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大日本史料 第十編之二十八

本冊には天正三年(一五七五)正月一日から三月一三日条までを収めた。
 朝廷関係では、本年は前年に比較して、『御湯殿上日記』『中山家記』『宣教卿記』『兼見卿記』『大外記中原師廉記』など日記が多く残っている。天正三年の第一冊目にあたる本冊では、朝廷・公家が関わる行事(一日の御祝・聖忌仏事・方違行幸)、学芸・遊戯(和歌会・御宴・御貝合・御神楽)、そのほか参賀参礼、寺社参詣、贈答、叙位任官、改名、香衣勅許などの条について、本年一年間の関連記事を合敍した。
 このほか本年では、正月一日から三日までの三日間ではあるが、正親町天皇宸筆の日記がある(『東山御文庫所蔵史料』)。『大外記中原師廉記』は、この時期に大外記を務めた中原師廉の日記であり、原本は史料編纂所が所蔵する。彼の日記としては本年分しか残されていない。折紙に仮名書き主体で書かれた珍しい体裁のものであり、今後『大日本史料』の天正三年に収めていくにあたり、まず全体を『東京大学史料編纂所研究紀要』二三号に翻刻紹介している(ウェブ公開済)。全体に関心がある方はそちらをご参照いただきたい。
 朝廷・畿内関係として注意しておきたいのは、正月一四日条に収めた禅僧笑隠善樟の東福寺住持補任である。このとき右大臣九条兼孝・権大納言足利義昭の公帖が発給されている。義昭はすでに紀伊に退いているが、花押を見ると、義昭花押編年についての蕪木宏幸氏の研究(「足利義昭の研究序説─義昭の花押を中心に─」『書状研究』一六、二〇〇三年)を受けた藤田達生氏の研究「「鞆幕府」論」(『芸備地方史研究』二六八・二六九、二〇一〇年)において、藤田氏があらたに「天正四年」型と別の分類を提起した形状に近く(水野嶺「足利義昭の栄典・諸免許の授与」『国史学』二一一、二〇一三年も参照)、その直前まで使用されていたとする「公家様Ⅲ」型を含めたうえで、さらなる検討を要する素材を提供していると言える。
 織田信長の動向については、正月一〇日条の洛中洛外寺社本所領代官改替をめぐる朱印状発給、二月六日条の天皇への鶴献上、同一〇日条の小笠原貞慶への音信、同二〇日条の出羽安東愛季に対する初めての音信、同二七日条の養女の大和筒井順慶との婚姻、三月三日条の上洛、同一一日条の河内派兵、同一三日条の徳川家康への兵粮支援などがある。
 正月一〇日条では、奥野高廣氏編『増訂織田信長文書の研究』(吉川弘文館)四九三号として知られていた寺社本所雑掌中宛朱印状にくわえ、同日付で明智光秀・村井貞勝に宛てたほぼ同内容の朱印状写を『壬生文書』より収めた。光秀・貞勝はこの時期京都の諸事を管轄していた。寺社本所領を押妨する代官の改替を命じた本文書は、この年から本格化する信長の朝廷・公家支援策の端緒として注目される。
 二月六日条では、史料編纂所所蔵正親町本『綸旨』から、信長(織田弾正忠)宛綸旨を収めた。信長が鷹狩で捕獲した鶴一〇羽を禁裏に献上したことは、『御湯殿上日記』の六日条に記されており、綸旨は三日付とそれ以前の日付であるが、「鷹鶴十羽御進上」「近日可有上洛」という文言の共通性から、本年のものである可能性も捨てきれず、天正元年から本年までの可能性を示して便宜収めた。
 二月一〇日・二〇日の小笠原貞慶・安東愛季への音信も注目される。一〇日条収載の貞慶宛信長朱印状によれば、貞慶は前年秋頃岐阜に滞在していたが、信長は長島一向一揆攻めのため不在にしており、対面できなかったことを詫びている。さらに信長は、上杉謙信と由良成繁の関係を心配し(天正二年閏一一月一九日条参照)、対大坂本願寺の情勢が好転していること、北条幻庵・氏規・氏繁等に書状を遣わしたことなどを告げ、信濃復帰を願っていた貞慶に対し、武田氏攻めへの意欲を見せ、その協力を依頼している。
