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所報 - 刊行物紹介

大日本古文書 家わけ第十九 醍醐寺文書之十六

本冊には、前冊に引き続いて、醍醐寺文書(醍醐寺所蔵)の第二十三函六
四号から第二十四函一六九号に相当する文書を、整理番号の順に収めた。本
冊における文書番号は第三六〇八号から第三八四七号までである。
本冊所収文書の年代は、南北朝・室町時代のものを中心に、平安時代から
江戸時代に及ぶ。
 まず、第二十三函に相当する文書は、南北朝時代の三宝院領関係の文書、
江戸時代初めの所領安堵関係の文書、義演関係の文書、表白・聖教類などか
らなる。とりわけ注目されるのは、第三六二二号の「澄憲表白集」(元久三
年書写)である。澄憲は言うまでもなく院政期を代表する唱導の達人である
が、彼の手になる表白を集成したものである。本史料については、すでに史
料編纂所において、大正十三年(一九二四)三月作成の謄写本が「表白集」
(請求番号二〇一四─三六)として架蔵されている。よって、その存在自体
は周知のものであり、昭和十一年(一九三六)刊の後藤丹治『戦記物語の研
究』(筑波書店)等に言及がある。ただし、全文を完全に翻刻することは、
本冊が初めてであろう。本史料は、①承安四年内裏最勝講表白・②安元三年
建春門院追福法華八講表白・③大原説経講表白及び結願詞の三作品を収めて
いる。このうち①は、『源平盛衰記』に引用されたり、『澄憲作文集』に収録
されたりしており、②も『公請表白』・『拾珠鈔』等に収録され、いずれも良
く知られた作品である。それに対して③は、建久五年ごろの作成と推測され
るものの、明確な年紀を欠くということもあって、従来言及されることの少
なかった作品である。今後の研究が俟たれる。
 そのほか、第三六六三~三六六六号は、江戸時代の吉野銅山の試掘中止を
めぐる、醍醐寺・鳳閣寺と公武の要人とのやりとりがうかがわれる格好の史
料である(関口真規子「当山派と吉野」『山岳修験』五二号参照)。
第二十四函に相当する文書については、以下の史料が注目される。第三六
八〇~三六九一号・第三六九三~三六九五号・第三六九八~三七〇〇号・第
三七〇二号・第三七三八号は根来寺聖天院景範の書状類、第三六九二号は南
北朝時代の丹波佐伯荘の文書案、第三六九六号は南北朝期の報恩院隆源の長
大な置文土代、第三七一三~三七一八号は戦国期の太元帥法復興や朝廷の動
向に関する三条西実隆・実澄(実枝)の書状、第三七六二号・第三七六四~
三七六八号は戦国期の三好氏周辺の武将からの書状群である。
 根来寺聖天院の景範は、報恩院隆源の門下となっている僧であり、彼の書
状類からは醍醐寺と根来寺の人的関係が浮かび上がってくる(永村眞「中世
醍醐寺と根来寺」『新義真言教学の研究』、同「頼瑜法印と醍醐寺」『智山学報』
五二号等参照)。
 また、第三六九六号は後闕の土代(草案)であるが、本史料を基に作成し
たと思われる置文案が二種類存在する。一つは(仮にAとする)、『醍醐寺文
書』第一一八函一〇号で、それを影写したものが史料編纂所架蔵影写本『三
宝院文書 第二回採訪 二』に収録される。いま一つは(仮にBとする)、
国立歴史民俗博物館所蔵『田中穣氏旧蔵典籍古文書』二七八号を前半部とし、
『醍醐寺文書』第一〇三函一二三号を後半とするものである。Aと比較する
と、Bは前半と後半の間に中闕があり、完全に接続するわけではないことが
わかる。また、AとBは同文ではあるものの、字配り等が相違している。ち
なみに、A・Bと、土代である第三六九六号との間には、文章そのものに異
同がある。
 なお、本冊をもって第二十四函は終了し、次冊においては第二十五函へ移
るものである。
(例言三頁、目次二三頁、本文三三九頁、花押・印章一覧六丁、本体価格
九、四〇〇円)
担当者 高橋慎一朗

『東京大学史料編纂所報』第50号 p.43