編纂・研究・公開

所報 - 刊行物紹介

大日本史料 第九編之二十八

本冊には、後柏原天皇の大永四(一五二四)年八月の史料を収録したが、薨卒及び伝記に関する史料が大半を占めることとなった。
 八月一日第二条には玉隠英璵の卒伝を収めた。玉隠は、臨済宗大覚派、器庵僧璉の法嗣である。器庵は、明月院開山密室守巌の法孫で、玉隠も明月院に住した。俗系は、頂相に付された自賛によれば信濃滋野氏の出身というが、詳細は不明である。一〇歳で僧門に入り、一八歳で建長寺にて秉払を遂げたといい、のち建長寺に出世して一六四世となった。明応八年(一四九九)八月に六八歳にて入寺した際の入院法語が伝わる。生年はこれに従えば、永享四年(一四三二)である。寂年を記したものは、同時代史料からは見いだせない。本書では、足利衍述『鎌倉室町時代之儒教』(日本古典全集刊行會、一九三二年)の見解に従い、玉隠と交流のあった奇文禅才の弟子にあたる竜派禅珠著『寒松稿』に九三歳で死去した旨の記載があること、大永三年に九二歳とする自署があること、この年齢表記は他史料と矛盾しないことを以て、とりあえず大永四年として卒伝を収めたが、明月院所蔵『鎌倉五山記』は、永正五年(一五〇八)の寂とする。ただ永正五年以降にも活動が見られることから、この年次は採用しなかった。なお玉隠の事績を多く収録する『信濃史料』も大永四年寂説を採用している。命日が八月一日であることは諸史料に共通する。死後、宗猷大光禅師号を贈られた。その時期は不明であるが、文明二年(一四七〇)に作成されて書き継がれた「建長寺年中諷経並前住記」は、歴世に「玉隠」と記し、回向の八月一日に「宗猷大光禅師」と記す。この回向欄の文字は貼紙に書かれており、この部分は禅師号授与後に改変したものとみられるから、死後の授与と推定するものである。玉隠の法嗣としては九成僧菊・指月僧胝が知られる。
 玉隠は、室町後期の関東禅林を代表する文筆僧として著名であり、その名を冠した文集として、『玉隠和尚語録』が伝わる。ただしこの『玉隠和尚語録』に、玉隠と交流の深かった建長寺一六二世竺雲顕騰の作品が混ざっていることは、既に玉村竹二の指摘がある。また竺雲顕騰だけではなく、暘谷乾幢・雲英祖台・奇文禅才の作品と確定でき、かつ玉隠に宛てているわけでないものも散見される。『玉隠和尚語録』は現在、①上村観光氏所蔵写本の謄写本(史料編纂所架蔵)と、②鹿王院所蔵写本の二本が知られる。①は一丁目に表紙の形で書名が写され(ただし謄写本なので原型は不明)、②は原表紙に貼紙で書名が記されるが、①②とも本文冒頭に書名はない。『玉隠和尚語録』が、そもそも「玉隠和尚語録」として編纂されたのか、あるいは当初からそう名付けられていたのかについては、検討の余地があると言うべきであろう。以上に鑑みて本書では、文中から玉隠の作品と確定できるもののみ所収し、確定できないものは不採とした。ただし、文中からでは玉隠作と決められないもので、他史料から玉隠作であることが判明したものもあり、確定できないからと言って、玉隠作ではないというわけではないのは勿論である。なお本書では①本を底本とした。②本は、①本と比較すると何紙分かの脱漏があるうえ、①本より善本であるとの確認が取れなかったことから先行研究に従ったものである。ただし、②本にある一行が、①本では脱落していることがあり、また字として②の方が適切と思われる場合も散見され、①本と②本の関係はなお検討の余地がある。
 同じく玉隠の詩文を多く所収することで知られる史料に、『文明明応年間関東禅林詩文等抄録』(史料編纂所所蔵)がある。『国書総目録』は玉隠の詩文を中心とすると紹介するが、実際には相当数の人間の詩文が混在し、その史料的性格は不明と言わざるを得ない。なかには長門と堺の僧の贈答や、堺の僧の作品などもあり、「関東禅林」なのかという点についても疑問がある。本史料が本所に所蔵されることとなった経緯については、『太田晶二郎著作集』二(吉川弘文館、一九九二年)所収「金沢文庫に関する一史料」(初出一九五一年)に言及がある。