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大日本史料 第七編之三十三

 本冊には、応永二十五年(一四一八)の雑載のうち年貢諸役、契約、譲与処分、寄進、売買、貸借、訴訟、同年補遺、応永二十六年正月・二月の史料を収めた。
 雑載では前冊に続き「康富記紙背文書」を収め、年貢諸役(一頁)、貸借(一九五頁)、訴訟(二〇三・二〇五頁)の各項に類別して収載した。貸借項に収めた十月二十日付中原康富書状は、隼人司領丹波国佐伯庄の大井宮の遷宮を翌日夜にひかえながら、大井宮神主の着すべき装束の手配が出来なくなったため、慌てた康富が坊城俊国に借用を申入れ、俊国が勘返によって応諾したものである。所領の現地と領家の関係の一端を示す史料として興味深い。
 年貢諸役項では、例年と同様、東寺・興福寺・法隆寺・高野山などの所領に関する史料を収めた。このうち、一一二頁以下に収めた東寺領周防国美和庄の関係史料は、応永二十五年分年貢の収納に関するものであるが、年貢米の現地より東寺に到達するまでの経過や移送にともなう文書授受がよくわかる。特に、年貢収納における船頭の役割が明記されている点が注目される。従来東寺では美和庄の年貢は京都で受領しており、東寺としてはこの年の納入も京都で受領することを希望していた。ところが現地代官を勤める大内氏被官の沓屋周重は、年貢米の東寺への引き渡しを移送船である乙増丸(周防富田の船)の船頭にゆだねた。このため、東寺は乙増丸の到着地である兵庫まで出向かねばならなくなった。東寺は大内氏の在京奉行に抗議したが、京都に運ばれる大内家の年貢はすべて兵庫で受け取っているとの回答を受け、東寺は兵庫まで請取の使者を下向させたのである。下向に要した出費の詳細な記録も興味深いものである。
 一二八頁、「高野山文書」の勘録定書は、年貢が百貫文から二百二十貫文までの十貫刻みでそれぞれの額が納入された場合を想定し、西塔米、大塔仏聖、供僧の人別給など、山内で必要な経費をどの場合にはいくらの額で配分するかをあらかじめ定めたものである。いわば年貢の収納額に応じた配分額の早見表であり、珍しい史料であろう。応永前半期には高野山領諸荘園では大検注が実施されたことが知られているが、年貢収納が一定の安定をみたことを踏まえて定められたものかと思われる。
 五八頁、「丹波大谷村佐々木文書」は静岡県掛川市の古書肆の所蔵文書を、所蔵者の協力によって史料編纂所が調査したものである。文書群全体は中世文書三十九通、近世文書七通から成る。相国寺領丹波国五箇庄(田原桐野牧)大谷村の公文佐々木家に伝わったもので、これまで学界では存在が全く知られていなかった新出史料である。本冊に収載したのは、応永二十五年の土地台帳で、土地の所在、年貢高、担税責任者の名前などが記される。また後年の追記では、洪水や正長の土一揆によって権利移動があったことが詳細に追記されているなど、公文の職掌を知るうえで注目される点が少なくない。文書群の全体は、東京大学史料編纂所研究成果報告二〇一三─四『丹波大谷村佐々木文書』(榎原雅治・末柄豊・村井祐樹編)で紹介されているので、参照されたい。
 売買項、一七八頁の「林文書」も紀伊国和田庄の公文林家に伝わったもので、新出史料である。現在、和歌山市立博物館所蔵となっている。
 訴訟項、一九九頁、「東寺霊宝蔵中世文書」は東寺の寺僧組織の一つである植松荘方の評定引付である。「植松荘方評定引付」は、応永二十三・二十四年分を史料編纂所が所蔵しており、『大日本史料 第七編』では両年の該当箇所に収録したが、その後、至徳二年より応永二十七年に至る引付十七冊が現在も東寺に所蔵されていることが判明した。本冊に収載したのはその一
部である。
 補遺では、『大日本史料 第七編』二十九より三十二に至る各冊に収録すべき史料を収め、既存の綱文、雑載各項のもとに補入したほか、新たに七つの綱文を立てた。今回収載したおもな史料は次のようなものである。
 まとまった分量の記事を収録した「出世方引付」は興福寺の出世奉行(別当の秘書役)を務めた僧顕守の記した引付で、応永二十四年から同二十八年までの記事を伝える。本冊では、四月九日の春日社法華八講の条(二一八頁)、十一月十七日の春日若宮祭の条(二二五頁)、十二月十六日の興福寺維摩会の条(二三一頁)、および雑載の社寺の項(二三九頁)の補遺にそれぞれ関係記事を収めた。なお、本所架蔵影写本「東院毎日雜々記」(東院光暁の日記)四も同書の写本からの影写を収めるため、両者は混同されることもあるが、別の史料である。
 正月二十四日の足利義持による足利義嗣追討の条(二〇八頁)に収めた「体源抄」および「鳳笙事並相承事」中の記事は、足利義嗣が、楽人の豊原定秋より笙の荒序の伝授を受けていたことを記すものである。同じく卒伝関係では、禅僧の語録より卒伝条に補うべき記事を拾い出し、「東海璚華集」からは大友親世(二月十五日条、二〇九頁)および斯波義教(八月十八日条、二二三頁)、「東漸和尚法語集」からは一条経嗣(十一月十七日条、二二六頁)の葬送に関する記事を収載した。また「醍醐寺文書」から、足利満詮百日忌の諷誦文を収録した(五月十四日条、二一九頁)。
