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大日本史料 第十二編之六十

本冊には、元和九年(一六二三)年正月一日から二月十日までの史料を収録した。このうち主なものについて以下に紹介する。
 まず、朝廷の年頭儀礼に関しては、正月一日の四方拜および元日節会について、「公卿補任」「凉源院殿御記」「泰重卿記」「孝亮宿禰記」から関係記事を掲出したほか、「御湯殿上日記」を掲載した。ただし、「御湯殿上日記」の元和九年分は正月二日から十日までの残存で一日の記事を欠くが、一日の條に含めて掲載した。また、公家や門跡等の年頭祝儀に関して、正月中の祝儀・贈答関係の記事を便宜合叙とした。
 幕府の年頭儀礼に関しては、幕府自身の記録による一次史料としての幕府右筆所日記が寛永八年以降分であるため、「東武実録」「視聴日録」「大内日記」等を基本史料とした。数少ない一次史料として、「坊所鍋島家文書」等を用いた。
 正月八日の第一條では、長禄四年を最後に百六十年余り絶えていた後七日御修法の再興を取り上げた。
 後七日御修法は正月八日から十四日にかけて東寺長者によって執り行われる正月の密教儀礼である。周知のように、承和二年に空海の上奏にもとづいて始められたもので、当初は鎮護国家のための修法であったが、中世には玉体安穏を主な目的とするようになった。単に御修法(みしほ)とも称され、真言宗の最重要法会の一つである。しかしながら、中世後期の朝廷の経済的な衰微とともに、次第に延引・中止が目立つようになり、長禄四年に、それまで道場とされていた宮中真言院の退転のために紫宸殿に道場を構えて執行されたのを最後に、いよいよ中絶してしまった。
 文禄三年に東寺長者となった三宝院義演は、後七日法の再興を生涯の目標として、度々朝廷に上申したがなかなか認められず、ようやく元和八年年末になって、三条西実条を勅使として明年の再興の勅命が降りた(『大日本史料』第十二編之五十、元和八年十二月八日の第一條。なおこの綱文では、勅使の「三条大納言」を光広としているが、後に触れる松橋堯円の「元和九年後七日記」に「勅使大納言実条卿」とあるので、こちらに従う)。その経緯は川嶋将夫「江戸時代前期における朝儀の復活─後七日御修法の再興をめぐって」(『立命館文学』五八七号、二〇〇四年、のち同著『室町文化論考 文化史のなかの公武』法政大学出版局、二〇〇八年所収)にすでに紹介され、後七日法再興は東寺長者としての義演の宿願であると同時に、踏歌節会や県召除目など後水尾天皇による朝儀の再興の一環として位置付けられている。
 本條の構成は以下の通りである。
 先ず後七日法再興の事実を確認できる日記・記録類を配列した。再興に中心的な役割を果たした義演の「義演准后日記」が基本史料となるが、本冊では学界未紹介の史料として、松橋堯円が書き残した後七日法に関する引付のうち元和九年にかかるもの(「元和九年後七日記」、「醍醐寺文書」第百十五函─十五号─二)を採録した。本書は草稿本であり、数多くの訂正箇所が含まれているが、翻刻に際してはそれらをなるべく再現した。
 次に法会の準備・執行にかかる史料を採録した。これには義演が法会再興の参考とするために必要とした聖教の貸借をめぐる、義演と報恩院寛済のやり取りが分かる書状類や、法会に参加する伴僧への下行に関する史料、伴僧の請定・請状、ならびに毎回の執行とともに貼り継がれる続紙(表面に請僧の交名、裏面にその年の執行の子細を記したもの)が含まれる。
 最後に今回の再興にあたって作成された聖教類を配列した。それには先ず「後七日御修法再興記」(「醍醐寺文書」第六百七十二函─二十号)がある。義演は元和九年の再興以後、寛永三年まで四回にわたって後七日法の大阿闍梨を勤めるが、本書は、その最後となった寛永三年の勤仕の後に、初度の勤仕の記録として義演自身がまとめたものである。『密教大辞典』(増補版一九三一年刊、法蔵館)にも立項されて、古くからその存在は知られていたが、草稿本ということもあって、これまで広く学界に紹介されることはなかった。また、義演自身が今回の勤仕の直後に法会の次第を書き残したものとして、未紹介の「後七日法次第」(「醍醐寺文書」百八十五函─二十号─一)を採録した。これらはともに長大なものであり、また多くの引用や聖教として定型的な個所を含んではいるが、義演の自筆であり、また法会再興の基本史料であることから全文を翻刻した。その他に、この機会に義演自身が書写、もしくは配下に書写させた聖教の義演自筆の奥書や、後七日法の十二天供を担当した宝幢院源朝、増益護摩を担当した報恩院寛済の書写した聖教の奥書も未紹介史料を中心として採録した。
