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大日本史料 第八編之四十二

 本冊には、延徳二年(一四九〇)年末雑載のうち仏寺に関する史料を収録した。仏寺条は本冊一冊を費やしても未完であり、次冊に継続する。
 仏寺条のうち本冊に収録したのは、僧官位および中央大寺院を中心とする僧職の補任、得度、諸寺の年中行事・法会・法楽・講問等に関係する史料である。史料残存の状況にしたがい、東寺(『東寺百合文書』なかんずく各種の引付類)、興福寺(『大乗院寺社雑事記』『政覚大僧正記』『福智院家文書』など)、相国寺(『蔭凉軒日録』)に関する記事が大部分を占めている。
 今回、特に意を用いて収めたのは、『大乗院寺社雑事記』(『尋尊大僧正記』)、『政覚大僧正記』、『福智院家文書』所収『両講奉行引付』の紙背文書である。いずれも二次利用面の記録の内容を補う内容を持つものが多く、法会の実施などに関して詳細をうかがうことができる。また、二次利用面に対応する記事が存在しておらず、独自の興味深い内容を有する文書もある。
 ここでは、後者の具体例として、『大乗院寺社雑事記紙背文書』(延徳二年八月裏。本冊一七~一九頁)に残る延徳二年三月の南御方消息および難波常弘書状について注意を喚起しておきたい。
 南御方は、はじめ三条局とも称され、『大乗院寺社雑事記』の記主大乗院尋尊の父一条兼良が晩年に寵愛した側室で、同家の殿上人町顕郷の娘であった。すなわち、当時の一条家の当主冬良の生母である。南御方は尋尊に対して、宝鏡寺本光院主が景愛寺に入院するにあたり、大乗院の屛風の貸与を求めている。本光院主は、兼良の末娘で、南御方が産んだ女性(別の言い方を
すれば、冬良の同母妹)であった。四月十五日に入院する予定なので屛風が必要なのだが、同時期に禅宗寺院諸寺では秉払が催されており、京都での借用は叶わないために、大乗院門跡の屛風一双を借りたいのだと述べる。屛風自体がないわけではないのだが、「みがきつけ(磨付)」の屛風、すなわち金屛風が必要だというのである。一条家の青侍難波常弘の書状は、南御方消息
の添えられたもので、冬良も貸与を希望していることを伝えている。南御方消息は日付を持たないが、常弘書状には三月十九日という日付があることによって依頼の時期が明瞭になる。磨付屛風(金屛風)の享受史料としても興味深いが、冬良妹の景愛寺入院に関する史料が他に見あたらないだけに、拠るべき一次史料に乏しい尼五山の動静を窺う史料として貴重だといえる。
 なお、本冊においては、主に『蔭凉軒日録』に頻出する人物二名について前冊までの呼称を改めた。
 一人は、足利義視の娘にして、この時期義視・義材が居住していた通玄寺曇華院の院主だった人物である。前冊までは、『通玄寺誌』(本所架蔵謄写本〔架蔵番号二〇一五─四〇二〕。飛鳥井慈孝編『曇華院蔵通玄寺志』〔笠間書院、一九七八年〕に原本の影印あり)に載せる同寺の歴代にもとづき、当該期の住持とされる芳咸元揉尼(通玄寺第十世、延徳三年十二月二日示寂)の
名を充ててきた。しかし、義視の娘は少なくとも永正十七年(一五二〇)にあっても曇華院の院主として確かめられ(『盲聾記』同年五月十一日条)、むろん延徳三年に示寂した所見もない。同書の成立は宝暦二年(一七五二)にまで下るもので、そこに載せる元揉尼以外の歴代も同時代の史料とは齟齬する。たとえば、義視の娘が入室した先代の住持は、伏見宮貞成親王(後崇光院)の娘で雲岳聖朝尼といい、文明十四年六月九日に示寂したが(『大日本史料』第八編之十四、四二六~四二八頁)、『通玄寺誌』では、通玄寺第九世を玉輝元珀尼とし、文明十年九月二十九日の示寂だとしている。関係史料が乏しく、全面的な否定も困難だが、『通玄寺誌』の示す中世の歴代は信用しがたい。それでも、ほかに拠るべき史料を見出せなかったため、いわば符牒
として芳咸元揉尼の名を採用してきた。ところが、延徳三年正月七日に薨じた足利義視に関する史料を探索するなかで、大徳寺四十世春浦宗煕の語録『大宗禅師語録』(『大徳寺禅語録集成』二〔大徳寺、一九八九年〕所収)上の「准三宮久山大禅定門大歛忌」つまり足利義視の四十九日の法語に施主として「大日本国山城州平安城通玄禅寺曇華院頭住持聖寿」とあり、同下の「祝
渓」道号頌に「曇華院聖寿首座」と見えることに気づいた。これにより、延徳三年二月における曇華院の院主の名が祝渓聖寿といい、義視の娘であることも確認できたので、祝渓聖寿尼に改めた。
 いま一人は、相国寺雲頂院にあって蔭凉軒主亀泉集証に近侍した禅僧「昌子」である。前冊までは盛文慈昌と呼称してきたが、『蔭凉軒日録』には「昌子」を慈昌とする記述は存せず、玉村竹二『五山禅林宗派図』(思文閣出版、一九八五年)も集昌と慈昌を併記する。本冊に収録した『蔭凉軒日録』延徳二年閏八月二十二日条において、亀泉が門人集宝の名を宗宝に改め、宗宝に
書を与えたとの記述ののち、集昌もまた宗宝に書を与えたとの記述が見える。「昌子」は能筆でしばしば亀泉の代書を行う記述も見えることから、この集昌は「昌子」であると考えられる。よって、「昌子」の呼称を集昌と改めた。
 したがって、前冊までに見える「芳咸元揉尼」・「盛文慈昌」はそれぞれ「祝渓聖寿尼」・「盛文集昌」に読みかえていただくよう、お願いする。
 なお、本冊の編纂には、前冊までと同様、研究支援推進員木村真美子の協力を得ている。
(目次一頁、本文三五五頁、本体価格八、五〇〇円)
担当者 末柄 豊・川本慎自

『東京大学史料編纂所報』第50号 p.38-39