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大日本古記録 薩戒記別巻 薩戒記目録

本冊には、三種の『薩戒記目録』を収載した。
 二つ目は、永享三年正月より永享一一年一二月までの目録である。底本は公益財団法人前田育徳会尊経閣文庫所蔵『薩戒記目録』(六─二三)である。三つ目と同名のため、本冊では便宜外題の「永享三年辛亥記」を用いた。例言一頁では公益財団法人前田育徳会尊経閣文庫所蔵『薩戒記目録』とし、便宜「永享三年辛亥記」と表記したことを明記する予定であったが、不手際により誤脱した。公益財団法人前田育徳会尊経閣文庫に深くお詫び申し上げる。
 本目録は他の写本は知られず、底本とした公益財団法人前田育徳会尊経閣文庫所蔵『薩戒記目録』(以下「永享三年辛亥記」)が孤本である。収録年代は、一つ目の目録から続く範囲となる。そのため『公武関係からみた室町時代政治史に関する基礎的研究』(一九九五年~九七年科学研究費補助金基盤A研究成果報告書 代表菅原昭英)では、もとは両者一体のものであったと推測している。しかし「永享三年辛亥記」では、基本的に各月一日には干支が付されているなど、書記方法に違いが見られる。年代は接続するが、必ずしももと一具とは言い切れない。
 表紙からもと油小路家に所蔵されていた目録の書写であることが判明す
る。油小路家も『薩戒記』原本を所蔵していた家である。六八丁の冊子本であるが、現状では錯簡があり、本冊では本来の順に訂正して翻刻した。特に永享八年一一月以降が甚だしい。このうち三五丁表は某月一七日条から二八日条までを記す。その中二一日条には「未刻行幸左相府第事」とあり、二六日に還御している。ここから永享九年一〇月の記事と確定できる。三五丁裏には一一月大という月付から一二日条途中までが記されている。ところが一二日条の「左府被申極位事」「内府辞申左大将事、〈後進殿大納言持通被望申事、〉」などの内容からは、永享一〇年一一月の目録と比定される。永享九年一一月の目録は六七丁表に存在する。同一の丁の中でも錯簡が生じているのである。「永享三年辛亥記」時点での錯簡であれば、丁単位で錯簡が発生するはずである。丁の表裏で異なる年月となっていることからは、「永享三年辛亥記」の親本の時点で錯簡が生じていたと推測される。永享二年正月一日目録には「但虫損如形」とある。この部分は、公益財団法人前田育徳会尊経閣文庫所蔵の影写本により原態が窺われるが、その元本はやはり油小路家に伝来しており、虫損が甚だしい。本目録はそうした原本を見て作成された可能性もある。
 三つ目は正長元年一〇月より永享三年四月に至る目録である。底本には公益財団法人前田育徳会尊経閣文庫所蔵『薩戒記目録』(六─二二)を用いた。本目録も他の写本は知られず、底本が孤本である。表紙から、こちらも油小路家が所蔵していた目録を、元禄三年に前田綱紀が書写させたものであることが窺える。元本は「中古以前」の本であるという。書写時から錯簡があり前田家で改めたようであるが、現在も錯簡があり、中間に失われた部分もあるようである。本冊では本来の順に訂正して翻刻した。また本目録の原表紙は台紙に薄い紙が貼られており、「無疑御本~」の文字は表紙の上部に飛び出ている。そのような状況を鑑みると、本来もう少し大きな紙で、もとの目録を敷き写しし、その余白部分を切断して現在の表紙台紙に貼り込んだと推測される。一つ目の菊亭本と時期が重複するが、永享元年九月・永享二年五月後半・同年六月・同年九月などは尊経閣文庫本にのみ見え、菊亭本には存在しない。それぞれが参照した『薩戒記』が異なったのであろう。
