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大日本古記録 薩戒記 六

本冊には永享九年(一四三七)四月から嘉吉元年(一四四一)六月までの記を収めた。記主中山定親は三七歳~四一歳の時期であり、官位は正三位参議、左近衛中将から、永享九年一〇月に従二位に昇った。室町殿足利義教の武家伝奏として活躍している。義教は嘉吉元年六月二四日に赤松満祐により殺害された。残念ながら『薩戒記』にはその当日の記事は確認されていないが、本冊では義教時代までを収めたこととなる。
 本冊で使用した底本については例言にまとめたが、何点か補足を加えたい。
 まず永享一〇年末の「雑々日次抜書」について(一五九頁~一六三頁)。永享一一年正月二日、殿上淵酔が行われた。この座次をめぐり、蔵人頭正親町持季と清閑寺幸房の間で殿上管領をめぐる座次相論が起きた。二日当日、定親は後花園天皇の命により、義教に相論について申し入れ、持季を管領とすべしとの仰せを受けている(正月二日条)。その後幸房は義教に知行分を取り上げられ、持季に与えられた(正月一六日条)。これらは広橋本『薩戒記』のうちに収められている。本冊ではさらに前年永享一〇年末の関連史料を、京都大学図書館寄託菊亭文庫「雑々日次抜書」より収載し、宮内庁書陵部所蔵「砂巌」で対校した。「雑々日次抜書」は「山槐記」「薩戒記」の抜書など中山家関係の史料を貼り継いだものであり(『東京大学史料編纂所報』四八号参照)、本記も中山家関係の記録である可能性が高い。本記は前欠で、年月日・記主も記されていないが、登場する人物からこの時の相論に関するものと推測される。本文中、「予」は天皇の命をうけて諸卿に諮問し、その返答をとりまとめる立場にある。またそれで解決しがたければ、義教に申すようにと命じられており、永享一一年正月記に見える定親の立場と近い。ただし本文の時系列を見ると「早参云々」と始まり、後花園天皇の命を受けて万里小路時房等に諮問をしている間に「及暁天」と日が変わっている。さらに退出して、「翌朝正月一日」に至っている。こうした書き方から、日次記そのものではなく永享一〇年一二月二九日より翌正月一日までの関連記事をまとめたものであろうと判断した。
 対校に使用した「砂巌」は、江戸時代柳原紀光が『続史愚抄』編集のために作成した史料集であり、この件に関しては「殿上管領座次相論事」とまとめられている。日野大納言請文、万里小路大納言請文、万里小路大納言申状内不審条々は「雑々日次抜書」と同内容であるが、頭中将注進勘例の内容は「砂巌」のみに見えるため(「雑々日次抜書」では該当部分が空行になっている)、「砂巌」で補った。また「殿上管領座次相論事」にはもう一点「羽林方殿上管領事」という注進が収められているが、これは『薩戒記』永享八年一二月七日条に引用されている勘例とほぼ同内容である。こうした要素から、この史料も中山定親の記録の可能性が高いと判断し、ここに収載した。
 二つ目は延暦寺塔供養に関する記事である(一八九頁~一九八頁)。延暦寺根本中堂は、永享七年に衆徒らの手によって焼かれた。その後、再建事業が始められている。京都大学附属図書館所蔵滋野井本第三〇冊は、「延暦寺供養記」と表紙題簽にある通り、根本中堂塔供養に関する永享一一年一〇月一一月、また嘉吉元年四月~六月の記録がまとめられている。このうち前半、永享一一年一〇月二六日かと推測される先例を記した部分(一八九頁~一九八頁)の底本には、国立歴史民俗博物館所蔵「延暦寺文殊堂供養文書」を用いた(この文書名は後世に付されたものである)。「延暦寺文殊堂供養文書」には年月日、記主に関する記載はなく『薩戒記』であるとの確証はない。しかしながら以下の特徴により、こちらを底本とした。
 一つは文書の傷み方の状況である。滋野井本は滋野井公澄(一六七一~一七五六)が書写したと推測される写本であるが、原本の墨滅の跡も示されるなど自筆本を臨写した可能性もある善本である。延暦寺塔供養に関する第三〇冊の冒頭部分は、書写時すでに傷みが甚だしかったようで前欠となっており、また各所に破損の後が破線で示されている。この破損の状況が、「延暦寺文殊堂供養文書」と現況とほぼ一致する。また補書も同じように記されている。かつ「延暦寺文殊堂供養文書」の紙背は永享一一年の具注暦が使用されており、きわめて近い時期に成立した史料と推測される。以上から「延暦寺文殊堂供養文書」が、本来定親の手元にあり、『薩戒記』に貼り継がれていたが、滋野井本の書写後に剥落して単独で伝来した可能性があると判断した。
