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大日本古記録 後深心院関白記 六

 最終冊となる本冊は、康暦元年(永和五年、一三七九)から永徳三年(一三八三)までを収めている。そのうち記事が残るのは、康暦元・二、永徳元・三の計四年分で、いずれも公益財団法人陽明文庫所蔵の原本および写本を底本とした。前册までと異なり、具注暦に記した暦記は康暦元年記のみで、以降は通常の日次記となっている。康暦二年記は正月から三月まで、永徳三年記は正月と二月の冒頭のみで、残存状況は芳しいとは言い難い。なお永徳元年記は春巻・夏秋巻・冬巻の三巻よりなるが、いずれも康暦二年暦の紙背に書き記したものである。春巻が間明きなしの具注暦、夏秋巻および冬巻がそれぞれ独立した別個の仮名暦からなっている。本文に続いてこれら紙背の暦を翻刻するとともに、解題・略系・略年譜・補訂表・索引を付載した。本冊の刊行をもって一九九九年三月の第一冊刊行以来、十五年余にわたる編纂を終了した次第である。
 本冊が収録する範囲は、道嗣晩年の四十八歳から五十二歳にあたる。従一位前関白左大臣を辞して既に十五年余、息兼嗣も康暦元年には十九歳となり、官位も従一位右大臣に達するに至った。こうした状況を踏まえて、道嗣は間空き二行の具注暦を使用することを止め、日次記に移行したと推察される。近衛家における代替りが、日記の形態に影響を与えたと見て良いだろう。現存する道嗣記は、永徳元年正月で終了となる。しかし二月の冒頭が僅かに残っていることからも、本文はまだ継続していたと見てよい。現状、これ以後の断簡・逸文などは知られておらず、道嗣が没する至徳四年(一三八七)三月までの、どこで日記が終わっていたのかは、判然としない。
 日記本文に目を移すと、前冊に比して幕府を中心とした政治情勢に注意が向けられていることに気づく。康暦元年二月から閏四月に至る康暦の政変を契機として、細川頼之が失脚し、将軍足利義満の権力伸長が顕著になってゆく。こうした動向を受けて、日記本文には、次第に義満の動向を追うものが目立つようになり、康暦二年正月の従一位昇任や直衣始、同月の内裏法華法参仕などが細かに記されている。永徳年間に入ると、その傾向はさらに強まり、同元年年三月の後円融天皇の室町殿行幸、六月の任内大臣召仰、七月の任大臣節会、八月の直衣始など、道嗣自身の参仕などを含めて、事細かに描写されている。また永徳三年記の本文は正月のみながら、正月節会・白馬節会・踏歌節会と立て続けに内弁を勤める義満の姿が見えている。これまで、やや距離を置いていた感のある義満との関係が、一挙に深まっていったことを読み取ることができるだろう。
 つづいて当該期間における、道嗣ならびに近親者の動向にについて見ておきたい。前述のように道嗣の前関白左大臣という立場に変化はなかった。二条良基とならぶ公家の重鎮として、後円融天皇からの多岐に亘る諮問や、義満の要請に応えるのを常としながら、嗣子兼嗣を後見していた。その兼嗣も康暦元年には従一位となり、永徳元年正月七日の白馬節会にて初めて内弁を勤めるなど、着実に政治的立場を固めていた。永徳元年一二月には、関白左大臣たる二条師嗣から一上を与奪されるなど、いよいよ摂関就任に向けた地ならしが進められていたと見てよいだろう。