 なお、後水尾天皇は、この時に使われた犍陀穀子袈裟の傷みが激しいことを歎き、本年七月五日付で袈裟を新調して東寺に寄進するが、これについては本條に便宜合叙とし、また後七日法と同じく正月の密教儀礼である太元帥法については、本日の第二條として後七日法とは分けて綱文を立てた。
 正月十一日の第二條では、同日より十四日まで催された秀忠による茶宴を扱った。この茶宴に関しては、後年の史料で家光によるとした事例がいくつかみられるが、いずれも秀忠の誤りである。本條には、幕府年寄から各大名への茶宴開催を伝える奉書のほか、各大名家に残る関係記事を掲載したうえで、「御本丸御茶湯之記」(以下、「茶湯之記」という)および「家光公元和年中御茶事記」(以下、「茶事記」という。「家光」とあるのは、前述のように「秀忠」の誤り)を掲載した。「茶事記」には一部落丁があると思われ、その部分は「茶湯之記」で補えるが、「茶湯之記」には客である大名に脱漏や錯誤がみられ、この点は「茶事記」の方が正確といえる。この外、双方ともに、それぞれ若干不備な点もみられるが、相互に補いつつ茶宴全体の様子が窺える史料として収録した。
 正月十九日の條では、和歌御会始を扱った。後水尾天皇在位中の和歌御会始の日取りはほぼ正月十九日に一定している。
 先ず「凉源院殿御記」「泰重卿記」など日記類を、その後に「鷖巣集」(「後水尾院御集」)などの歌集から実際に詠まれた歌を抜粋した。後水尾天皇の歌集である「鷖巣集」は百種類以上の伝本が知られており、これまでの第十二編では史料編纂所本(二〇三一─五八)を底本としてきたが、ここでは東山御文庫本「鷖巣集」(勅封六八函─一─一)を底本とした。
 なお、月次和歌御会の本年中にかかるものは便宜合叙として年月日順に配列し、冷泉家の和歌会始を〔附録〕として末尾に付した。
 二月八日の條では、花房正成の卒伝を扱った。正成は、弘治元年の生まれで、宇喜多直家・秀家に仕え、秀家のもとでは四人の「長臣」(「家老」「老臣」とも)のひとりといわれ、また豊臣秀吉との連携役を担っていたともいう(大西泰正『「大老」宇喜多秀家とその家臣団』岩田書院、二〇一二年)。関ヶ原合戦後徳川家康に召出され、備中国に五〇〇〇石を与えられた。元和九年二月八日に六九歳で死去した。
 本條では、最初に岡山県小田郡矢掛町の妙泉寺に所在する正成の墓である宝篋印塔の銘文を掲げ、系譜として「寛永諸家系図伝」「寛政重修諸家譜」のほか、「花房氏記録」のなかから正成の動静を示す部分を掲出し、さらに岡山市教委育委員会所蔵「花房家史料」のうち「家譜畧」を掲載した。正成の名は、「備前軍記」や「戸川家譜」等々の後年の編纂物にしばしば登場しているが、本冊ではそれらは採録しなかった。
 正成は、宇喜多氏時代には「秀成」と名乗っている。それが江戸時代の諸史料では「正成」となり、「秀成」には全く触れられるところがない。この点、関ヶ原合戦後に徳川家康に取り立てられた関係上、秀吉との密接な関係を示す「秀」の字を放棄する必要があったのではないかとの指摘(前掲大西著書)も踏まえ、ここでは関が原合戦以前の史料については「秀成」、以後の史料については「正成」と注記し、関ヶ原合戦以前の記事であっても、後年に成立した編纂物等による場合は「正成」と注記した。
 また、正成の志摩守叙任年代について、「寛永諸家系図伝」「寛政重修諸家譜」「花房氏記録」(浮田来由)では、天正十六年四月の後陽成天皇聚楽第行幸の際としている。しかし、同十六年と推定される七月二十六日の正成書状(「湯浅文書」)には「又七」と署名しており、叙任以前といえよう。一方、卯月十六日の宇喜多秀家書状(「遠藤家文書」)を、秀家の参内に関するもので、年代を天正十七年と推定したが、これには「志摩守」と記されている。したがって、正成の志摩守叙任は、聚楽第行幸に伴うものではなく、同十六年七月から同十七年四月の間と考えられる。
 ところで、「寛永諸家系図伝」「寛政重修諸家譜」「花房氏記録」には記載がないが、「家譜畧」のなかに、八丈島に流刑になった宇喜多秀家に正成が粮米を送ったことが見えている。この逸話に関し、「落穂集」の記事を〔参考〕として掲げたが、記事の最後に「大猷院様御代始の事の由」とあるのは、「落穂集」編者の錯誤であろうか。さらに〔参考〕として掲げたが、正成の子正幸の代に八丈島の宇喜多秀家のもとに米などを送っている史料があり、こうしたこととの混同もあろうか。