それによれば、『関東禅林詩文等抄録』は「最近入架」で無題の古写本であったが編纂所で名称を附した、という。入手の経緯については古書会からの購入、村田正志の功績とある。七一編あり概ね玉隠の作で大まかにみればその集ともいうことができる、とも記すが、その判断は玉村竹二によるらしく、いずれの発表を待つとしているが、この点についての玉村の専論は見当たらない。以上から本書では、『玉隠和尚語録』と同様、文中から玉隠の作品と確定できるもののみ所収し、確定できないものは不採とした。不採としたものに玉隠の作品が混ざっている可能性については『玉隠和尚語録』と同様である。
 玉隠が賛を寄せる絵画のうち、現存作品については『関東水墨画』(相澤正彦・橋本慎司編著、国書刊行会、二〇〇七年)に詳しい。これらの作品類については、「事績」項に詩文・文書とともに、年代が判明するものについては年代順に並べ、年代不明のものについては、法語・文書・現存作品・記録類所載の詩文の順に並べて末尾に付した。『大日本史料』既収分については省略した。連絡按文を参照されたい。玉隠の印章としては、鼎型印・「復畊」方印・印文未詳の長方印のほか、パスパ文字で「eu・in」と、玉隠を音写した円印が知られる(宮紀子『モンゴル帝国が生んだ世界図』日本経済新聞社、二〇〇七年)。宮氏は『事林広記』の「蒙古字体」欄を見れば、音にパスパ文字をあてるのはさほど難しくないとするが、詩文中に中国故事を縦横に引く玉隠の教養の一端をうかがうことができる印章として興味深い。
 八月二十日条には楽人豊原統秋(法名忠霽)の卒伝を収めた。統秋は、笙の名家に生まれ、後柏原天皇・将軍足利義尚・義材の師範をつとめ、「教訓抄」・「楽家録」と並ぶ三大楽書の一つとされる「體源抄」を著したことで知られる。また、三条西実隆に和歌を学び、歌集「松下集」等多くの作品を残したほか、薬の調合など医術にも通じていたようである。
 事蹟史料の採録にあたっては、天皇・将軍への伝授、御楽、懺法講をはじめとする仏事等、綱文を立てるべきもの、楽所奉行山科言国や三条西実隆との交流等、年末雑載に採録するべきものについては、重複を避け、連絡按文によって所在を示すに止めた。
 多くの記事を採録した「體源抄」について。上野学園日本音楽資料室所蔵安倍季尚書写本「體源抄」(「山田孝雄博士収集『體源抄』写本類」一五四六八―一五四八五)第三冊端書によれば、統秋の自筆本は禁裏御蔵に伝来したが、万治四(一六六一)年正月一五日の火災の際に焼失したという。現在は多くの近世写本が各所に伝来している。その中で最善本とされるのは京都大学附属図書館所蔵菊亭家旧蔵一九冊本(巻四・巻一三を欠く)である(福島尚「『體源抄』所引の『十訓抄』について―受容の様相とその本文研究上の価値―」『国語国文』第五七巻第九号、一九八八年九月)。また、活字本としては、東北大学狩野文庫所蔵二〇冊本(目録を欠く)を底本とし、芝葛盛氏所蔵本で校合を加えたものが、正宗敦夫編『日本古典全集』(日本古典全集刊行会、一九三三年)に収められている。
 史料編纂所は徳大寺家旧蔵の二一冊本(徳大寺家本―六〇―〇四―〇一~二一)を所蔵している。この本は、巻十一本の「御遊作法」の「和琴」の下に「虫クイ不見」とある点(徳大寺家本では三丁裏第四行)、巻八本の終わり近く「準」の部の頭書に「自是十一枚此トヲリ虫クイ」とある点(一〇四丁表最終行)、その後に続く欠字部分が全て紙の折目より第一行の頭部にあり、表裏対称となって十一枚にわたっている点が、菊亭家旧蔵本及び狩野文庫本と共通し、同系統であることが分かる。また、本書への採録部分を中心に菊亭家本と校合したところ、改行・改丁・丁数等も概ね同じであり、文字の異同に関しては、いずれが善本であるかを明確にし得るものではないと考えられた。その上で、欠巻なく本文一三巻二〇冊及び目録一冊を完備することから、本書では徳大寺家本を底本として採用することとした。
