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所報 - 刊行物紹介

正倉院文書目録七 続々修二

 本冊は、正倉院文書の原本調査の成果を断簡ごとの目録として刊行する『正倉院文書目録』の第七冊で、二〇一〇年三月に刊行した『正倉院文書目録六 続々修一』に続き、正倉院宝庫に伝存する正倉院古文書の続々修古文書(続々修)のうち第五帙から第七帙まで全三十五巻を収録した。
 続々修古文書は、現状で第一帙から第四十七帙まで合計四百四十巻・二冊からなり、帝室博物館編『正倉院古文書目録』では、第一類・写経類集(第一~十一帙)、第二類・経巻歴名(第十二~十六帙)、第三類・諸司文書(第十七~十八帙)、第四類・経師等手実行事上日(第十九~二十八帙)、第五類・筆墨紙(第二十九~三十七帙)、第六類・食口(第三十八~四十帙)、第七類・布施用度雑器雑物(第四十一~四十四帙)、第八類・雑文書(第四十五~四十七帙)に類別されている。本冊に収録した第五帙~第七帙の帙ごとの内容は次の通りである。
   第五帙 法華経(十四巻)
   第六帙 花厳経(十五巻)
   第七帙 千手経幷千四百巻経(六巻)
 続々修第五帙には、雑経卅五巻(天平十四年)・五十部法華経幷法華摂釈(天平十五年)・百部法華経(天平勝宝六年)・百卅五部経(天平宝字四年)・二部法花経(天平宝字七年)等に関する文書・帳簿が見え、中でも千部法華経(天平二十年~天平勝宝二年)関係が多数を占めている。
 続々修第六帙には、廿部六十華厳経(天平十九年)・廿一部華厳経(天平二十年)・寺花厳経疏(天平二十年)・金字花厳経(天平勝宝三年)・後廿部六十花厳経(天平勝宝四年)等に関する文書・帳簿が見える。
 このうち、廿一部華厳経書写に関わる天平二十年春季の手実は、続々修六ノ六・六ノ十を中心に経師手実五十点以上、装潢等手実十点程度が残っている。これらが手実帳としてどのように復元されるかが問題となるが、原本調査によって、経師手実は続々修六ノ六①⑴・⑵(以上、貼継A)がこの順に、続々修六ノ六②・続々修六ノ十⑤・続々修六ノ六⑤・続々修六ノ六③(以上、貼継B)がこの順に、正集三十八⑤裏・続々修六ノ十⑦⑴・⑵・⑶(以上、貼継C)がこの順に接続すること、装潢等手実は正集三十八③裏・続々修六ノ六⑧・続修三十⑤がこの順に接続することが判明した。貼継A・B・Cを合計すると経師手実四十三点となる。貼継Aの冒頭(右端)には、「間写六十花厳経廿一部手実巻第二〈廿年春季〉〈丸部/阿戸酒主〉」の外題のある手実帳表紙があり、貼継Cの末尾(左端)には、軸附痕とみられる糊痕が残っている。ここには、題籤に「廿年春季/間経手実」(表)、「東西□〔同カ〕」(裏)と記された往来軸(中倉二十二ノ三十八)が取り付けられていたのであろう。したがって、手実帳は、貼継Aを巻首、貼継Cを巻尾として、その間に貼継Bが配置される形で構成されていたことになろう。他の手実は、A・B間ないしB・C間に貼り継がれていたと考えられる(B・C間には、経師手実八通からなる続々修六ノ十⑥が接続カ)。この時期の写経は東堂と西堂に分かれていたことが知られており、A・Bはおおむね東堂の経師手実、Cは西堂の経師手実で構成されている。上述の題籤に「東西□〔同カ〕」の文字があることとあわせ考えて、この手実帳は、東堂の手実帳と、西堂の手実帳としてまずまとめられ、それを合体して編成されたと推定される。一方、装潢等手実は、経師手実と混在して貼り継がれたとは考えにくく、A・BまたはB・Cの間に配列されてはいなかったであろう。装潢等の手実帳は、上記の経師手実帳とは別立てで編成されたと考えられる。また、経師手実帳・装潢等手実を合体してファイリング(貼継)することも、ここでは行われなかったと推定される。
