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大日本近世史料 廣橋兼胤公武御用日記 十二

本冊には、宝暦十二年(一七六二)十月より同十三年七月までの「公武御用日記」と、宝暦十三年正月より四月までの「東行之日記」を収めた。
 宝暦十二年の兼胤は四十八歳。官位は前冊と同様、権大納言・正二位である。嫡男の伊光は、蔵人として出仕し官位は左少弁兼右衛門権佐・正五位上であったが、十一月五日に権左中弁に転じ、七日に拝賀を行っている(十一月五日の条)。
 本冊における兼胤の年頭勅使としての関東下向は、宝暦十三年二月十九日から三月二十二日までの間である。この年の勅使は、前年の後桜町天皇践祚の祝儀勅使、及び将軍家における若君誕生(後の徳川家基、後述)の祝儀勅使を兼ねたものであった。二月十九日に京都を出立し、江戸には三月三日に着している。登城は五日であるが、まずは殿上間にて御台所への践祚祝儀・若君誕生祝儀を老中に伝達し、次いで白書院に座を移して将軍と対顔し、年頭・践祚・若君誕生の祝儀を伝達している。翌日からは例年の通り、能見物の登城や御三家・輪王寺門跡への御使を勤め、九日に将軍・御台所からの返答・賜暇があった。これにて無事江戸を出立し帰京の途につく予定であったが、将軍代替わりの自分御礼のため勅使に同行していた松木宗済が九日に下城する際、下乗橋の辺りでその行列を老中秋元凉朝の嗣子永朝の押足軽が割ったため、宗済の家来がこれを打擲し怪我をさせるという事件を起こした(三月十日の条)。松木家と秋元家の間では直ちに話が済み決着がついたが、幕府の取り調べでは宗済家来と秋元家押足軽の言い分とが食い違ったため、城内という場所柄のこともあり、町奉行依田政次預かりの吟味となってしまった。そのため、一件が落着するまで宗済の発足は差し止められ、兼胤と同役の姉小路公文は、吟味の結果を聞き届けるまで自身の発足を見合わせようかとも考える。もっとも、既に将軍から賜暇され京都へも十一日江戸出立と言上をしているので、勝手に日取りを変更するのは公武に対して畏れがあることから、当初の予定通り十一日に江戸を発ち、二十二日に帰京して将軍等の御請を奏上している。宗済家来と秋元家押足軽への吟味は十三日までに済み(三月二十日の条)、二十七日に青侍一名に江戸・洛中・生国構が、押足軽には江戸・生国構がそれぞれ申し渡され、一件は落着した(四月四日・九日の条)。宗済は十四日に江戸出立が許され(三月二十四日の条)、二十六日に帰洛している。
 本冊における朝廷の人事であるが、大きなものは見られない。宝暦十三年二月十五日に、中﨟に老衰(八十歳余)の者がおり御用に立たなくなっているので、新人を召し加えたいと女院御所より申し出があり、諒闇明けに倉橋有儀女の美子が召し出されることになったことくらいである(六月三日の条)。新人を出仕させると中﨟は四名となるが、これは特例であり、女院御所の中﨟定員である三名を変更するものではないことが所司代に説明され(二月十八日の条)、それを受けて関東から承認の返答が到来していることから(三月二十五日の条)、中﨟クラスの人事についても幕府の了解が必要であったことがわかる。
 本冊に見られる朝廷内での動きとしては、(イ)桃園院(宝暦十二年七月二十一日崩御)の生母である女官の三位局(姉小路定)の処遇交渉、(ロ)後桜町天皇の即位式に向けた準備、(ハ)改元の時期の調整、(ニ)清涼殿上段・常御殿琴碁書画間の普請などが注目される。前冊では桃園天皇が崩御し後桜町天皇が践祚したが、本冊ではその代替わり後の諸問題を処理するため、朝幕間で様々な交渉が繰り広げられている。