 徳大寺家本の書誌事項の概略を記す。一三巻二〇冊・目録一冊の二一冊本。五ツ目の袋綴で、法量は各冊概ね二五・五糎×一八・五糎。本文料紙は楮紙。柿渋刷毛目表紙。外題は打付書で、目録以外は裏表紙左端中央に通し番号を付す。本奥書以外の書写校合奥書等はない。各冊の外題・墨付丁数は以下の通り。第一冊・「體源鈔目録」・九丁、第二冊・「體源鈔一」・一三八丁、第三冊・「體源鈔二本」・一一八丁、第四冊・「體源鈔二末」・七七丁、第五冊・「體源鈔三上」・九八丁、第六冊・「體源鈔三下」・一一八丁、第七冊・「體源鈔四」・一一九丁、第八冊・「體源鈔五」・一一七丁、第九冊・「體源鈔六」・七二丁、第一〇冊・「體源鈔七」・九二丁、第一一冊・「體源鈔八本」・一一五丁、第一二冊・「體源鈔八末」・六二丁、第一三冊・「體源鈔九」・一〇六丁、第一四冊・「體源鈔十上」・九四丁、第一五冊・「體源鈔十中」・九七丁、第一六冊・「體源鈔十下」・一〇三丁、第一七冊・「體源鈔十一本」・一〇八丁、第一八冊・「體源鈔十一末」・一一一丁、第一九冊・「體源鈔十二上」・一三一丁、第二〇冊・「體源鈔十二下」・八一丁、第二一冊・「體源鈔十三」・八三丁。なお、徳大寺家本の画像データは、史料編纂所のデータベースから公開する予定である。
 「言国卿記」・「山科家礼記」(「久守記」・「重胤記」)の紙背には五〇点以上の、「実隆公記」の紙背には十数点の、統秋自筆書状及び関係史料が存在する。また、「実隆公記」以外の三条西家史料の紙背等にも統秋の自筆書状が散見する。このうち「実隆公記」紙背は続群書類従完成会により翻刻刊行されているが、それ以外のほとんどは未翻刻未紹介で、統秋に関するこれまでの検討においても、ほとんど採り上げられることはなかったようである。本書では、「言国卿記」・「山科家礼記」紙背から一三点、「実隆公記」紙背から九点、その他から二点を採録した。「言国卿記」及び「山科家礼記」紙背は、モノクロ写真によらざるを得ない状況であり、充分な判読が行えず、採録を見合わせざるを得なかったものも多い。補遺、あるいは別の機会を得て全体の翻刻を試みたい。また、これらの自筆書状から花押を抽出し、ある程度その変遷が明らかになるように排列して、「参考」の「花押彙纂」として示した。
 楽所奉行をつとめた松木宗綱の日記から、「體源抄」の記述と対応する文明一八年二月の記事を収めた(一三三~一三五頁)。宗綱の日記のうち「楽所奉行方宗綱卿記」の表題を持つものとして、文明一一・一二年の記事を有する東山御文庫史料中の一冊本(勅封一五五函六―一)とその影写(史料編纂所影写本「東山御文庫記録 丙四九」(三〇〇一―一―一二六)、文明一三・一六~一九年の記事を有する国立国会図書館所蔵の四冊本(ほ―六二)が知られている(古典籍総合目録データベース)。今回の採録にあたっては、これらすべての記事を有する国立歴史民俗博物館所蔵高松宮家伝来禁裏本中の五冊本(さ函三〇)を底本とした。同本の書誌情報は、『国立歴史民俗博物館資料目録[八―一]高松宮家伝来禁裏本目録[分類目録編]』(国立歴史民俗博物館、二〇〇九年)を参照。
 統秋の歌作について。「詠千首和歌」(一八〇~一八九頁)は、天理大学附属天理図書館所蔵で、統秋の自筆本である。原本調査を行い、全文の翻刻を試みたが、紙幅の関係で、歌を略し、歌題及び三条西実隆による合点の有無を示すのみに止めた。
 「詠三十首和歌」(一九四~二〇二頁)は、既に簗瀬一雄編『碧冲洞叢書』第一〇巻第六九輯「未刊和歌資料集 第六冊」に、刈谷市中央図書館村上文庫所蔵「蓬廬雑鈔」第七冊収録の本を底本とし、神宮文庫本で校合した翻刻が収められている。今回の掲載にあたっては、未翻刻の国立歴史民俗博物館所蔵高松宮家伝来禁裏本「智仁親王百首」(ム函一三二)所収本を底本とした。同本は、書名となっている「智仁親王百首」及び「平氏康十五首」とともに一冊をなしており、収録順序は異なるものの、この点は「蓬廬雑鈔」と共通している。ただし、両本の間で文字遣いは大きく異なっている。書誌の詳細は前掲の『国立歴史民俗博物館資料目録[八―一]高松宮家伝来禁裏本目録[分類目録編]』を参照。なお、伊藤敬『室町時代和歌史論』(新典社、二〇〇五年)「第六章 室町後期歌人・歌書抄 一 豊原統秋 體源抄・松下抄―楽・歌・仏三道一如―」は、祐徳稲荷神社中川文庫本によって「詠三十首和歌」に言及しているが、第二四首「残月越関」に関し、「合点はない」として「松下抄」への収録理由に疑問を呈している(五三一頁)。しかし、高松宮家伝来禁裏本及び蓬廬雑鈔本にはともにこの歌に合点があり、疑問を差し挟む余地はない。この点で、中川文庫本は両本よりも善本ではないと判断される。
