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大日本古文書 家わけ第十八 東大寺文書之二十二

本冊は、〔第一部一八 越中国高瀬荘〕よりはじまり〔第一部二四 雑荘〕の途中1−24−82までを収めた。『東大寺文書之十』寺領部第一部第一黒田荘より始まる東大寺図書館所蔵未成巻文書は、荘園単位のまとまりが完了し、ひと区切りついたことになる。以下では、利用の便宜を図るために、内容をいくつかに分類して紹介する。
〔第一部一八 越中国高瀬荘〕
 現在の富山県東礪波郡井波町にあった。建武・康永年間の足利尊氏よりの寄進に始まる。平安・鎌倉時代の荘園が多い東大寺領の中では室町期に成立する点でやや珍しい。同様のものとしては周防国大前村・遠江国蒲御厨が他にある。
 本荘は学侶方に属しており、その所出は東大寺八幡宮神供、華厳・三論談義用途などに充てられた(一七二七号)。本冊には収録した史料は次の通りである。寄進直後康永元~三年の経営帳簿類(一七一三・一七三八・一七二八号)。応永末~永享初年にかけての預所一族をめぐる問題(一七一八号他)。さらにこれには興福寺も絡んでくる(一七一四号他)。その後守護代遊佐氏の関係者が代官となった、永享(一七二六号他)・康正・長禄頃(一七二五号他)の文書。文明一三年越中の一向一揆に高瀬荘荘民が参加したことを記す一七二三号などである。(参考)『富山県史』通史編Ⅱ(一九八四年)
〔第一部一九 大和国小東荘〕
 現在の奈良県北葛城郡河合町付近にあった。一一世紀初頭に香菜免として見え、さらに一一世紀中頃より大仏供白米免田が設定され、やがて院政期には領域のある荘園として成立する。本冊には含まれないが、平安時代の一一世紀後半の大田犬丸負田結解状は特に有名である。本冊に含まれるものとしては次のものがある。
 院政期の下司山村一族の関連文書(一七七五・一七五三号他)。院政期の国衙による検注の関連史料として、知行国主関白忠通のもとでの天養元年の検注(一七六三・一七六九号他)、知行国主平清盛による保元・平治の検注(一七五四・一七六四号他)。鎌倉後期は近隣の河井村住人一王行康の悪党行為に東大寺は苦慮する。その関連史料として、嘉元(一七四六号他)・徳治(一七七六号)・延慶・応長(一七四七号)などがある。(参考)泉谷康夫「鎌倉時代の小東庄」(『奈良文化論叢』奈良地理学会編、一九六七年)、佐藤泰弘「東大寺領大和国小東荘」(『日本中世の黎明』京都大学学術出版会、二〇〇一年)
〔第一部第二〇 摂津国猪名・長洲・杭瀬荘〕
 現在の尼崎市東南部域にあった。長洲・杭瀬は本来猪名荘から分出したものである。その猪名荘は、天平勝宝八歳孝謙天皇施入に始まる。学生供・倶舎三十講用途を負担した。長洲荘は、猪名荘の海岸長洲浜が一〇世紀半ばに独立したものである。院政期・鎌倉前期には長洲浜のほか猪名新荘とも称されている。院政期以来の賀茂社長洲御厨との相論が有名である。本冊には、一七八九・八一号の嘉暦二年の相論が見える。またほぼ同時期の、延慶三・応長元年そして嘉暦三~元徳三年の「悪党」教念・教性(父子か?)関連文書を収める(一七九〇号他)。東大寺は朝廷に対して、教念の速やかな処断と興福寺の口入停止を要求している。
 長洲荘の経営は、間別年貢(在家役徴収)を学侶方が、野地・前田を法華堂方が知行するという別になっていた。本冊には前者に関わるものとして、間別年貢の使用原則を定めた一七八四号、結解状である一七八五号・一七九六号がある。これらは学侶方の伝来史料と位置づけられる。建武年間頃は、学侶方と法華方それぞれに預所がいたが、観応年間から東大寺学侶の家、乾家が兼帯担当するようになったらしい(一七九二・一七九三号)。
