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大日本史料 第七編之三十四

本冊には応永二十六年の三月から七月までの記事を収めた。
 朝廷関係の儀式・行事では、県召除目(三月八日条)の直後、三月十五日
に弁官を中心とした小除目が行われている。八日条で日野秀光と広橋宣光が
弁官を争ったと伝えられる(二一頁)ことと、あるいは関わるかもしれな
い。観応元年以来途絶していた祈年穀奉幣が後述する「諸社・諸国怪異以
外」との理由で、足利義持の奏請により再興された(七月二十二日条)。ま
た、主に『康富記』により、稲荷祭(四月五日条)、平野祭(四月十日条)、
梅宮祭(四月十一日条)、吉田祭(四月十四日条)、日吉祭(四月二十二日
条)、賀茂祭(四月二十三日条)、月次祭・神今食(六月十一日条)といった
比較的小さな年中行事についても、ある程度の情報が得られる。
 僧位僧官の叙任、禅師号の賜与に関する記事も比較的多い。峻翁令山に法
光円融禅師の号を追諡(四月八日条)したほか、異例のこととして、存命の
雲叟に禅師号が賜与された(四月二十三日条)。雲叟は義持の「崇敬之僧」
と伝えられる。また、義持の執奏により寛仁が大僧都に任ぜられている(四
月十二日条)。本年は、符案「下請符集」に僧位僧官の叙任手続文書(口宣
案・上卿書下・弁官書下)の案文が多く残されている。その最初の記事の日
付である五月四日にかけて綱文を立て、本年中の叙任を便宜合叙とした。
 称光天皇関係では、三月十六日に「当代初度」の和歌御会があり、足利義
持が御製読師を務めた。また、天皇の勅願により内侍所臨時御神楽が行われ
ている(五月十九日条)。
 後小松上皇関係では、三月二十八日に仙洞和歌御会が行われ、義持が御製
読師を務めた。六月十五日には厳中周噩の談義を聴聞し、七月二十日には新
調妙音天図供養のための御楽が催された。また、健康がすぐれなかったらし
く、義持が諸寺に不予祈禱を命じている(四月二十七日条)。
 幕府関係では、まず、諸寺社への天変地異や怪異などの祈禳命令が幾度も
出されている。地震(五月九日条)、二星合変異(六月十一日条)、出雲杵築
社の怪異(六月十八日条)の祈禳とともに、後述のいわゆる応永の外寇の後
異国調伏の祈禱が命ぜられた(七月二十五日条)。また造営・作事として
は、長講堂の修理を命じ(五月二十五日条)、天龍寺領備中成羽荘に修理段
銭を免除(七月二十八日条)している。
 各国の守護等を通じた遵行としては、石清水八幡宮領河内伊香賀郷(三月
十四日条)、大覚寺領近江田河荘三箇郷(五月十八日条)、天龍寺領遠江村櫛
荘地頭職半済分等(五月二十一日条)、天龍寺領加賀横江荘地頭職(六月二
日条)、善法寺領九州所々(渋川義俊に、六月是月条)に関するものがあ
る。また詳細は不明ながら、洛中の殺害人の家を祇園社に渡付している(四
月三十日条)。
 義持の御判御教書で行われた寺社への寄進や安堵は、北野社への加賀小泉
保(三月二日条)、三条坊門八幡宮への近江大柳荘(三月二十一日条)の寄
進、清和院の諸国院領(四月十九日条)、山城遍照心院の敷地・寺領(六月
十一日条)安堵がある。また、近江崇寿寺を祈願寺としている(四月五日
条)。
 また義持とその周辺の動向としては、不興を蒙っていた赤松持貞を赦免し
(四月十九日条)、「中務権少輔泰行」なる者を「祈禱人数」に加えている
(五月十八日条)。泰行は明らかに俗人であるからこれは外典(陰陽道)の祈
禱であり、「泰」の字を通字としていた安倍氏かと思われる。
 義持の寺社への参詣・訪問も相変わらず多く、石清水八幡宮・六条八幡
