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大日本古記録 中右記 七

本冊には嘉承二年(一一〇七)・天仁元年(一一〇八)春夏を収めた。本冊の底本には、古写本では陽明文庫本・宮内庁書陵部所蔵九条家旧蔵本、新写本では東山御文庫本を用いたほか、本来は東山御文庫本嘉承二年十一月二十九日条に貼付されていたと思われ、現在「直廬叙位指図」の書名で東山御文庫に別置される図版一点を収めた。校合には、公益財団法人陽明文庫所蔵新写本および嘉承二年秋冬抄出本(古写本)、宮内庁書陵部所蔵九条家旧蔵新写本のほか、以下の『中右記部類』を用いた。すなわち、宮内庁書陵部所蔵十六・十七・十八(九条家旧蔵、古写本)、国立歴史民俗博物館所蔵十九(同)、天理大学附属天理図書館所蔵二十(同)、東山御文庫収蔵『政部類記』(古写本)、宮内庁書陵部所蔵『法事部類記』(同)である。
 このうち陽明文庫所蔵嘉承二年秋冬抄出本は、七月十九日から十二月十三日までの、堀河天皇崩御以降の鳥羽天皇践祚・即位などに関する記事を抄出している。現在は他の古写本と一括して所蔵されているが、書写の時期は下り、他とは性格が異なると思われる。その他の本については前冊までに紹介している。
 本冊における記主藤原宗忠は四六─七歳、第六冊の末尾近く、嘉承元年十二月二十七日に参議右大弁から権中納言に昇り、本冊の開始間もなく、嘉承二年正月二十六日に従二位に叙された。
 本冊は、『中右記』全体を通じて大きな出来事の一つであり、宗忠自身にとっては、生涯最大の事件であったかもしれない、堀河天皇の急逝と鳥羽天皇(宗仁親王)の践祚と即位を収めている。時間の経過に従って述べていこう。
 宗忠は前年の暮に権中納言に昇任して、本格的に行事の上卿を勤めることのできる地位となり、引き続いて嘉承二年正月従二位に叙された。そして権中納言として正式に活動を開始するための儀式である太政官・外記庁での着座を二月十日に行い、この前後からさまざまな行事・儀式を上卿として執り行い、『中右記』にはこれまでと異なった上卿の立場での詳しい記事が記されている。また三月五日、天皇が父白河法皇のいる鳥羽殿に朝覲行幸を行った。六日の天皇の御前での和歌御会で宗忠は序の作者として献上し、その晴れがましさを昇進同様天皇の恩情によると感激している。このように嘉承二年の前半は、天皇の信頼を受け意欲的に活動する宗忠の姿を見ることができる。
 しかし六月二十日、天皇の病気の知らせが伝えられた。その後しばらくは病状にさして問題はないようであったが、七月五日ころから重症となり、朝廷も法皇も各種の御祈・御読経・御卜などに奔走する。宗忠は十日に御前に参上して天皇の姿を目にし、そのやつれように衝撃を受けている。さらに病状は悪化し、七月十九日ついに堀河天皇は崩御した。在位二十一年、二十九歳であった。宗忠は特に頼み込んで御簾の間から死の直後の天皇を拝しており、眠るが如くであったと記している。
 一方で、位を継ぐ東宮宗仁親王はわずか五歳、当然摂政を置かねばならない。しかし法皇は天皇の死にひどく動揺し、関白藤原忠実もまた法皇を憚り、膠着状態が続いたが、法皇の側近源俊明が院宣を持参し摂政宣下が行われた。引き続き神璽宝剣が内裏であった堀河殿から東宮御所大炊殿に運ばれ、新帝鳥羽天皇が誕生した。宗忠は内大臣源雅実など他の近臣たちとともに、崩御の夜から四十九日の間堀河殿に留まることとなる。
 これらの記事は感情をまじえながらも簡潔な文章で、緊迫した状況をよく伝えている。そして『中右記』の他の人々の死の場合と同様に、天皇の生涯が概括して記された。もちろんここでも哀惜の念は十分に込められていたが、翌二十日条で、宗忠は改めて天皇との個人的な関係を振り返り、二十年間にわたって計りしれない恩恵を受け、身近に仕える中で不愉快になるような仰せは一度もなかったと述懐し、「わが君はいずこに去られたのか」と悲嘆の思いを述べている。
 二十四日には、天皇の院号が堀河院と定められ、同日葬送が行われた。当然宗忠も葬列に加わり、香隆寺近辺で火葬され翌朝遺骨が香隆寺に安置されるまで立ち会った。この後の七・八月の記事は、宗忠が堀河殿に留まっていることもあり、堀河天皇の各七日忌・月忌の法事や公的私的に催される菩提供養などの仏事が中心である。また宗忠や他の人々が見た天皇の夢の記事が散見され、夢については以後も記されている。八月二十五日、尊勝寺において五七日の御斎会が催されて天下の穢が終了し、引き続いて政始などが行われ、朝廷の活動が徐々に再開されてゆく。
