にその下に、「九升」など、米穀の数量が書かれている。さらにその後に、「臨時」分として、その旬中に下行された米の数量と費目が書かれているものである。
 類例は確認できず、わずかに『大徳寺文書』二六一三号及び三一六八号文書に「典座帳」という名前が確認できるにとどまる。本冊の典座帳は、筆跡からいくつかのグループに分けられるが、年紀があるものは寛正六年や七年のものである。
 竹貫元勝氏が「林下における教団経営」(『日本禅宗史研究』)において指摘されているように、大徳寺には応安四年に制定された寺用下行定文があり(『大徳寺文書』一二四号)、それによると仏餉は一日一升と定められている。この典座帳においては、概ね一旬で九升が設定されており、これと相似する。すなわち典座帳は寺用下行定文に基づいた給食・給料帳とみることができるだろう。また臨時分についても、同じく応安四年の寺用下行定文に定められた項目を確認できる。徹翁義亨による経営・行事運営基盤確立から凡そ百年を経た大徳寺における行事運営の在り方を知るという点において、また、こうした帳簿が文字通り食事を差配する典座によって作成されていたという点において、典座帳は興味深い史料といえる。大徳寺の経営における納所の役割については、前述の竹貫氏論考などにおいて指摘されているところであるが、典座についても研究の進展が期待される。なお納所の果たす重要性についても、八六・二〇八号文書などによって改めて確認できる。
 造営にかかわる史料も多い。一五号大徳寺奉行等連署材木代銭注文は、榎・椋・桜の価格が記され、応永七年という作成時期もわかる。また材木送状や釘送状はかなりの数が残されている。なかでも、残念ながら上部欠損のため所在地が絞りきれないが、「0 2大宮」にある材木屋との取引(一六号など)や、嵯峨問との取引(九号など)は、中世における材木流通の一端を知る好材料である。
 最後に開祖である徹翁義亨に関する史料を挙げておきたい。一三一号は筆蹟から義亨のものと考えられるものである。後闕であるため、ひとまず文書名を「義亨書状」としたが、本来は置文若しくは住持職補任状とでもするべき、某人に対し、妙覚寺の一期知行を認めるものである。妙覚寺は宗峰妙超が寄進を受けた尼寺であり、元徳三年に妙超置文によって経営方針が定められている(『大德寺文書』三二一一号、竹貫元勝「宗峰妙超の教団的側面」『日本禅宗史研究』)。この一三一号文書は、存命中に「止住管領」すべきこと、公験を大徳寺に置くことも定められており、本文書も、妙超置文に基づき出されたものであることを知る。また仮名文書であることも、尼僧宛であることによるのであろう。
 二一九号文書も同じく一部欠けているものの、こちらは案文ながら署名によって義亨のものであることが認められるものである。義亨の署名は極めて特徴的であり、正文の特徴をよく捉えた案文ということができる。こちらは浦上五郎左衛門尉(景嗣ヵ)に対し、某領に対する遵行懈怠を難ずるものである。
(例言四頁、目次三二頁、本文四〇二頁、花押一覧五葉、本体価格一〇、二〇〇円)
担当者 小瀬玄士

『東京大学史料編纂所報』第55号 p.50-52