 (イ)については既に前冊で、敬法門院(東山天皇生母)の例により門院号を宣下し関東より年千俵を進上されたいとの御内慮伺いをしているが(宝暦十二年九月十四日の条)、幕府に示した例が三位局に適当なものなのかが関東で問題視される(宝暦十二年十月十七日、十一月二十八日の条)。これに対し兼胤と公文は、提示したのは准例であり、それは適当する例がないためであるが、後桜町天皇と女院に格別の思し召しがあるため特に仰せ進らせたと説明し、在世中の桃園院が三位局への門号宣下の思し召しをもっていたことを、天皇・女院が秘かに聞いていると返答し、幕府の説得を試みている(十一月二十八日、十二月八日の条)。その結果、十二月二十四日に、三位局への門号宣下と関東からの年千俵進上は御内慮の通りたるべしという幕府の回答が所司代より通達され、決着を見ることになった。以後、家司役の附人の選定(宝暦十三年正月十三日の条)や、門院の外出に係る規定(正月三十日)など、宣下に向けて準備が進められる。こうして宝暦十三年二月十日に門号宣下がなされ、三位局は開明門院と称することとなった(宣下の翌日に薙髪)。
 次に(ロ)であるが、宝暦十二年十月朔日に、来年の十一月に即位式を挙行したいという御内慮が、幕府に申し入れられている。翌月になり、御内慮の通りたるべしとする返答が関東より到来し(十一月七日の条)、十一月十九日、摂家・親王以下の諸臣へ来年冬に即位式を挙行することが仰せ出された。それを受け、即位式のため新調するべき道具の検討が始まり(十一月二十七日の条)、年が替わると道具奉行・御用掛の非蔵人・下奉行などの任命が行なわれている(宝暦十三年二月三日の条)。鉾や大幔等々、儀式の調度類は地下官人に調進を申し渡し(六月十三日の条)、屏風と畳については、費用が嵩むため省略を主張する幕府と厳しい折衝を行いながら、新調と惣替えを要求している様子が見られる(六月四日の条等)。
 (ハ)については、宝暦十三年の五月に、年末の十二月上旬に御代始の改元を行いたいとの御内慮伺いが仰せ出され、所司代に達せられている(五月六日の条)。もっとも、この年は将軍代替わりを祝う朝鮮通信使が来朝・参府することになっていた。先代の徳川家重襲職に際して朝鮮通信使が来朝した延享五年(寛延元年、一七四八)は、使節が帰国の途中、京都を通過してから改元を行っている。そのため兼胤と公文は、十二月に改元しても差し支えないのか、差し支えあるならば、例もあるので改元を翌年に延期しても問題ない旨を所司代に申し伝えた。これに対し所司代は、通信使は十一月から十二月上旬頃に着府する予定なので、老中に問い合わせをすると返答している(五月九日の条)。関東からの回答は翌月の五日に所司代から示され、帰国の途次に使節が京都を通過するのは十二月下旬、場合によっては翌春に
なってからの可能性もあること、したがって改元は年内ではなく来年に変更するということで差し支えないか、というものであった。兼胤・公文はこれを摂政に申し入れ、摂政は、来年正月下旬に改元を行うという御沙汰を所司代に達するよう命じている。なお、寛延改元の際は、日程や年号の文字について朝幕の間で行き違いなどがあったようであり、所司代からは、今回は前もって幕府と十分に相談するようにと申し入れがなされている(七月十五日の条)。