 三点目は永享一二年四月一六日の八坂法観寺の塔供養に関する記録である。この時の記録は二本が確認される。一本は史料編纂所所蔵で、田中教忠氏旧蔵「薩戒記」の第四巻である(以下アとする)。褾紙には田中氏の手で「原本」と記されているが、少なくとも四月一六日条の筆跡は定親のものではないと思われる。ただし紙背文書は同時期の定親宛書状であり、定親が関与する形で作成されたと推測される。三月某日・六日~四月一五日までの準備の様子を記したのち、一六日の当日の記載となっている。
 巻頭図版にはこのア本所所蔵第四巻の一部をかかげた。抹消・書き直し・補入・切り貼りなどがきわめて多く推敲を重ねている様子が窺える。さらに推敲の様子は紙の切り継ぎ状況からも窺える。特に前半は短い紙が細かく張り継がれている。たとえば七張は八張にあたる紙の冒頭から半行分くらいを抹消し、切った上に張り込まれている。九張・一〇張・一一張の接続状況も注目される。九張は末尾「事始、先公卿三人」と書いた後、挿入の形でその人名を入れようとしているが、すべて抹消し、また紙を切っている。挿入された公卿たちの名前は紙の端に切られた状態で見える。続く一〇紙では、細川持之以下の動向を記し、再度「事始、先公卿三人」として一一紙に続く。本来九張と一一張が接続していたが、切って間に一〇張を張り込んだのであろう。一〇張の最終行は七字記した後、その下の余白には何も書かないまま黒く塗りつぶし、一一紙冒頭の人名につなげている。このように余計な余白部分を黒く塗りつぶしている箇所は他にも見える。なおこの一一張は、次の一二張との接続箇所も特徴的である。四行目、「導師■」と三文字記した下で切られ、一二張が継がれている。鈎型になっているのである。一二張も文章の途中を切り落とし削除している。本記はこのように推敲に推敲を重ねている様子が看取できる点でも興味深い。おそらくアは草稿であり、この推敲の上に、さらに清書した記録が作成されたと推測される。
 いま一本は、「八坂塔供養記抄」である(以下イとする)。この記では冒頭に関連する勘状四通を記した後、四月一六日条が記されている。定親は、儀式について委しく日記に記す場合に、儀式の次第書の間を埋めるような形で日記を記していることが多い(本郷恵子氏のご教示による)。たとえば本冊に収めた永享一〇年八月一五日の「放生会御参行記」でも、一段高い所から「次六位外記置式筥」「次上卿召召使」「次上卿召弁」と次第が端的に示され、その次に具体的な動きや経路、人物、特記事項などが記されている。そしてこの「八坂塔供養記抄」はまさにそうした形になっており、『薩戒記』の典型ともいえる。
 ではなぜ同一日条の日記が二つあるのであろうか。両者の記述を比較する。まず人物名の書き方を見ると、イには「予」が四回登場する。この四箇所をアと比較すると、二三一頁「予見荘厳」は「堂荘厳」として堂の設えが記されている。イ二三四頁では着座の公卿として「四条新中納言〈隆夏、〉・左衛門督〈実雅、〉・予」があげられ、対応するア二二〇頁では「権中納言藤原隆夏卿・左衛門督実雅卿・参議左近中将定親卿」とある。これによってイの記主が定親であることがはっきりするとともに、イが称号・一人称による記載であるのに対し、ア官姓名という、より一般化した表記になっていることがわかる。イ二三九頁も同様で、布施を取る記述の中で「予取蘇芳、〈牡丹也、〉」とある文章が、ア二二三頁では「宰相中将取牡丹織物被物」とされている。
 次にアの抹消箇所、文章の入れ替え箇所を見ると、イに見えた記述が抹消の上、書き直されていたり、順序を入れ替えたりされており、イがアの基になっていたと推測される。かつ先述のようにイが、端的な次第書形式、箇条書きに近い雰囲気だったのに比較すると、一連の文章として整えようとしている。
 その他の大きな異同としてはイ二三九頁で布施の準備を下家司が担当したことについて「先例武家奉行所調渡之也、而今度大和守貞連下向鎮西之間、不慮予仰家僕令調之、」と説明を加えている部分が、「先例武家奉行所調渡之也、今度不然、」とされており、個別の事情についての記述は求められていなかったようである。