 本文書はこれまで、徳川義宣氏が『新修徳川家康文書の研究』(徳川黎明会)のなかで紹介した『唐津小笠原家宮内省呈譜』収録の写しか知られていなかったが、矢部健太郎氏(國學院大学准教授)のご教示により、この原本を含む旧唐津藩小笠原家伝来の文書が佐賀県唐津市教育委員会に所蔵されていることが判明した。本冊編纂にあたり、調査・撮影のうえ、原本から採録することができた。小笠原家文書のうちの中世文書については、矢部氏の論考「旧唐津藩小笠原家伝来中世文書の紹介」(嵐義人先生古稀記念論集刊行委員会編『文化史史料考証』アーツアンドクラフツ、二〇一四年)を参照されたい。ご教示を賜わった矢部氏、調査のおりにご高配を賜わった唐津市教育委員会黒田裕一・米倉美和子氏に厚く御礼申し上げる。
 二月二〇日条に収めた同日付の安東愛季(下国殿)宛信長朱印状では、鷹師を奥羽に遣わすにあたり、その路次往還の安全保障を愛季に依頼している。この文書をもって信長は初めて愛季に音信し、両者の外交関係は始まったが、その後信長および彼の家臣たちと愛季の間には、愛季叙爵を信長が執奏したり、馬・鷹の贈答を通じての友好関係が続いた。
 前年来美濃東部や遠江高天神城を武田氏に侵されたことに対し、信長は二月一〇日付朱印状にて小笠原貞慶に書き送ったように、反転攻勢を目論んでいた。三月一三日条では、この時点で家康に対し兵粮を支援し、佐久間信盛を視察に遣わすなど、対武田氏戦のための布石を着々と打っていることがわかる。
 『当代記』によれば家康は、信長から贈られた兵粮二千俵のうち三百俵を奥平信昌の守る長篠城に籠城用として入れたとある。長篠にて武田軍と織田・徳川軍が激突するのは五月二一日であり、そこに至る動きは確実に始まっている。
 その武田氏関連では勝頼による安堵など内政関連文書が続く(正月六日・一〇日・二三日・二八日・二九日・二月一日・五日・七日・一三日・一四日・二〇日・二一日・二二日・二八日・三月一日条)。このうち正月二三日条で、勝頼が院領を安堵した西昌院は「御西」の菩提寺であるが、この「御西」とは、『甲斐国志』および「菊院録」により武田信虎側室の今井氏と判明する。武田氏による係累の供養としても興味深い事例といえるだろう。
 東国では、前年閏一一月に下総関宿城を救援できなかった上杉謙信が、甥景勝を事実上の後継者とし(正月一一日)、家中の軍役を整備する(二月九日・一六日条)など、態勢立て直しの動きを活発化させる。正月一一日条の根幹となる同日付謙信書状をめぐっては羽下徳彦氏(東北大学名誉教授)のご教示を得た。
 また二月一六日条所収の軍役帳二冊について、米沢市上杉博物館において原本調査を行い、記述内容が一部異なるだけでなく、体裁・料紙などを勘案した結果、二冊とも採録することとなった。なお上杉氏関連条の編纂に際し、福原圭一氏(上越市公文書センター学芸員)のご教示を得た。
 一方の北条氏では、当主だけでなく一門・家臣による多様な文書が発給されているが(正月二八日・二月六日・一四日・一五日・一七日・二一日・三月二日・五日・七日条)、なかでも、北条氏に従っていた下総千葉氏の龍朱印が特徴的である(正月二五日条)。三重郭の堂々とした方形朱印は「きわめて威圧感のある印章」とされており(市村高男「関東における非北条氏系領主層の印章」有光友學編『戦国期印章・印判状の研究』岩田書院、二〇〇六年、三五頁)、戦国期の当該地域における千葉氏の影響力を示している。西国に目を転じると、正月一日条に毛利氏による備中攻略の関連史料を収めた。史料綜覧・史料稿本の当該条に収められている正月晦日付小早川隆景書状(浦図書宛)は、『大日本古文書小早川家文書』付録浦家文書三六号以来、天正三年と比定されてきたが、今回正月一日条に収めた、伊予方面での戦闘を伝える(天正二年)一二月晦日付の隆景書状(小早川文書)、(同三年)二月二一日付隆景書状(宇喜多文書)と内容に齟齬をきたしてしまう。
 この後、毛利氏が猿掛を基地にして常山を攻める状況は、天正八~九年にも見られ、猿掛からの指示に敬称がついてない点からすると、三年よりも九年に比定するのが自然であろう。また、三村氏滅亡を描く軍記類は多数伝来しているが、本条では成立年代が比較的早く、備中兵乱の時系列を辿れるものを中心に、参考として採録した。