宮・北野社への参詣(三月十日条)、石清水八幡宮参籠(六月二十三日条)
のほか、南禅寺で行われた約翁徳倹の百年忌仏事(五月十九日条)や万寿寺
入院の式(七月二十八日条)に臨み、南禅寺の玉畹梵芳を訪れて仙人丸を所
望している(六月十九日条)。
 義持親族の年忌・忌日仏事として、義満忌日仏事の等持寺八講(五月六日条)、生母藤原慶子の年忌仏事(五月八日条)、嫡母日野業子十三回忌、祖母
紀良子七回忌仏事(七月十一日条)が行われている。また前年五月十四日に
薨去した義持叔父満詮の一周忌仏事が等持院で行われている(五月十四日
条)。これに先立ち、四月十四日、満詮の生前の邸だった小河殿で、満詮正
室による小祥仏事が行われている。東漸健易の拈香法語によって、満詮正室
の生前の出家名が「寿慶」であったことが判明する(四月十四日条)。また
五月九日には満詮息の宝池院義賢と地蔵院持円によって醍醐寺理性院で結縁
灌頂が行われている。「醍醐寺文書」中の聖教によって式次第、僧の所役、
諸道具の用意などの詳細がわかる(五月九日条)
 東国では、本年一月に上総坂水城に蜂起した本一揆を鎌倉府が攻めて同城
を落し(五月六日条)、また武蔵南一揆には武蔵府中の警固を命じており
(七月二十四日条)、上杉禅秀の乱後のその与党・残党との間の敵対・緊張関
係がなお続いている。関東の諸寺社に「天下安全」を祈らせた(七月十七日
条)のも、その対応の一つと見ることができる。
 鎌倉府の裁許としては、相模覚園寺領同国毛利荘散田郷に同国河入郷が井
料を求めることを停めている(六月三日条)。また、武蔵守護上杉憲実も、
平山三河入道の東福寺領同国船木田荘領家方年貢の違乱を停めている(三月
七日条)。
 大名家関係では、京都の畠山満家邸の火災(三月四日条)、島津久豊が日
向加江田車坂城を攻めて伊東祐立に斥けられた一件(三月是月条)、若狭守
護一色義範の若狭彦社造立(四月八日条)、肥後菊池兼朝と阿蘇惟郷の盟約
(六月一日条)の記事を収めた。
 いわゆる国人クラスの地方の武士の動向としては、大隅禰寝元清の所領譲
与(三月七日条)、宇都宮持綱の義持への馬の献上(五月二十六日条)、陸奥
新宮時康と葦名盛政の抗争(六月二十九日条)、大隅肝属兼元の同国盛光寺
阿弥陀堂の再興(六月是月条)の記事を収めた。盛光寺阿弥陀堂の再興につ
いては「肝属文書」中の棟札写と思われる史料を収録したが、造立時の年号
として文永を記し、また北条氏の家紋である三鱗を上部に掲げており、北条
時宗の過所旗を思わせる。後述する応永の外寇への対応としての諸寺社での
祈祷と連動した地方での寺社興隆の動きであった可能性が考えられる。
 公家関係では、伏見宮家では、貞成王の王子、後の後花園天皇となる彦仁
が誕生した(六月十八日条)。貞成王の学芸関係の記事としては、琵琶夏中
稽古(三月三日条)、平家物語聴聞(四月二十九日条)、源氏物語を読み、そ
の抄物を書写(五月六日条)、朗詠の秘曲伝授(七月四日条)がある。
 伏見宮家の行事等としては、上巳節供(三月三日条)、桜花観賞(三月六
日条)、御香宮神事猿楽鑑覧(三月十一日条)、今出川実富との和歌の贈答
(三月十二日条)、小弓会(三月二十二日条)、躑躅遊覧(三月二十六日条)、
端午節供(五月五日条)、舟遊(六月十九日条)、六月祓(六月三十日条)の
記事を収めた。
 その他、大炊御門宗氏が加賀富安本新両荘について訴訟を起こし(五月是
月条)、中原康富は、前年より、山城大住荘隼人司領内名主職をめぐり、寿
阿弥陀仏を相手に幕府に訴訟を提起している(五月十一日条)。また、久我
通宣と楊梅兼邦が出家した(七月十日条)。
 寺社関係に目を向けると、京都・山城では、愛宕社神輿が新造され、嵯峨