 杭瀬荘は、猪名荘の東側猪名川の中洲が荘園化されたもの。東大寺は「猪名東荘」と認識する(一七八二号)。これに対して、院政期以来藤原経実の子孫が同地を領家として伝領した。同家は、東大寺領との主張を認めず、朝廷において相論に及んでいる。この相論は南北朝期に領家を継承した三条家と東大寺との相論として引き継がれる(一七九八・一七八八号)。(参考)『尼崎市史』第一巻(一九六六年)、『南都寺院文書の世界』(勝山清次編、思文閣出版、二〇〇七年)
〔第一部二一 摂津国水成瀬荘〕
 現在の大阪府三島郡島本町、淀川中流域にあった。天平勝宝年間聖武天皇の勅施入と考えられる。南北朝期には、高瀬荘と同じく東大寺八幡宮、華厳・三論談義用途を賄ったらしい。正応年間には東南院が領家であった。注目されるのは一八〇〇号である。建治三年段階の東南院主でもあった東大寺別当聖兼が、絵図・検田帳を(おそらくは印蔵より)借りだしている。この時点で東南院が領家となった可能性があろう。このほか、一一世紀半ばの文書複数点を本冊では収めた。(参考)富澤清人「東大寺領水無瀬荘と荘民」(『中世荘園と検注』吉川弘文館、一九九六年)
〔第一部二二 山城国賀茂荘〕
 現在の京都府相楽郡加茂町にあった。惣寺知行の官省符荘、東南院知行の別符があった。官省符荘は一一世紀前半には存在が認められる。また別符成立の経緯は一八一〇号に見える。この一八一〇号(案文)を除くと、本冊に収めたものはすべて官省符荘関連である。近隣荘園である山田牧との院政期の相論(一八二〇・一八一一号)、あるいは鎌倉後期の悪党相論文書(一八一二・一八一七号他)がある。(参考)『加茂町史』第一巻(一九八八年)
〔第一部二三 大和国清澄荘〕
 現在の大和郡山市にあった。本荘の北側には東大寺領薬園荘があり、関連史料はすでに『大日本古文書東大寺文書之十八』〔第一部第一〇 薬園荘〕に収めている。清澄荘は、天平勝宝八歳の勅施入との寺伝があるが、延暦頃かとする説もある。興福寺造営役の免除を求める文書があり、鎌倉前期のものは一八二五・一八二四号(?)、鎌倉後期のものは一八二九号がある。このほか一八二六号は、建武年間に元興寺領で乱暴行為を働いた清澄荘荘民の処分を下した預所下文である。(参考)泉谷康夫「東大寺の寺領─清澄庄と窪庄─」(『新修国分寺の研究』第一巻、吉川弘文館、一九八六年)
〔第一部二四 雑荘〕
 東大寺領荘園史料の特徴は、荘園ごとの史料残存数の偏りにある。たとえば第一部一黒田荘は三五九点に上るが、わずか二・三点しか残らない荘園もある。本架はこうした断片的な文書しか残らない荘園を便宜的に寄せ集めたものである。その中には次に見る高殿荘のように別の架に関連史料が散在しているものもある。こうしたもののうち、無年号文書については、年次比定の根拠として散在する関連文書を按文に提示した。
 以下では荘務の別によって、便宜的に整理をして紹介をする。
《惣寺が荘務であったもの─大和国高殿・同長屋・同福田・丹波国後川・紀伊国木本・越後国豊田の各荘》
 高殿荘は、奈良県橿原市高殿町付近にあった荘園。一一世紀前半に大和守源頼親が、燈油料所として寄進したのに始まる。ただし東大寺の権利は免田よりの燈油料徴収に限定されたと考えられる。鎌倉時代の本家は後高倉院系統の女院ついで持明院統となる。領家は村上源氏ついで西園寺家であった。また興福寺西金堂が強い影響を及ぼしており、鎌倉末期には領家職自体が興福寺東北院に移っている。一方、東大寺への燈油料は東大寺油目代の管轄であった。本冊には、一二世紀後半の燈油料負担に関わるもの(一八三七・一八三二・一八三八号)・文永年間の氷馬役およびその関連史料としての寿永年間の同役関連史料(一八三六号)・元亨年間の領家興福寺東北院との相論文書(一八三一・一八三五号)がある。