 他に子息の動向として触れておかねばならないのが、興福寺一乗院の門主となっていた良昭である。永徳元年八月二七日、彼は前門主実玄とともに拠っていた慈尊院から突如逐電している。当時の興福寺では、十年以上にわたり一乗院・大乗院両門跡と六方衆の抗争が続いていた。これまで常に実玄に従っていた良昭も、既に一九歳となり、独自の政治的立場を指向するに至ったのだろう。幕府は良昭が六方衆の側に奔ったと見ており、道嗣に門跡の後任選定を要請、これに応じて翌月一四歳になる息一人を南都に送っている。この息は、系譜等に該当するものが見当たらず、不明とすべき存在である。しかし兼嗣息とされる玄昭の履歴を見ると、その得度が永徳二年四月であること(『元一乗院水谷川家譜』)、かつ血脈の相承を実玄から受けていることなど(『三箇院家抄』)、永徳元年秋に良昭不在を受けて下向した人物の履歴として相応しい。或いは兼嗣養子という体裁をとって送りだしたのではなかろうか。本冊ではあえて奈良に下った道嗣息を、この玄昭に比定した次第である。大方の賢察を仰ぎたい。
 子息以外では、道嗣兄で律僧の静恵が、康暦元年八月に木幡観音寺から速成就院に長老として招請されている。また永徳元年三月には本寺たる西大寺の薦めを受けて浄観上人法流の僧から理性院流を伝授したことが見えている。
 冒頭に述べたように、永徳元年記の三巻は、その前年に相当する康暦二年の暦を翻して日次記を書いている。紙背は、この三巻分の暦を翻刻した。春巻は暦注として年中行事が付された具注暦で、間空きは無い。従前に道嗣が用いていた具注暦には間空きが二行あり、形式を異にしている。近衛家内部で、これら形式の異なる暦が平行して用いられていたことが分かるが、実際いかに使い分けされていたかは不明である。
 続く夏秋巻・冬巻は仮名暦で、夏秋巻が八月十四日~十二月八日分と正月九日~一二月二九日分を、冬巻が正月一日~八月九日分をそれぞれ用いている。都合三つの部分から構成されているが、夏秋巻の前半と冬巻はもと一具であった可能性も否定できない。暦の形式としては、ともに「ふねにのるによし」という注を持った、いわゆる舟乗型に相当するものである。なお仮名暦の翻刻にあたっては、繁雑さを避けるため、現時通用の字体に改めたことを付記しておきたい。
 附載のうち補訂表については、人物比定に関わるもの、すなわち索引に影響をを与えるものに限定して掲げ、細かな体裁の誤りなどは割愛した。なお同表にて、第一冊三二七頁八行目・第二冊七八頁三行目にある「慶運法印」を、「慶雲」に修正するむね示したが、誤りであった。当該部分の抹消をお願いしたい。あわせて索引の三三三頁に掲げた「慶雲」も、「慶運」に訂正いただきたい。
 また人名比定に関連して、本冊刊行後、小川剛生氏より次の二点につきご指摘をいただいた。一つは、道嗣室(洞院実夏女)の実名が、『新拾遺和歌集』雑中・一七八四の詞書から「子」と判明すること、もう一つは、本冊所収の康暦二年二月一三日条以降に登場する鎮継は、心空上人と称され、諡を慈伝とすることである。ともに補注・索引に反映すべき情報であり、補訂を願うところである。氏のご指摘に深謝申し上げるところである。
 最後に、本巻刊行は故田中博美氏が責任者となって準備していたが、同氏が二〇一三年四月に急逝されたことにより、同室の井上がこれを引き継いだ。氏のご冥福をお祈りするとともに、本冊の至らなかった点をお詫びする次第である。なお校正等の諸事務については、前冊に引き続き今井泰子氏(研究支援推進員)の支援を仰いだ。そのほか略系・索引等の作成にあたっては、宮崎肇(特任研究員)・嶋田哲・石田出・伊藤紋圭(以上、学術支援職員)の諸氏に支援をいただいた。またいつもながら陽明文庫名和修文庫長には、全般にわたってご教示を賜るとともに、諸々の便宜をお図りいただいた。併せて深く感謝申し上げたい。
(例言二頁、目次二頁、本文一七一頁、紙背一一二頁、解題九頁、略系二頁、年譜一四頁、補訂四頁、索引五九頁、巻頭図版一頁、本体価格一三、〇〇〇円、岩波書店発行)
担当者 井上 聡

『東京大学史料編纂所報』第50号 p.43-45