 統秋の自選歌集「松下抄」からも多くの歌を収録した。伝本は、三条西実隆筆とされる静嘉堂文庫本の系統と肥前島原松平文庫所蔵本の系統とに分けられるが、いずれも既に翻刻がなされている(伊藤敬「「松下抄」解題・翻刻」〈『藤女子大学・藤女子短期大学紀要』第七号、一九六九年〉、和歌史研究会編『私家集大成 第六巻 中世Ⅳ』明治書院、一九七六年)。収録にあたっては、巻末に統秋の奥書を有し、落丁等による歌の欠落のない松平文庫所蔵本によることとした。
 金沢市立中村記念美術館所蔵「和歌懐紙」(二〇五頁)は、二〇〇九年、志野流香道教授橋本一枝氏より、香道具等とともに寄付されたもので、同館の御厚意により、原本調査の上、採録することができた。記して謝意を表したい。
 八月二四日第二条には武者小路縁光の薨伝を収めた。縁光は日野流の一人として幕府に近く、また、摂関家の家礼をつとめたことも与り、父資世とともに「後法興院政家記」・「後法成寺関白記」に頻出する。ただし、これらの記事の多くは、年末雑載を含めた各年の条に収められるため、伝記として特徴的なものを除いて、多くは所在を連絡按文で示すに止めた。武者小路家は縁光息資茂の出家によって断絶することになるが、その予兆であるかのように、邸宅の火事、所領の不知行、窮困による不参等の記事が散見する。
 なお、縁光の右中弁補任が文明二年であることは、「親長卿記」の記事から明らかであるにもかかわらず、「弁官補任」の諸本は一致して文明元年とする。本書では、柳原紀光による朱筆訂正が加えられた宮内庁書陵部所蔵柳原本を採録した(三一三~三一四頁)。
 薨卒条以外では、八月十六日条に芳郷光隣の東福寺入寺の綱文を立て、国立国会図書館所蔵「疏藁」(八二一―二一〇)から、彭叔守仙の山門疏・月舟寿桂の江湖疏・茂彦善叢の同門疏を収録した。彭叔及び月舟の疏は、それぞれの個人文集「猶如昨夢集」・「幻雲疏藁」にも収められているが、文集では省略されている序・年月日・連署者を備え、卦を引いて縦横の字数を記し、改行や字配りも原形を保存している「疏藁」によることとした。「疏藁」については、山口隼正「入寺疏の序を読んで」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』六八、二〇〇六年三月)を参照。また、芳郷の入寺法語は白石芳留(虎月)編『東福寺誌』(東福禅寺、一九三〇年)によった。史料名表記「芳卿和尚住東福寺語」は他の史料と矛盾するが、典拠史料を確認できなかったためそのままとした。
 八月是月の第三条には、前南禅寺住持九峰宗成による宇喜多能家肖像への着賛を採り上げ、岡山県立博物館所蔵「絹本着色宇喜多能家像」(国指定重要文化財)の賛全文を掲載した。同史料は、能家の伝記史料として知られ、これまでも地方史等に翻刻掲載されてきたが、破損等による判読不能の部分が多く、近世の地誌類や「続群書類従」所載の翻刻に頼らざるを得ない状況であった。今回の掲載にあたっては、本所架蔵模写「宇喜多能家画像」(呂―一二七)を典拠とすることも検討したが、状況を大きく改善するものではなかった。しかし、岡山県立博物館及び名古屋大学斎藤夏来氏の御厚意により、同氏の科学研究費「宇喜多能家画像賛にみる戦国期在地勢力の武士化に関する研究」(基盤研究🄒)で作成された高精細赤外線撮影画像を利用させていただくことができ、その結果、従来判読不能であった文字の多くを確認することが可能となった。記して感謝の意を表したい。
 (目次三頁、本文三四九頁、本体価格八、二〇〇円)
担当者 渡邉正男・須田牧子

『東京大学史料編纂所報』第53号 p.39-43