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日本関係海外史料 オランダ商館長日記 訳文編之十二

 本冊は、オランダ商館長日記訳文編之十二(自慶安二年十月 至慶安四年十一月)として、アントニオ・ファン・ブルックホルスト(一六四九年十一月五日から一六五〇年一〇月二五日まで)とピーテル・ステルテミウス(一六五〇年一〇月二五日から一六五一年十一月一日まで)の両商館長在任中の公務日記、及びアドリアーン・ファン・デル・ブルフの商館長在任中の公務日記の一部(一六五一年十一月一日から一六五一年十二月三十一日まで)を翻字翻刻したものである。前二者は短いため一冊に収め、さらに第三の日記が長いためその一部を掲載した。
 本冊所収記事の主要な話題は、一六四九年秋に来日した使節アンドリース・フリシウスの参府である。以下、本冊の内容を簡単に紹介する。
一、商館長ファン・ブルックホルストの日記
 一六四九年十一月五日に前任者ディルク・スヌークの乗ったウィッテ・パールト号を見送った後、十一月十日になって江戸からの飛脚が長崎奉行あての手紙をもたらし、同日奉行の命令として大使フリシウスと商館長ブルックホルストの参府が命じられた。オランダ人の参府一行は、二十五日築島(出島)を船で出発し、大坂で長崎から運んだ献上用大砲を日本側に引き渡し、奉行から江戸への通行証を得た。さらに、京を経て東海道を下り、十二月三十一日に江戸へ着いた。
 一六五〇年一月十八日、大使と商館長は大目付井上政重の邸へ呼び出され、井上と馬場から、六年前アントニオ・フィアリヨ・フェレイラのマカオ渡航をオランダ東インド総督が援助したという件につき、説明を求められた。井上は、両名の返答がコイエット及びスヌークの陳述と符合していると満足の意を示した。二十日に、再び両名は井上の邸へ呼び出され、在府の長崎奉行馬場利重の同席のもと、一六四七年に長崎に来航したポルトガル大使が途中バタフィアで援助を受けたと述べたため、幕府は二年間オランダ東インド会社に対して疎意を抱いたが、ブルックホルストとフリシウスがそれはアントニオ・フィアリヨのことであると弁明したため、ポルトガル大使の言の真偽は不問に付し、将軍はオランダ人に貿易を許す、と言い渡された。
 拝礼の日を待つまでの間、井上と馬場から、砲手と医師、商務員を江戸に残すように命じられた。そのため、砲手ユリアーン・スヘーデル、医師カスパル・スハムビュルヘル、商務員ウィレム・バイレフェルト、伍長ヤン・スミットを残すことに決定した。
 商館長は、早期の拝礼を望んでいたが、将軍徳川家光の病気が理由で、日本暦の新年を迎えても、なかなか拝礼には至らなかった。そこで、井上と馬場に、フリシウスの長崎帰着より前に大使乗船のロベイン号を出帆させる許可を求めたが、許されなかった。商館長は、拝礼の延引は、大使到着が遅くなったことへの報復であると解釈した。
 家光の病気はなかなか癒えず、四月六日、井上と馬場から、病気の将軍の代わりに閣老たち及び世子に拝謁して進物を呈するよう、命じられた。そして七日、登城の上、フリシウスとブルックホルストは、将軍の代理である酒井忠勝・松平信綱・阿部忠秋・阿部重次と世子徳川家綱に拝礼した。八日、再び登城し、フリシウスが将軍並びに世子からの賜品を受け取り、ブルックホルストは井上から、閣老の書面に基づき、「これで二年に及ぶポルトガル大使の問題は解決し、貿易は今まで通り自由に行うことが許される」と言い渡された。十六日ブルックホルストとフリシウスは江戸を立ち、五月二十二日に長崎に帰着した。商館長の不在は、約半年に及んだ。
 江戸に残ったオランダ人四名の諸費は将軍が支弁したが、滞在は長引くであろうと想像された。バイレフェルトからはたびたび書翰が届き、医師は多数の大官の病気を治療していること、砲手が井上の家臣に測量を教授し、さらに、臼砲の射撃が八月三十日、三十一日、九月一日に牧野親成及び井上政重の面前で砲手によって行われ、好成績を上げ、将軍に喜ばれたことが報じ
られている。
