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大日本史料 第十一編之二十七

 本冊には、まず天正十三年八月から十二月および年末雑載の補遺を収め、次いで同年正月から七月までの補遺のうち前冊に収録できなかったものを収めた。
 内容は多岐にわたるが、特筆すべきもののひとつは、羽柴秀吉が脇坂安治に与えた一連の文書である。これは、最近兵庫県たつの市から見出だされたもので、安治が伊賀の仕置を任されていたことや(閏八月十二日条など)、同国から材木を出すようにしばしば命じられたことを(十二月一日条など)、詳しく知ることができる。また、秀吉が安治に交付した淡路三原・津名両郡の収納台帳(各所からの指出を取りまとめたもの、九月十日条)は、この種の史料の実例として貴重であるだけでなく、秀吉の自筆と思われる書き込みをともなっている点でも興味深い(自筆部分は図版を掲載した)。
 このほか、追放した神子田半左衛門尉について、その妻子まで含めて匿ってはならない、と指令した文書も見出だされた(閏八月十三日条)。この文書の後半で、秀吉は「信長の時のように甘く考えてもらっては困る」と述べているが、これもまたたいへん興味深い。
 なお、たつの市から出た文書には、以上のような天正十三年のもののほか、前年(同十二年)に安治に与えたものも見られた。これについては、本冊の末尾に一項を特設して収録した。貴重な新出史料の掲載許可をはじめ、格別のご配慮をいただいたたつの市に、深甚の謝意を表したい。
 安治と関係のないところでは、弟の秀長に四国攻めの戦後処理について指示した長大な文書(八月六日条)や、加藤光泰らに犬山から岐阜まで「船くさり」を運ばせた文書(三月一日条)などが目に留まる。なお、秀吉の改姓について、「押小路文書」から九月九日付の文書二点を収録し、参考となる史料の所在を按文で示した(同日条)。また、位階について、従一位に叙し
た文書を「木下文書」から収録した(七月十一日条)。
 徳川家康の周辺では、前年末の佐々成政の家康訪問について、金沢市立玉川図書館架蔵の写本から、新たな史料を補うことができた(三月十九日条)。当時、信濃出身の村上義長は、本領回復を願いながら山岳地帯に潜伏していたようだが、成政は往路・復路ともこの義長の援助を得て、真冬の山越えを敢行したことがうかがわれる。また、家康に対面した際に、義長の本領回復
について口を利いている。
 以下、地域ごとに、その他の収録史料の一端を紹介する。
 秀吉による京都とその周辺の検地(十一月二十一日条)については、秀吉の領知朱印状と、前田玄以・大野光元など検地奉行の文書を、それぞれ数点ずつ補ったほか、検地帳は賀茂別雷社領愛宕郡賀茂のもの、等持院領同院門前のもの、愛宕郡一乗寺村のものなどを新たに収録した。
 東日本については、「首藤石川文書」から、伊達政宗と佐竹義重・岩城常隆等との交戦に関わる仮名消息を補った(十一月十七日条)。この消息は、いわゆる散らし書きで書かれており、これまで誤った読み順が通用していたが、今回正しい翻刻を示すことができた。また、十二月二十日付、佐野宗綱宛の秀吉直書は、かつて天正十二年のものとして収録したが、正しくは十三年であると判断されたため、文意に即して綱文を修正した上で、あらためて本冊に収録した(同日条)。
 西日本では、九州南端の島津氏までもが秀吉の視野に入り、この年三月、初めての書状を送り届けている。これへの反応をうかがわせる史料が見出された。十一月二十日付、伊勢貞知(近衛龍山の臣)宛の島津義久の書状がそれで、古書市場に出たところを史料編纂所が購入し、ただちに本冊に収録した(同日条)。返礼のため使節を上洛させる、よろしく取り次いでほしいな
どと述べ、秀吉に対してまずは丁重な態度を示そうとしている。
 出雲日御崎社では、毛利輝元・吉川元春らの後援のもとで、社殿の造営が行なわれた(十一月二十六日条)。釿初や柱立がこの年に行なわれたことは動かないと思われるものの、費用調達のための棟別の賦課など、周辺の事象については判断が難しく、無理な年次比定を避けた編纂とした。また、定型的で文言の差異が少なかった文書二十数点については、代表例のみを翻刻
し、その他は一覧表のかたちで示した。
 天正十三年の編纂は、昭和四十年(一九六五)刊行の『第十一編之十三』より始めておよそ五十年を費やしてきたが、本冊の刊行によってすべて終了となった。次回刊行の『第十一編之二十八』からは、天正十四年が編纂対象となる。
(目次二頁、本文五〇九頁、欧文目次一頁、本文三頁、本体価格一二、二〇〇円)
担当者 鴨川達夫・村井祐樹・畑山周平

『東京大学史料編纂所報』第50号 p.41-42