祭が行われた(四月二十五日条)。新造費用として、幕府は洛中に地口銭を
賦課している。四月には、三条坊門八幡宮の遷宮(四月二十九日条)も行わ
れている。また、本年より祇園御霊会(六月十四日条)の馬上料足請取の残
存数が増え、本冊では二十八通に上る。神社の社司の補任については、鴨惟
教が下賀茂社の社務に還補され(六月四日条)、上賀茂社では、賀茂豊平→
同広久(五月二十四日条)、広久→同季久(六月二十一日条)、季久→同兼久
(七月二十八日条)と、五月から七月の間に三度神主職の交代があった。東
寺は、山城上久世荘の用水再興を幕府に訴えている(七月是月条)。
 大和では、永久寺の本尊が盗難にあう事件があり(四月二十日条)、興福
寺では、別当が仏地院孝俊から喜多院空昭に交代し、松林院光雅が権別当と
なった(五月十三日条)。
 伊勢では、宏徳寺の住持周督が周銘へ所職等を譲与し(三月十六日条)、
豊受大神宮の神主等が、鎌倉府に下総相馬御厨の押領停止を求めている(四
月十四日条)。
 尾張熱田社では遷宮が行われ(六月十七日条)、下野日光山では常行堂堂
僧と結衆との争いを、別当持玄が調停している(五月九日条)。
 九州では、前年に造営の始まった宇佐八幡宮で、大内盛見が神馬につき供
僧神官に旧規を守らしめ(五月七日条)、幕府が八幡宮弥勒寺造営段銭賦課
のことを伝え(六月二日条)、居礎・立柱・上棟・檜皮葺始(六月十三日
条)が行われている。
 本冊において死歿・卒伝条を収めた人物は、白川資雅(三月五日条)、益
田兼家(三月十二日条)、住心院深基(四月十二日条)、賀茂在弘(五月一日
条)、上杉持定(五月一日条)、越後本成寺日陣(五月二十一日条)、三宝院
満済の母静雲院(出雲路殿、六月四日条)、前東福寺住持徹叟珠得(六月九
日条)、持明院基親(七月二十三日条)、前南禅寺住持大周周奝(七月二十四
日条)、前聖寿寺住持明室崇燈(七月是月条、入牌仏事の日をもってこの日
に掲げた)である。
 対外関係では大きな事件が起きている。六月二十日に起こった応永の外寇
である。関係する史料は、六月二十日条「朝鮮、対馬ヲ攻ム、同島民、之ヲ
拒ミ闘フ、」を中心とし、その前後の倭寇及び朝鮮政府の動きを五月五日、
同月十四日、同月十八日、同月二十日、同月二十三日、同月二十九日、六月
二日、同月十五日、七月十二日、同月十七日の各条に収めた。また幕府の対
応や日本国内の動揺ぶりについては五月二十三日、六月十八日条などに収め
た。倭寇、朝鮮の動きに関する史料は、『朝鮮王朝実録』を基本とし、戦い
に参加した軍人の伝記にかかる朝鮮文人の文集もあわせ用いた。また倭寇の
明領内における動きについては『明実録』『籌海図篇』や明人の文集などを
用いた。本冊に収録した範囲での経過の概略は次のとおりである。
 五月初旬、倭寇の大船団が朝鮮忠清道都豆音串(五月五日条)、ついで黄
海道の延平串(五月十四日条)を襲い、さらに遼東に向かう動きを示した。
これによって対馬に兵力となる男子は不在と考えた朝鮮政府は、対馬を攻撃
して女性や子供を捕虜とし、朝鮮半島南端に待機して遼東より帰還する倭寇
船団を迎撃することを計画し、朝鮮王世宗の出撃命令が発せられた(五月十
四日条)。あわせて対馬宗氏や九州探題に対しては、敵意のないことを伝え
ている(二十三日条、二十九日条)。
 六月半ば、倭寇は遼東の望海堝を襲い、明軍に大敗する(六月十五日
条)。しかしこれを知らない朝鮮軍は、六月二十日、計画どおり対馬を攻撃
する。ところが案に相違して対馬に残る兵力は多く、数日間にわたって戦い
が続き、朝鮮軍は苦戦を強いられた。そして台風襲来の恐れを告げる宗氏の