 なお、上記の正集三十八⑤裏・続々修六ノ十⑦⑴の接続に関連して、正集三十八⑤の大宝二年筑前国嶋郡川辺里戸籍E断簡の第一行の文字が、続々修六ノ十⑦⑴右端のハガシトリ痕に左文字となって附着していることから、E断簡第一行の人名は「額田部伊麻比」と読みとれることが判明した。
 続々修第七帙には、千部千手経(天平十三年)・千手千眼幷新羂索薬師経(天平宝字二年)等に関する文書・帳簿等が見える。このうち続々修七ノ一⑴~⑼は、天平十三年七月~九月千手経経師装潢校生手実帳で、奈良時代における手実帳編成過程の実際をうかがうことができる。すなわち、同手実帳は次のように貼り継がれている。
⑴   布施注文      十一月七日(七月~九月作業分)
⑵~⑶ 経師手実      七~八月(七~八月作業分)
⑷~⑸ 経師手実      九月(九月作業分)
⑹~⑻ 装潢校生紙数注文  九月(七~九月作業分)
⑼   校生手実      八月(八月作業分)
 この貼継は、奈良時代以来のものとみて問題ない。ただそのうえで、⑶左端と⑹右端がツキ合セで接続することが、原本調査で判明した。これは、⑶末尾と⑹冒頭の記述がかつては同一料紙に続けて記載され、その後切断されて、中間に⑷~⑸の手実が貼り込まれたことを意味している。したがって、この手実帳は、当初は七~八月の作業に関する経師・校生の手実帳として編
成され、ついで九月作業分の経師手実が七~八月経師手実のまとまりの後ろに繰り込まれ、集計記載等が書き加えられて、その結果、現在の姿になったと理解される。⑴の布施注文に対応する形で手実帳が整理・再編成され、一件書類としてまとめてファイリング(貼継)されたのであろう。手実が、布施算出のための資料としての役割を持つことを如実に示している。
 全般に関わる内容では、前冊から、続々修の断簡判定のための参考情報として、紙面に貼附された新附箋の記載と、『未修目録』(正倉院事務所所蔵)との対応関係を按文に記載している(詳細は「正倉院文書目録六 続々修一」、『東京大学史料編纂所報』四五「刊行物紹介」所収)。本冊も同様であるが、それとともに、上記『未修目録』との対応は判然としないが、国立公文書館(内閣文庫)所蔵『正倉院古文書目録 三(未修古文書目録)』と対応する断簡が見られることから、その点に関する情報も按文に記載することとした。また、本文記述のうち、断簡の裏がすべて空の巻については、断簡の表・裏を見開きの右・左頁に配列する方式をとらず、断簡ごとに順次頁を改め追い込みで記述する方式をとったこと、「大日本古文書対照目録」は、紙幅の関係から、本冊収録分に関わる内容に限って掲載したことは、前二冊と同様である。
 補遺には、正集二⑦、正集三十八③、同裏、続修三十⑤の四断簡を収め、既刊冊で使用していた断簡番号の変更について断簡番号変更表を掲載した。
 本冊編纂のための原本調査は、山口・稲田・田島公・厚谷和雄・遠藤基郎と、前所員の石上英一(二〇一〇年三月退職)・加藤友康(同)が行った。
 正倉院文書の調査を許可され、本所の刊行に格段の配慮を賜った宮内庁及び同正倉院事務所に厚く謝意を表する。
(例言四頁、目次四頁、本文五四二頁、対照目録二四頁、補遺七頁、定価一八、〇〇〇円、二〇一五年四月刊)
担当者 山口英男・稲田奈津子

『東京大学史料編纂所報』第50号 p.48-49