 三月二十八日の「広橋宣光ヲ蔵人ニ補ス」の条に収めた柳原本「兼宣公記」所収「兼宣公問答」(二一〇頁)は、広橋兼宣が、嫡子宣光の蔵人拝賀のときの装束はどうあるべきかについて勧修寺経興に問い、経興がそれに回答した書状の写しである。七通からなり、うち一通は勘返状の形になっている。
 応永二十六年正月・二月の記事でおもなものは次のとおりである。
 朝廷関係では、まず小朝拝・節会(正月一日条)、叙位延引・追行(正月五日条)、釈奠延引・追行(二月二日条)、春日祭延引・追行(二月九日条)など、年中行事や儀式について史料を収めた。正月は『薩戒記』、二月は『康富記』の詳細な記述によって、当日の具体的進行の判明する行事・儀式も多い。正月四日の豊受大神宮月読社炎上により、二月二十八日には、伊勢神宮への奉幣と廃朝宣下が行われた。正月二十九日と二月三日・九日には小除目が行われ、土佐行秀・清原宗業・二条持基の任官・叙位があった。また二月十四日には、松嶺道秀に円明証知禅師の勅諡号が追贈されたが、これは足利義持の推挙という(四一六頁)。なお、『康富記』の応永二十六年二月・三月の条は自筆原本が現存しないため、本冊で当該条を収めるにあたっては、国
立公文書館内閣文庫の押小路本を底本として用い、一部を国立歴史民俗博物館所蔵船橋清原家旧蔵資料「即位神事」所収の『康富記』逸文により補った。
 後小松上皇関係では、御薬供進(正月一日条)などの年始行事のほか、猿楽の観覧(二月十三日条)と琵琶法師の平家物語聴聞(二月十九日条)の学芸関係の記事を収めた。詳細は不明ながら、上皇の召次が殺害された事件(二月二十四日条)もある。
 つぎに幕府関係では、足利義持の動向として、一連の年始行事(内裏・仙洞への年始奉賀〈正月一日条〉、御成始〈正月二日条〉など)のほか、白馬節会の訓みの由来の詮索(正月十三日条)と、円明坊兼乗と富樫満成の誅殺(後述)など、義持の個性をうかがわせる興味深い事件を収めた。また、幕府の行事としては、修法(正月一日条合叙)、的始(正月十七日条)、足利義
嗣一周忌仏事(正月二十四日条)など、幕府の政務に関しては、赤松則友への所領給付(二月二十四日条)などの記事を収めた。
 鎌倉府では、上杉憲実が関東管領に就任(正月八日条)し、足利持氏は相模光勝寺再興の勧進を認可(正月是月条)し、陸奥小峯満政への褒賞を行っている(二月一日条)。
 主な大名家に目を転ずれば、大内盛見は、長門住吉社の訴訟を裁許し(二月七日条)、前年に幕府の主導で始まった宇佐八幡宮及び弥勒寺の造営を引き続き執行している(二月二十四日条)。細川満元の相国寺雲頂院領摂津国昆陽寺庄地頭識への諸公事等の免除(二月十九日条)、山名時久の安芸国高屋保内の地の遵行(二月二十一日条)は、それぞれ守護としての活動である。
 いわゆる国人クラスの地方の武士の動向については、薩摩の市来家親・入来院重長と島津忠朝との間の私戦は、やがて守護島津久豊を巻き込んでゆく(正月十一日条)。豊前佐田氏、上野岩松氏では、所領の譲与が行われている(二月十六日、二十七日条)。
 公家・寺社関係では、やはり伏見宮関係の記事や史料が群を抜いている。特に伏見宮連歌会(二月六日条)に関する史料が豊富である。合叙の本年中連歌会条と合わせ、『看聞日記』の紙背に残された、二月六日・二十五日、三月二十九日、九月二十五日、十月二十五日の連歌会懐紙を収めた。他にも、治仁王三回忌(二月十一日条)などの仏事、宮家の仕女たちの改名(正月十
日条)、年預の補任(正月十四日条)など、『看聞日記』によって伏見宮家の動向を詳しく知ることができる。
 死歿・卒伝に関しては、以下の人物のものを収めた。
 円明坊兼乗(正月二十五日条)は、山門使節として幕府に編成された「山徒」(主に寺外に居住し活動する延暦寺の僧)の一人である。「兼承」と自署する史料もある(三三九頁)。
 清原頼季(二月七日条)は少納言、後に船橋家を名乗る明経道清原家の当主である。本冊では官歴・世系に関する史料を収めた。その事績は、称光天皇や足利義持への進講を除くと、長寿を全うし影響力を保ち続けた父良賢の陰に隠れてか、やや地味な印象をうける。なお、頼季の供養のため青蓮院義円(足利義教)が清原家に自筆の寿量品経を寄せた(三九四~九五頁)記事は、後の義教の良賢重用を思えば、やや興味を引かれる。
 足庵霊知(二月十二日条)は前東福寺住持。讃岐出身で、瑞渓霊玖の弟子である。『瓢鮎図』に画賛と自署印章を残した僧侶としても知られる。同郷の岐陽方秀との学芸上の親交を物語る史料などを収めた。
 平惟有(二月二十三日条)は西洞院流平氏で、非参議従三位。少納言としての朝儀への出仕の記事が当時の記録に散見されるものの、楽書「愚聞記」の書写のほかには、目立った事績の乏しい人物である。
 富樫満成(二月是月条)は、加賀守護の富樫氏の庶流とみられるが、詳細な世系は不明である。義持の近習として活躍したが、前年に失脚、吉野に出奔していた。本条では、官歴および近習としての活動を伝える史料を中心に収録した。
(目次一三頁、本文四四五頁、本体価格九、三〇〇円)
担当者 榎原雅治・前川祐一郎

『東京大学史料編纂所報』第50号 p.36-38