促しもあり、七月三日に引き揚げた(六月二十日条)。翌日、遼東より帰る
途中の倭寇が再び忠清道安興梁を襲ったことにより、朝鮮政府内では再度の
出撃を議論することになる。しかし十二日になって、倭寇は明軍に大敗して
の敗走中であることを知ったため、出撃は中止された(七月十二日条)。十
七日、朝鮮前王太宗は、対馬宗氏に対し、島民を挙げて朝鮮に来降すること
を促す書を送るとともに、再度の対馬攻撃の是非を廷臣に諮っている。賛否
両論が出されるが、しばらくは民力を休め、再攻撃は翌年春に延期すること
となる(七月十七日条)。
 このように朝鮮政府の動きは遼東を襲った倭寇の動きに対応したものであ
る。また五月初旬に倭寇が都豆音串を襲撃したとの情報は直ちに朝鮮から明
に伝えられており、これが望海堝での明軍の防備成功につながっている。
対馬での戦いの様子については『朝鮮王朝実録』のほか朝鮮文人の文集に
も記されるが、うち戦死した朴弘信の伝記を収めた『佔畢斎集』には、対馬
が壱岐や上松浦に援けを求めたことが記されている。従来知られていなかっ
た事柄であろう。また対馬島内に残る史料で、島民の軍功を記した家譜も収
めた。「仁位郡御判物写」中の十二月十三日宗貞盛判物(大千尋藻次郎警固
使宛)はこの合戦参加者に与えた感状で唯一残されたものである(六月二十
日条)。
 戦いの詳細が九州の小弐満貞から幕府に届けられたのは八月七日のこと
で、しかも多くの誤報を含んでいるが、戦いの日付は六月二十六日とされて
おり、『朝鮮王朝実録』の記事と合致するので、六月二十日条に収録した。
この事件に対する日本側の動きであるが、五月二十三日には京都で「大唐
国・南蛮・高麗」が「日本に「責来」るという風聞が流れている(『看聞日
記』)。世宗による出撃の提議は十三日、命令は十四日であり、情報が京都に
届くにはあまりに日が接近しすぎているため、従来、この風聞は朝鮮の動き
とは関係なく、前年に朝貢要請を断られた明の怒りの情報が伝わったもので
はないかとか、『看聞日記』(この部分は浄書本)の記事は後日の加筆ではな
いかとかの解釈がなされてきた。しかし、世宗は都豆音串の事件直後の五月
七日に太宗の宮殿に詰めていた船軍を本来の任地に還らせている。船軍兵士
が漢城から南部沿海部に移動したことが、倭寇の被害に遭ってきた地方では
対馬攻撃近しと受け止められた可能性があるのではないか。そもそも沿岸地
方では対馬攻撃を期待する声があったと考える方が自然だろう。日本に到達
した第一報の起点を世宗の提議や発令に置く必要はないと思われる。
 六月半ばになると、出雲杵築社での怪異が報告され、幕府は諸寺に祈祷を
命じている(六月十八日条)。また西宮、石清水、北野社、賀茂社、美濃南
宮社、熱田社などで怪異が相次いでいる(同)。また七月五日には足利義持
は観応元年以来絶えてなかった祈念穀奉幣の再興を後小松上皇に奏請し、同
月二十二日の実施が決定している(八月二十二日に延引)。
 対外関係ではもう一つ特筆すべき事件がある。七月十九日の明使呂淵の摂
津兵庫への来航である。呂淵は前年六月にも兵庫に来航し、京都に入ること
を拒否されて帰国している。今回の来日では永楽帝のきわめて威圧的な朝貢
要請の書を携えたものであったが、義持は「神意」を理由に再び拒絶してい
る。ただし明が倭寇を禁圧することについては是認している。
 なお、本冊のうち、応永の外寇関係に関する条文の編纂にあたっては須田
牧子の協力を得た。また全般にわたって研究支援推進員藤井麻衣子の協力を
得ている。
(目次一六頁、本文四〇九頁、本体価格九、〇〇〇円)

担当者 榎原雅治・前川祐一郎

『東京大学史料編纂所報』第54号 p.45-48