 なお、正成の墓である宝篋印塔、および正成(秀成)の花押が据えられた唯一の原本である天正十九年二月八日の白川義親充書状を、図版として挿入した。
 二月十日の條では、越前北荘城主松平忠直が、その所行を将軍秀忠より譴められ、隠居を命じられた事件を扱った。所謂松平忠直事件である。この事件に関して、幕府と忠直等、当事者自身の動静を直接に示す一次史料は、ほとんど残っていない。幕府による軍事動員の可能性が想定されたため、諸大名は、情報を収集するとともに、事が起こった場合に対応するための動員準備を進めた。こうした動きを中心として、事件への対応を詳細に示す各大名家の史料は、多方面にわたって残されている。肥前佐賀鍋島家、豊前小倉細川家、豊後岡中川家、長門萩毛利家、安芸広島浅野家、美作津山森家、伊勢津藤堂家、加賀金沢前田家、尾張名古屋徳川家、出羽久保田佐竹家等に残された関連史料を収めた。なお、中川家の史料において忠直事件の記事が多く含まれることについては、入江康太「松平忠直配流に伴う岡藩の替地交渉について」(『大分県地方史』二〇四号、二〇〇八)に教示を受けた。
 前年における忠直の様子については、元和八年二月二十一日の條における在江戸の細川忠利から同忠興への報告の中にあるように、越前における行状の異常さが幕府を含めて広く知られるところとなり、問題視されていた。元和九年正月当初には、江戸参勤中の細川忠利から国許の小倉へ、越前の落着が見られないことを知らせるとともに、鉄砲袋作製や出陣の用意を目立たぬように行うべしと指示している。同様の国許への指示は、同月内に、在江戸の藤堂高虎、中川久盛からもなされている。
 幕府としては、この間、忠直の処分の実行を模索していたと推測されるが、その実態を直接に示す一次史料は、右に述べたごとくほとんど残っていない。忠直長男で、その家督を嗣いだ松平光長の系統の「美作津山松平家譜」によれば、この年二月十日、秀忠は、江戸城へ光長を呼び、忠直の隠居を命ずるとともに、光長への家督相続を申し渡したとされる。また、その前後には、忠直の生母である清涼院が秀忠のもとに呼ばれ、忠直の隠居と光長家督相続という将軍の命を、清涼院から忠直本人に伝え、それに逆らわないように説得することが命じられたとされる。このことをそのまま裏付ける一次史料は確認されていないが、「松平忠利日記」の二月十四日の記事には、清涼院が暇を与えられて江戸を出発したとあり、清涼院がこのころ忠直説得のために江戸から越前へ向かったという「美作津山松平家譜」の記述を、一定程度裏付けている。本條では、幕府からの忠直隠居等が命じられた正確な日付が未確定であるものの、以上の検討も踏まえて、現段階においては、「美作津山松平家譜」に拠って、この日に綱文を立てた。
 清涼院が越前の忠直の許へ到着したのは、「美作津山松平家譜」によれば、二月二十二日とされる。そこで幕府の方針が伝えられ、忠直がそれを受け入れるまでに数日、そのことが江戸に伝えられのにはさらに数日を要すると推測される。諸大名等の史料において、忠直が幕府の処分に服することを表明したことが、江戸において幕府から彼らに伝えられるのは、ほぼ一斉に三月五日から七日の間に集中している(藤堂高虎・細川忠利・前田利常)。また、同時に忠直の隠居地が豊後萩原とされたことにより、その収公が同地を知行していた中川久盛(在江戸)に伝えられるのは、三月八日である。
 こうして、一旦は落着との認識が広まったが、忠直が豊後への移動を速やかには行わず、とりわけ移動途中の敦賀での滞留が長引いたことで、四月ころには、再び大名の間に緊張が高まり、この時期も出陣の用意を国許に指示している(細川忠利・森忠政・佐竹義宣)。最終的には、五月二日、忠直は敦賀を発して翌日に京に入り、六日にさらに西国へと出発した(「凉源院殿御記」「松平忠利日記」等)。その後、瀬戸内海を浅野家・毛利家の用意した船で西向し、同二十六日に萩原に着船している。
 忠直隠居に関わる本條は、本冊では一次史料を中心として掲載したが、次冊では、引き続き関連史料を収録する予定である。
(目次五頁、本文四三四頁、本体価格九、六〇〇円)
担当者 佐藤孝之・小宮木代良・及川亘

『東京大学史料編纂所報』第49号 p.38-41