 このようにみていくと、イを基に推敲を重ねている途中経過がアであり、アの方がより一般化した記録になっているといえる。とすれば最終的に記された記録は、今回の公式記録として義教に奉られたのではないだろうか。八代将軍義政は清原業忠に、自らを主体とする『任大臣大饗記』を執筆させたという(高橋秀樹「『田中穣氏旧蔵典籍古文書』所収の記録類について」『国立歴史民俗博物館研究報告』七二、一九九七年)。あるいは本記もそうした意図があったのかもしれないが、今後の課題としたい。『蔭涼軒日録』同日条では「総記録可在中山殿」とあり、定親が記録者として期待されていたことが窺える。
 次に内容について簡単にまとめる。この時期関東では永享の乱が起きていた。『薩戒記』には、永享九年七月大覚寺の義昭が逐電し、八月八日条では還俗したとの噂が、二四日条では関東の足利持氏と内通したとの噂が記されている。これを除くと関東の情勢ははっきりとは記されていない。しかし定親はこの時期、今川持貞(二四頁)・小笠原政康(七七頁)・上杉憲顕(一七六頁)等の叙任を立て続けに差配している。これらは関東における戦闘の論功行賞であろう。永享九年八月一八日には降伏した信濃の村上義清が義教に謁した。この時も定親始め門跡や人々の関心は義教への参賀にあったようである。そうした意味では、関東の戦争は京都の公家たちにとっては他人事のような感覚であったのかもしれない。
 永享九年一〇月、後花園天皇の室町殿行幸が華やかに行われた。定親は八月頃より準備に当たっている。しかし行幸準備については「条々在別記」(永享九年八月二八日条・二九日条)とあり、より委しい別記が仕立てられていたようだが、現在は確認できない。同様に一〇月二一日からの行幸当日の日記も確認できない。僅かに西尾市岩瀬文庫所蔵「蹴鞠部類記」中に一〇月二五日の晴御鞠会の様子が納められているのみである。
 永享一〇年には、義教が石清水八幡宮放生会を勤めるため、五月からその準備に忙殺されている。五月から八月一四日までの「放生会御参向兼日記」には京都大学図書館所蔵平松本を底本とした。体裁や訂正など原本の雰囲気を留めた写本である。当日一五日から一八日までの「放生会御参行記」は滋野井本を底本とした。滋野井本では末尾に「裏反古ノウチ」として舞御覧・和歌御会の次第が記されている。『薩戒記』原本の紙背文書の可能性があるとしてこちらも収載した。
 永享一一年閏正月一七日、同一八日と、義教には続けて男児が誕生している。一八日に産まれたのが、のちに兄で八代将軍義政の後継者に擬された義視となる。同じく閏正月七日、危篤の冷泉為之より上階を望む使者が来る。しかし永享八年以来の義教の不興によりかなえられず、正四位下左中将で卒した(閏正月一五日条)。定親は為之を「和歌一流の人」と評し、「哀れむべし悲しむべし」と記している。
 永享一一年三月、永享一二年一一月にも義教は石清水参詣を計画する。さらに先述の延暦寺塔供養の準備、八坂寺法観寺塔供養が行われた。義教が大きな催しを企図する都度、定親は奉行として奔走している。このうち永享一二年一一月の石清水参詣は、前年の参詣が大和の騒乱により中止されたために再度計画されたようである。準備段階の「八幡御社参記」、当日の「八幡御詣記」は、ともに滋野井本が孤本であり、底本とした。「八幡御詣記」には「写本巻物、裏反古消息ナリ」との注記が付されている。「八幡御社参記」も特徴的である。日付順に記事が並ぶのではなく、「一日次事」と項目が立てられた後に、三月から一一月までの経過が記されるスタイルとなっている。日次記であった日記を、ある段階で項目別にまとめ直したと思われ、興味深い。なお日付が行ったり来たりするので、編纂に当たっては便宜のために欄外上欄に日付を太字で示した。
 嘉吉元年には九月に予定されている延暦寺根本中堂供養の準備を進めている様子が窺える。しかしその途中六月末、嘉吉の乱が勃発し、義教は横死した。
 本冊の編纂にあたっては古記録室の方々、また各ご所蔵者に大変お世話になった。記して深謝する。
(例言四頁、目次三頁、本文二七九頁、巻頭図版二頁、本体価格一〇、〇〇〇円、岩波書店発行)
担当者 遠藤珠紀

『東京大学史料編纂所報』第51号 p.54-57