 毛利氏では正月一一日条の、但馬山名氏との和睦も興味深い。仲介となった吉川氏のもとに伝来した大量の関連文書に加え、長谷川博史氏が検討した(天正二年)一二月二五日付吉川元長書状(牛尾文書)などにより経緯が詳しく判明する(古志史探会編『出雲古志氏の歴史とその性格』出雲市古志公民館発行、一九九九年)。和睦に際しては、古志氏などの媒介者の動きが必要だっただけでなく、鳥執城の武田高信の後継問題といった関連する諸課題も懸案となっていたことが分かり、戦国期の外交交渉の複雑さを垣間見ることができる。
 九州では、まず大友氏関連の三月七日条について、同条所収の大友義統書状は、花押型により天正三年と比定される。前年一〇月に肥前須古城を攻略した龍造寺氏は、三年春に須古領を諸士に配分している(二月七日条)。
 島津氏関連では『上井覚兼日記』が分量的にも目を引くが、そのなかでも二月二〇日条に収めた、当主義久の弟家久による紀行記「中務大輔家久公御上京日記」は出色のものだろう。薩摩を出立し、瀬戸内海を抜けて上洛の後、日本海沿岸を経由して帰国するまでの旅日記の体裁を取るこの史料は、交通史研究をはじめ先学が注目してきたもので、たとえば周防三丘城を「たかけれと悪き城」と評するように、その描写はユニークである。採録にあたっては、全体の分量を勘案して三分し、本冊には出立から兵庫津までを収めた。なお日記の全文は村井祐樹氏により『東京大学史料編纂所研究紀要』一六号(ウェブ公開済)に翻刻紹介されている。 本冊では、三月一三日に薨じる前権大納言・右大将正二位久我晴通の卒伝を収めた。晴通は関白近衛尚通の子として生まれ、享禄四年(一五三一)久我通言の養子として久我家に入った。出生から成長の過程については、父尚通の『後法成寺関白記』に詳しい。
 その後天文五年(一五三六)に通言出家を受けて久我家を嗣ぎ、当主として順調に昇進を重ねていたが、同二二年四月、姉にあたる足利義輝生母(義晴正室)慶寿院に「世上の儀」につき意見したところ容れられず、それを不服として出家し、法名宗入を名乗り、愚庵と号した。
 出家以前から足利将軍家と深い関わりを持っていたが、出家後もその関係は切れず、大友宗麟と毛利元就の和睦(豊芸講和)にあたり、その仲介をおこなうため大友氏の豊後に下向するなど、重要な役割を果たしている。
 卒伝収録にあたり発給文書を収集検討し、未紹介文書を中心に収めた。またその過程で彼が数種の花押を使用していることが判明し、文書の年次比定と花押編年の作業をおこない、収録文書にその成果の一端を示した。宗入の花押について、詳しくは金子「久我晴通の花押と文書」(『東京大学史料編纂所附属画像史料解析センター通信』六六号、二〇一四年)を参照されたい。本所所蔵『園城寺文書』所収一二月一九日付宗入書状についてはデジタルカメラにて撮影をし直し、全体を収めた(データベースから閲覧可能)。
 記録などにうかがうことのできる宗入の事蹟や発給文書によれば、宗入は義輝殺害後から、甥にあたる義昭が永禄一一年に上洛したあとも一貫して足利将軍に近仕し、元亀二年から三年にかけては、ふたたび大友・毛利の和睦仲介のため豊後に下るなど、義昭を支えた公家として注目すべき存在であったことがわかる。
 なお本条に収めた極月二八日付武田彦五郎宛書状(『尊経閣古文書纂』)の年次を永禄一二年としたが、翌年元亀元年に、おなじく永禄一二年か翌一三年(元亀元年)とした臘月一九日付園城寺公文所宛書状(『園城寺文書』)を永禄一一年から同一三年(元亀元年)のものと訂正したい。
 編纂にあたっては、二〇一〇~一三年度史料編纂所特定共同研究「関連史料の収集による長篠合戦の総合的研究」、および二〇一一~一三年度科学研究費・基盤研究(B)「中世における合戦の記憶をめぐる総合的研究─長篠の戦いを中心に─」・史料編纂所附属画像史料解析センター「長篠合戦図屏風プロジェクト」による調査の恩恵を受けた。これらの共同研究にご参加いただいている所内教員・技術職員各位、また所外の共同研究員各位に厚く御礼申し上げる。
(目次一四頁、本文四一一頁、本体価格九、二〇〇円)
担当者 金子 拓・黒嶋 敏

『東京大学史料編纂所報』第49号 p.35-38