 長屋荘は、現在の天理市にあった。一〇世紀半ばにその存在が確かめられる。一八三九号には長屋王旧領を施入されたものとする説が見える。荘内には、大仏田仏聖白米・大仏殿長日悔過供・五師給料などを負担する免田が含まれる。これ以外にも多数の公事があり、鎌倉後期頃と推測される一八四四号によってその一端が窺われる。
 福田荘は、現在の斑鳩町にあった。一一世紀半ばに東大寺上座慶寿が華厳会料田を寄進したことに始まる。本冊には、文永年間の損亡免除をめぐる百姓と下司との相論文書(一八六三号)を収めた。
 後川荘は、現在の兵庫県多紀郡篠山町にあった。大般若会領料田である。一〇世紀末には東大寺領として見える。一八七六号は天喜年間の国衙課役免除に関するもの。惣寺の所管であった本荘は、応安七年に大勧進に付けられる(一八七七号)。その後は、大勧進被管の油蔵が荘務にあたる。関連史料は一八七八・一八八〇号他である。
 木本荘は、現在の和歌山市にあった。東大寺末寺崇敬寺(安倍寺)の荘園として、一一世紀半ばより開発が進んだ。一一世紀末には東大寺八幡宮八講料所となっている。崇敬寺と在地領主源有政との争いが長治年間(一八四七号他)・天永年間(一八四八号他)で繰り広げられた。鎌倉中期以降は、東大寺院家のひとつ西室が伝領した。同院は、東南院・尊勝院と並ぶ有力院家である。本冊では一八五〇号に西室が見える。(参考)『和歌山県史』原始・古代(一九九四年)
 豊田荘は、新潟県北蒲原郡笹神村北部から豊浦町・新発田市にあった。鳥羽院政期に東大寺別当定海によって立荘された。一八八七号はその後国衙によって荘域が削減されたことを示すもの。なお当初は惣寺所管であったが、天福元年に惣寺から東南院に寄せられている。後述する宮野荘の返還と関連するものかもしれない。
《東南院・西室が荘務であったもの─備前国野田・同国南北条他・周防国宮野・同国椹野・大和国豊田の各荘》
 以下の五つの荘園のうち、大和豊田荘を除く、野田・南北条他・宮野・椹野の各荘は、建久年間に重源が再興もしくは新たに獲得し、その後東南院へ領家職が譲られたものである。
 野田荘は、岡山市にあった。燈油料所である。弘安年間以前に国衙によって収公された。永仁二年より東大寺はその復興を朝廷に願い出、翌年、後宇多院によって返還が認められた。嘉元年間の年貢結解状(一八七二号)によれば、惣寺五分三、「院家」五分二で年貢を折半している。惣寺と「院家」で荘園経営を分割したことがわかる。また本冊収録外の史料から惣寺分年貢はさらに寺内燈油聖に大仏殿燈油料として渡されていたこともわかる。なお「院家」については一八七〇号から西室と考えられる。一八七四号はその年貢銭運上に為替が用いられたことを示す。五条室町の法蓮なる人物(あるいは土倉?)が、東大寺に年貢の銭七〇貫文を納めている。本荘は、嘉元から応長にかけての荘官相論が知られる。当初その訴訟を扱ったのは、おそらく西室であろう。一八七〇号は西室が荘務を失ったことを示しており、荘官相論を含む荘務は惣寺が把握することになったものか。複数の訴訟文書のうち一八六九号の応長元年十一月日野田荘荘官保広申状のみが正文として残っていることはその反映だろうか。
