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所報 - 刊行物紹介

大日本近世史料 市中取締類集 三十

 本冊には、旧幕府引継史料の一部である市中取締類集のうち御馬飼幷御飼料・馬売買・醫師供方取締之部一冊、床見世等之部一冊、芝居・床見世之部一冊のうち床見世等之部を収めた。
 御馬飼幷御飼料・馬売買・醫師供方取締之部は、弘化二(一八四五)年三月から同三年十一月までの四件から成る。第一件は、幕府の御用馬を飼育する御馬飼の取締に関する一件である。御厩で博奕や欠落などがみられたため、御厩を掌る御馬預は弘化二年三月、その取締方について若年寄に上申書を提出した。この上申書に関して取り調べるよう指示があったことから、町奉行が対応を評議し、御馬飼を差し出していた人宿の風聞を調査させたうえで、同年十月、取締方が行き届くよう人宿に申し渡すに至った。第二件は、奥医師の供方の取締をめぐる一件である。天保の改革時の取締にもかかわらず、供方が病家で支度代を強請るなどの風儀がみられたため、弘化二年九月、供方の取締を願う願書を奥医師が若年寄に提出した。取締方の評議を指示された町奉行は、供方を口入していた人宿の名前を提出するよう奥医師に要請し、同心に人宿の風聞を調査させたほか、人宿に供方の給金等を書き上げさせている。町奉行は人宿を呼び出して供方となる寄子に厳しく申し付けるよう申し渡し、奥医師および町方医師へも今後は沙汰に及ぶ旨をそれぞれ若年寄と町年寄から申し渡した。第三件は、馬売買に関する一件である。御用馬として買い上げられるのは大半が盛岡藩領と仙台藩領から牽いてきた馬で、残りは諸家に相対で売り渡され、近年高価で売買されていた。このため、天保十三年に馬代金の上限が定められたが、良馬は定値段では引き合わず、下馬を組み合わせるなど不正の取引が行われるようになった。この件で評議を指示された町奉行は、馬喰の利潤も薄くなり、御用馬の調達にも支障が出る懸念から弘化三年正月、良馬は相当の値段で相対取引し、法外に高価な取引は禁ずる触書案を作成したが、若年寄はこれまで通りとするという判断を示している。第四件は、御馬の御飼料の当時の市中値段について、弘化三年十一月に勘定所が町奉行所に問い合わせた一点のみである。
 床見世等之部は、床見世等之部一冊から一〇件、芝居・床見世之部一冊から三件のあわせて一三件を収めた。第一~一〇件は天保十二(一八四一)年十月から嘉永元(一八四八)年四月、第一一~一三件は弘化四年十一月から嘉永四年二月にわたっている。芝居・床見世之部一冊は原表紙が失われており、この冊が追加の扱いであったかどうかは不明である。冊の前半にある芝居之部に該当するとみられる部分については、続刊予定の芝居之部として収録することとした。
 天保十二年十月、町中にある床見世を残らず取り調べるよう老中から指示があり、北町奉行遠山景元は許可の有無や上納金の額などを記した床見世の書上を名主に提出させた。ただ、許可の有無だけで存続の可否を判断するのは難しく、床見世を取り払えばそこで商売するその日暮らしの者が生活できないことも懸念し、掛の与力・同心を任命して見分させることを同年十一月に伺い、翌年八月に認められた(第一件)。猿屋町会所附掛床(第一〇件)や葭簀張同様の茶屋等で許可のないものは取払いが命じられた(第九件)が、許可された内容とは実態の異なる床見世も多かった(第二件)。遠山が大目付に転任した後、その後任となった阿部正蔵と南町奉行鳥居忠耀は、天保十四年四月に掛が上申した調査結果に基づいて取払いの見当を示した伺書案で床見世を残らず取り払う考えを示している(第四件)。しかし、南町奉行として戻ってきた遠山は弘化二年六月、床見世を全面的に取り払えば裏店住居などの者は生活できなくなるとして、まずは従来通りとしたうえで、今後出火など問題が起きた場合には、許可を得たことがはっきりしない分については取り払うことを阿部の後任鍋島直孝との連名で老中に上申し、十一月に認められた(第三件)。その後、先年のように、または新規に床見世を設ける願いは認められなかった(第七・一二・一三件)が、不浄物の投棄が問題となっていた御水引屋の拝借地への床見世の設置願いについては、町奉行限りでは答え難い旨を御納戸頭に回答している(第一四件)。一方、葭簀張の茶店などを取り払ったものの通行人が難儀する場所については古復が認められた(第五・六・八件)。ただし、古復を願う申立てへの懸念から、願書を下げさせたうえで古復を申し付けることが検討されている(第一一件)。
 (例言一頁、目次一七頁、本文四四九頁、本体価格一〇、七〇〇円)
担当者 鶴田啓・杉森玲子

『東京大学史料編纂所報』第54号 p.48-49