 他に、この年の日記の話題としては、上使朽木植綱と兼松正直が、熊本藩主細川六丸が幼少であるため国政監察のため熊本に向かう途中、長崎を訪れ、ロベイン号を見物したこと、長崎を暴風雨が襲い、築島のオランダ商館も甚大な被害を受けたこと、などがあげられる。
 九月十一日、奉行は五箇所の頭人及び町年寄たちに、生糸のパンカドを始めることを命じ、翌日、通詞が来てパンカドが決定した旨伝えた。十月十一日、五箇所の頭人たちが来て、生糸をより分け、計量しようとしたが、品質が粗悪だとして、減額を要求した。
 十月十日フリシウスは奉行邸に暇乞いに行き、今後オランダ人が日本で貿易を行い続けるには、海上で中国船に危害を加えてはならぬ、と命じられ、十二日、ロベイン号で出帆した。
 十月二十四日、ブルックホルストは暇乞いのためステルテミウスを同伴して奉行邸に赴き、翌日ヒュルスト号に乗って日本を離れた。
二、商館長ピーテル・ステルテミウスの日記
 ブルックホルストを見送った翌十月二十六日、ステルテミウスは奉行馬場利重から、今年出府の順番である奉行山崎正信は病気で出府できないであろうから、オランダ人は自分たちの希望の時に参府をしてよい、と伝えられた。
 十一月五日棄教宣教師のジュアンが、九日には奉行山崎が死亡した。十四日にはウィレム・バイレフェルト他のオランダ人が江戸から長崎に帰着した。
 十一月二十三日、商館長は奉行馬場邸に赴いて暇を乞い、翌日、オランダ人六名、日本人二六名で乗船し築島を離れた。瀬戸内海、大坂、京を経て、東海道を通り、一六五一年一月五日に江戸へ着いた。江戸では、井上から、黒川正直が新しく長崎奉行に任じられたことを伝えられた。三月二十四日になってようやく拝礼が許され、登城して将軍の代理である酒井忠勝・松平信綱と世子徳川家綱に謁見した。二十九日に、通詞を登城させ、商館長一行の出発許可証と、将軍・世子からの回賜品を受け取った。オランダ人一行は四月二日江戸を出発、五月三日に長崎に着いた。
 商館長参府中のジャンク船の来航数は昨年より少なく、ステルテミウスは今季も輸入商品で利益を上げるだろうと予測した。
  六月二十一日には、八日に徳川家光が死去したという知らせを受け取った。商館長は通詞を弔問のため江戸に遣わすことを奉行馬場に願い出、許しを得て、通詞石橋助左衛門が江戸へ出発した。
 七月二十九日には、早くもタイオワンからのペリカーン号が到着し、即日通詞たちが奉行の命を受けて来館、ヨーロッパの情報と、フリシウスが復命のためオランダへ帰ったかどうかを尋ねた。商館長は、オランダとポルトガルとの戦争はヨーロッパで継続しており、フリシウスはバタフィアで総督秘書になったと返答した。また、同船からの情報により、カレル・レイニールスが東インド総督になったことが伝えられた。
 十八日にはタイオワン号とヨンゲン・プリンス号がバタフィアから到着、後任の商館長アドリアーン・ファン・デル・ブルフが着いた。十九日通詞たちが奉行の命令で来館して、ヨーロッパの近況とフリシウスの事について尋ねた。それに対して、オラニエ公が逝去したこと、大使フリシウスは、バタフィアに滞在しており、本国への復命は本国に戻る前総督コルネリス・ファン・デル・レインが引き受け、そのことを商館長から奉行に報告することが命じられた、と返答した。大使についての返答に関しては、翌日に奉行から満足の意が表明された。
 九月十日貿易開始を奉行に願い出たが、貿易開始のため倉庫が開かれるのは十五日頃になるだろうとのことであった。商館長は、今年は諸船が早く着いたので早期の取引開始を望んでいたのに、と失望を記している。二十日、町年寄作右衛門が五箇所の頭人たちとパンカドについて話し合い、決定の上、慣例に従い商館長と相談するため来館、議論の末、その値段に決した。同日、倉庫を開いて、売り出すべき商品を取り出した。十月六日、五箇所の頭人たちが来て、白色生糸を選別した。不合格品が少なかったので、パンカドは昨年より低価格であったが、利益は今年のほうが多かった。パンカドについては、制度の見直しが行われている一方で、形骸化が進んでおり、商館長日記からあらためてこの制度の変遷を負うことも可能であろう。
 十一月一日、ステルテミウスは、コーニンク・ファン・ポーレン号で日本を離れた。