 豊原荘内南北条・神崎・長沼久富・三楽名は、岡山県邑久郡牛窓町・邑久町にあった。野田荘と同じく、弘安年間以前の国衙による収公、永仁三年返還という経緯をたどる。返還後も惣寺の管領下にあった。年貢に関わる帳簿が一九一〇号として残る。しかし延慶三年・文保二年の二度にわたり荘内の久富・三楽名をめぐる問題が発生した。延慶三年一二月に両名と備前国内草壁郷との相博が伏見上皇院宣(東南院文書)によって命じられた。一八九三号他によれば東大寺はこれを抗議。おそらく折からの女院広義門院御産祈祷に支障が出るのを避けたかったのであろう。院宣は速やかに撤回されている。次の文保二年は、第二次後宇多院政の開始後のことであって、豊原荘に久富・三楽名が収公されてしまう。おそらくこれは、新たに領家となった後宇多院年預院司中御門経宣の意向によるものだろう。一八九六号他によれば、東大寺は仁和寺にも協力を求めて、これを強く抗議し、前回同様撤回を果たしている。(参考)『邑久町史』通史編(二〇〇九年)
 宮野荘は、山口市にあった。寛喜三年から天福元年にかけて、領家の交替がめまぐるしい。東南院の辞退をうけて惣寺は「輔律師」を領家に補任(一八五五号)。その後神護寺僧覚厳(一八五九号他)・顕弘(一八六二号)と一年足らずでの交替が続き、ついに惣寺から東南院へ荘務が戻される(一八五七号)。あるいは寛喜以降の飢饉の影響を見るべきかもしれない。なお本荘も先の丹波後川荘と同じく室町中期には油蔵所管となっている(一八五八号)。(参考)『山口県史』通史編中世(二〇一二年)
 椹野荘は、現在の吉敷郡小郡町から山口市に及ぶ地域にあった。以上の野田・南北条・宮野の各荘と違い、天平勝宝六歳からの寺領を重源が再興したものである。早い時期に東南院から西室に荘務が移っており、承久の乱後、西室と地頭との相論が起きている(一八九〇号他)。また一八八八号は、南北朝内乱と洪水に苦しむ百姓の申状である。なお一八八九号について、天文頃と推測したが、『大日本古文書 小早川家文書』一七七号の永禄五年(一五六二)九月二十八日正親町天皇綸旨によって、この頃とみるのが適切であろう。(参考)『山口県史』通史編中世(二〇一二年)
 大和豊田荘は、橿原市にあった。その成立は不明である。あるいは西室固有の所領であたためかもしれない。本冊には文応年間の「興行」に関わる史料(一八八二号他)、あるいは徳治二年の徳政による本荘返還を朝廷に要求した一八八三号などがある。
 ところで東大寺文書中の倶舎三十講関連文書には「豊田荘」の文言が多数見える。前出の越後豊田荘とこの大和豊田荘いずれか判然としない。一八八三号には、本荘が「惣寺の課役」も勤めたとあり、さらに世親講衆による倶舎三十講の開始時点において、西室は中心的な役割を担っているから、同院領の大和豊田荘の方がやや分があるように考えられる。
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 この他、複数の荘園に横断的に関わるものとして、永仁七年に東大寺執行慶舜などが関東に下向した際の用途関連の文書がある。東大寺文書全体としては、永仁七年三月二八日から正安元年五月五日までの文書が残っている。それらによると、下向使者が立て替えた分を諸荘園の所出で補填している。具体的には、黒田・水成瀬・野田・大井・豊田・猪名・長洲・玉井・後川・薬園・清澄・雑役・長屋・内保の各荘が見える。特に中心となったのは倶舎三十講用途である。本冊では、一八四〇・一八一三・一八一四の各号がある。いずれも、用途未進となっている長屋・賀茂・玉井荘の処置を別当に求めた年預五師実専の書状土代である。鎌倉後期の東大寺は、幕府・朝廷への訴訟に明け暮れているが、それを支えた経済的な仕組みを示す興味深い史料である。
 なお『大日本古文書東大寺文書』第一八冊一〇三五号・同第二〇冊一二三六号は、慶舜が茜部荘訴訟雑掌として見えることから、この関東下向は茜部荘訴訟に関わるものと解釈した。ただし茜部荘の訴訟は六波羅において扱われているから、別の可能性もある。今後の課題である。
(例言四頁、目次二二頁、本文三〇六頁、花押一覧五葉、本体価格八、四〇〇円)
担当者 遠藤基郞

『東京大学史料編纂所報』第49号 p.44-48