 本冊では、参照のため対応する本文の巻頁を示した。約五〇〇〇項目に及ぶ目録の中で、一部でも本文が確認されるのは、わずかに三割五分ほどである(日時の重複を含む)。また現在知られる全ての本文の目録が採られているわけではない。例えば菊亭本『薩戒記目録』応永三二年正月は一九日条までの目録が採られ、以後は目録がない。しかし大日本古記録二巻で底本とした東山御文庫収蔵写本をはじめ、応永三二年正月二〇日~二九日条を「応永卅二年正月下」として含む写本が複数ある。内容も県召除目等に関する記事であり、目録作成時に確認が可能であれば、目録が採られたであろう。すなわち菊亭本『薩戒記目録』作成時に参照したこの日条も『薩戒記』にはこの「応永卅二年正月下」は存在しなかったのであろう。同様の事例は他にも確認できる。こうした目録に採られなかった日条も存在することを考え合わせても、本来の『薩戒記』の記事の膨大さが偲ばれる。また広橋本など、抄出の写本であることが窺われるものもある。『薩戒記』全体像を考える上でも重要な史料である。
 次に本文の残らない部分から、注目される記事をいくつか紹介したい。応永三四年二月頃より四月頃まで、後小松院、ついで称光天皇が不予となった。祈祷や近臣による七仏薬師参詣、六社奉幣が行われている。六月には病平癒のため石清水八幡宮・賀茂社行幸が企図されている。この行幸準備に関する記事はこの後しばらく続き、一〇月には舞人定(一六日)、点地や行幸御祈の御読経(一七日)も行われたが、赤松氏の騒動のためか、三〇日に延引と決した。翌年七月に称光天皇が崩御し、行幸は行われなかった。実行されていれば、南北朝時代以来絶えていた神社行幸となったであろう。正長元年九月には、準備されていた神宝をどうするかの論義もあったようである(二九日)。
 応永三四年一一月、称光天皇は再び病となった。病は翌年も回復しない。この間、正長元年正月室町殿足利義持が薨じた。一七日に危急と成り、一八日薨去、青蓮院義円が後継と定められ、裏松義資邸に迎えられた事(一九日)、大名評定(二一日)、義持の葬礼、追善などが目録に見えるが、残念ながら記事は確認できない。五月には称光天皇の病が悪化し(一七日)、七月二〇日に崩御した。そして伏見宮家から迎えられた後花園天皇が践祚する。後花園天皇は永享五年に元服、同年後小松院が崩御する。その後の政務は義教がみていたようである。永享九年四月二七日には、義教は「諸公事・諸社祭等上卿事、任次第巡役可勤仕、禁裏御成人之上者、向後只可在勅定由、被仰下事」と申し入れている。六月一二日重ねて「朝務事、依故鹿苑院例所申沙汰也、於于今者、被聞食可有御成敗事、〈公武御問答及数度了、遂以有勅許事、自武家被進御剣・御馬事、〉」との申し入れがあり、後花園天皇の親政となる事が定まった。二〇日には、朝務を執るにあたり、正親町三条実雅を頼りにするとの勅定が出されている。二九日の大祓には「件散状不進相府、是依主上令知朝務御也」と記され、七月一八日の法勝寺大乗会弁の指名も「朝務令知御之後、初度御点也」という。朝務の中心が、儀式に参仕する人々の指名や確認であること、先例として足利義満が挙げられていること(後円融院崩御後の後小松天皇時代であろうか)など、興味深い。
 こうした政治関係の話題のほか、杜詩談義などの談義、太平記書写(永享八年九月四日)、石山観音縁起絵詞書写(永享一〇年七月一七日)などの話題も見える。
 史料の使用をご許可いただいた東京国立博物館、公益財団法人前田育徳会尊経閣文庫に深謝申し上げる。
 なお本文一六二頁、正長元年六月二六日条「雅兼朝臣」に付されている(源)の傍注は(白川)の、同二〇五頁、永享三年五月二四日条「道号」に付されている(善山)の傍注は(光山)の誤りである。
(例言二頁、目次一頁、本文三六八頁、本体価格一四、〇〇〇円)
担当者 遠藤珠紀

『東京大学史料編纂所報』第54号 p.52-54