 また、(ニ)前冊の宝暦十二年の八月に話が持ち上がった清涼殿上段・常御殿琴碁書画間の普請が、幕府の了承を得られ、いよいよ開始されている(十二月七日の条)。実は、宝暦十二年七月の践祚以来、後桜町天皇は所司代や度々上京する関東使等との御対面を行っていなかった。その理由として朝廷が所司代に説明していたのが、御対面の場所である清涼殿上段の普請が行われていないからであるということであった(宝暦十二年十月七日・十一日の条、宝暦十三年七月十六日の条)。そうしたこともあり、財政難の折りながら幕府も重い腰を上げて普請に着手する。宝暦十三年四月五日に朝廷から禁裏附へ両御殿が引き渡され普請が始まり、六月二十八日に清涼殿(六月二十七日の条)、七月九日に常御殿(七月七日の条)の普請が完成すると、清涼殿は七月二日に、常御殿は七月十三日にそれぞれ朝廷へ引き渡され、十六日には所司代が禁裏に召し寄せられ御褒美を賜っている。なお、この時も所司代への御対面はなく、関東の臣との初めての御対面は即位祝儀の関東使からとする御沙汰が達せられている(七月十六日の条)。
 次に、朝幕間の出来事で主なものとしては、(ホ)将軍徳川家治に男子が続けて二名誕生したこと、(へ)徳川家光の御台所と吉宗・家重・家治の生母への贈位などが挙げられる。
 (ホ)であるが、家治の女中(津田信成女、千穂)が懐妊したことは、前冊の宝暦十二年九月四日に所司代より兼胤・公文へ内密に伝えられているが、本冊の十月四日になると表向き朝廷に申し入れられ、合わせて今月が臨月であることも報じられている。朝廷では安産祈願のため千度祓を行い、若君が誕生する場合を想定し、細長の調進を山科家に命じている(十月十七日の条)。果たせるかな、二十四日に誕生したのは若君、後の徳川家基であった(十月二十九日の条)。若君は竹千代と名付けられ(十一月六日の条)、若君附の老中・若年寄も仰せ付けられるなど(十二月十五日の条)、将軍世嗣としての体裁が整えられていく様子がうかがえる。さて、この年にもう一人生まれた家治男子は、竹千代の二ケ月後、十二月十九日の誕生である(十二月二十七日の条)。母は家治御台所閑院宮倫子の女房である藤井充行女(於品)。彼は十二月二十五日に松平貞次郎と命名され(宝暦十三年正月二日の条)、御台所の養いとされている(正月七日の条)。もっともこちらは成長せず、三月十六日に夭折してしまった(三月二十二日の条)。
 (ヘ)も、前冊の宝暦十二年四月六日の条に、徳川家重法会(同年六月八日)が執行された後、徳川家光の御台所と吉宗・家重・家治の生母に贈位ありたき旨、関東より申し入れのあったことが見えるが、本冊でも引き続き、朝幕間の交渉と朝廷での手続きが進められている様子が見える。まず、宝暦十三年の四月五日に、老中から今月中に宣下を沙汰するよう申し入れがあり、これを受けて十六日から二十日までの間に宣下を行うことが決定されている(四月七日の条)。十一日には宣下の日時勘文を土御門泰邦に命じ、十六日と仰せ出された。職事の奉行が任命され、位記・宣命の料紙の調進も申し渡される。そして当日、宣下の儀式はつつがなく執り行われ、直ちに位記が所司代役宅に運び込まれ、渡されている。
 このほかにも本冊には、①女院北面の斎藤孝盛が、御所に上がった南禅寺住持の伴僧の失態に付け込み金品を要求し、辞官・位記返上の処罰を受けた事件(宝暦十三年二月三日・四日・五日・七日の条)、②堂上の屋敷で、講や無尽が盛んに催されているのを問題視した兼胤・公文が、目付を持たない自分たちに代わって調査をするよう所司代に依頼したところ、十一家が判明(宝暦十三年七月十日・二十五日・三十日の条)。そこで、所司代が洛中・洛外に触れた講・無尽の禁令を、両伝奏から堂上中に達し厳しく差し止めようとするが、もし違反者が出た場合、事が重くなるのを心配した摂政の配慮により、摂家から該当する門流に仰せて堅く差し止めることとなった(七月十四日・三十日の条)一件、③小録の堂上や地下官人の困窮(宝暦十三年正月二十四日・四月十六日・六月十三日の条)など、公家社会における風紀の乱れや財政窮乏に関する記事も引き続き見られる。
(例言一頁、目次二頁、本文二七三頁、人名索引三十六頁、本体価格九、五〇〇円)
担当者 松澤克行・荒木裕行

『東京大学史料編纂所報』第51号 p.42-45