三、商館長アドリアーン・ファン・デル・ブルフの日記
 最後のオランダ船を見送った後、調理室と食料品貯蔵室の屋根を下げる工事を行わせた。また、バタフィアから注文の石材の見本が出来上がったので、値段について石工と話し合った。十二月八日、参府には通詞孫兵衛一人を同行させることが許された。同行する通詞を二名から一名に減員することが会社の負担軽減となるため、商館長は大いに喜んだ。十二月二十七日にバルク船に乗って江戸参府に出発した。三十一日平戸湾に入り、同地で夜を過ごすこととなった。(一六五二年一月以降の日記は、原文編・訳文編之十三に収載する)。
 本冊で最も目を引くのが、ブレスケンス号事件(本書訳文編之七参看)の解決(本書訳文編之八参看)に対する御礼の大使ブロックホヴィウスの死後、代行を務めたフリシウスが商館長とともに参府をする記述である。参府しても、将軍の病気により、なかなか拝礼が認められなかったことから、商館長はさまざまな憶測をしており、井上政重から、いらいらせずに待っているよう、度々諭されている。この遣使については、レイニアー・H・ヘスリンク著、鈴木邦子訳『オランダ人捕縛から探る近世史』(山田町教育委員会、一九九八年)が事実関係を詳しく整理している。同書によれば、ブロックホヴィウスは、ラテン語学校の校長を務めるべくバタフィアにやってきた人物である。日本行の大使を仕立てる必要に迫られた東インド総督と日本通の東インド評議会参事フランソワ・カロンが、彼を「オランダからの大使」に仕立て上げ、日本に送ったのである。
 本書に附録として収録した、大使ブロックホヴィウス充ての総督訓令によれば、同人はバタフィア出帆の際既に死に瀕しており、それを承知で送られた。船上で死んだら、フリシウスが代行し、遺体は塩漬けにして日本に届けること、という指示、さらには棺のための材木まで船に準備してあるという記述は、まさか本人に読ませるために書かれたのではあるまい。もはや訓令書を読むこともできないほどの重体だったのであろう。
 この訓令には、遣使の(日本人に言明するべき)趣旨が噛んで含めるように書かれており、その内容が、使節団のオランダ人たちの認識する「事実」とは異なっていたことを語っている。また、伝えられたばかりのウェストファリア条約でオランダがスペインと講和したことに対する日本人の懸念を、総督が心配している様子もうかがわれる。さらに行水をして体を清潔に保つように、宴会で泥酔するな、といった指示が事細かく書かれており、書かれた目的と文脈が明瞭なオランダ人の日本観察としても面白い。
 この訓令には一言も言及されていないのだが、この使節団の運んだ最も重要なものは、総督から長崎奉行に宛てて書かれた日本語書翰であったと思われる。書翰そのものは現存しないが、オランダ語で書かれた控えは、オランダ国立中央文書館所蔵日本商館文書のなかに残されている。これは「オランダにいる重役閣下方」の意を受けて、ブレスケンス号事件解決への謝意を将軍に上奏することを願ったもので、まさに遣使の意図を端的に示している。しかし、この書翰の扱いは、使節代行として来日した日本事情に疎いフリシウスではなく、フリシウスに少し先んじて長崎に到着した日本通の商館長ブルックホルストに託されたと考えられる。ブロックホヴィウスの遺体とフリシウスと日本語書翰を載せたロベイン号に託送された商館長充ての書翰(本書訳文編之十一、附録四)には、日本語書翰を「敬意をもって」奉行に渡すようにとの言及がある。(この遣使の意義と、日本語書翰については、松方冬子「一七世紀中葉、ヨーロッパ勢力の日本遣使と『国書』」松方編『日蘭関係史をよみとく(上)つなぐ人々』〈臨川書店、二〇一五年〉も参照されたい。)
 本冊の本文の翻訳に関しては、北アイオワ州立大学教授レイニアー・H・ヘスリンクReinier H. Hesselink 氏、イサベル・田中・ファンダーレン氏から多大の協力を得た。校正については、非常勤職員大橋明子氏も参加した。
(例言六頁、目次五頁、図版二頁、本文三三〇頁、索引二二頁、本体価格一〇八〇〇円)
担当者 松方冬子・松井洋子

『東京大学史料編纂所報』第50号 p.45-48