 九月一日、香隆寺で天皇の旧臣たちが書写した一品経の供養が行われ、七日には、堀河殿で七七日の法会が催行されて、公的な法事が一段落した。ただし当然ながら月忌などの仏事は継続し、廿一日堀河殿で中宮篤子内親王が出家している。また宗忠は天皇のため、法華経などの経典の講説を毎日一巻百箇日にわたり行う個人的な供養を、十七日から開始した。その翌朝在世時と変わらない天皇の夢を見て、供養の功徳であると感激している。百日供養が結願した後も、彼は折に触れて各種の供養や香隆寺への参詣を行っている。
 九月二十九日、宗忠などの堀河天皇の喪に服していた旧臣たちに、除服して出仕するようにとの宣旨が下された。宗忠は十月三日に長男宗能とともに除服し、十五日初めて出仕している。このころから年内に予定される鳥羽天皇の即位と翌年の大嘗会に向けての検討と準備が本格的に進められてゆく。
 まず検討すべき問題は、天皇が五歳の幼帝であり、即位式に際して同輿して補助する人物が不可欠であるのに、生母の女御藤原苡子が天皇を出産した直後に病死していることであった。そこで法皇の皇女で堀河天皇の姉である三十歳の前斎院令子内親王を母后に准じて皇后とするという案が、八月頃から取りざたされており、十月になって実施に向かって進み始めた。
 一方即位の日程についても検討が重ねられた。この年は朔旦冬至に日食が起こるという先例のない事態が予告されており、令子の立后の時期をいつにするかという問題も含めて調整が必要となっていた。最終的に十月二十六日に令子が入内し、閏十月を経て朔旦冬至を過ごした十一月三日に即位定、十二月一日即位、同日立后という日程で進められていった。この間宗忠は、天皇が即位後に当時の内裏大炊殿から移る西六条殿の修理の上卿を命じられ、準備にあたっている。
 即位当日、天皇は大炊殿から大内裏まで皇后となる令子内親王と同輿して行幸し、ともに大極殿の高御座に出御して百官の礼を受けた。九日には修理された西六条殿への行幸があり、宗忠は当日の上卿も務めている。十三日には、天皇の亡母苡子に皇太后が、その父故大納言藤原実季に太政大臣正一位が贈られた。
 年が明けた天仁元年正月は、諒闇によって各種の節会も休止され、世間は慎みの中にあった。その十三日、源雅実が宗忠に堀河天皇に関わるあることを語った。それは堀河院の厨子の中に天皇が元服した時の遺髪を見付け、取扱いを法皇や識者に相談したが、はっきりした意見を得られなかったので、高野山に奉納することを考えているという内容である。宗忠は彼の考えに賛成し、二人で具体的な方法を語り合った。『中右記』にその後の記事はないが、二月十五日に雅実が遺髪を葬ったことが、高野山側の記録に残っている。
 一方で、正月には平正盛が前年に出雲で騒乱を起こしていた流人源義親を討ち、二十九日にその首と捕虜を随身して盛大な行列を作り入京した。京の人々は見物に大騒ぎとなり、宗忠自身も見物しているが、諒闇のさなかに好ましいことではないが世間の風潮で仕方がない、との感想を記している。
 三月下旬から四月にかけて、京の町を騒然とさせる大騒動が起きた。発端は長治元年(一一〇四)に堀河天皇が始めた尊勝寺潅頂の潅頂阿闍梨の順序である。開始以来東寺、延暦寺、園城寺と寺の順で阿闍梨を担当しており、今年は園城寺の番であったところ、法皇が寺の順と明確に決まっているわけではなく、事情を勘案して東寺の担当とせよと命じたのである。園城寺は当然、対立することも多い延暦寺も、「天台宗として」抗議する事態となった。比叡山上に数千人の衆徒が集結し、彼らの持つ灯火が京からも見え、下山して入京するとの知らせが飛び交い、朝廷は検非違使と源氏・平氏の武士を派遣して防御させ、何度か小競り合いが起きた。
 二十四日に潅頂が行われた後も状況は変わらないまま日が過ぎ、四月二日に今後は寺の順にしてほしいという衆徒の申請を朝廷が受け入れて騒動は決着した。この間東山近辺の田畑は兵士に踏みにじられ、宗忠は同情の念とともに、結局寺の順にするなら早く決めればよかったのに、と記している。
 堀河天皇の死から約一年が過ぎた六月に、尊勝寺において朝廷による一周忌御斎会が催されることになった。本来の忌月は七月だが、七月には適切な日がなく、前月開催の例もあったためである。五月二十一日宗忠は行事上卿を仰せられ、日時や行事などの定を行って、準備を開始した。舗設や次第などは、基本的に前年八月二十五日の五七日御斎会と同様とされた。十八日当日、彼は朝から舗設の点検にあたり、無事御斎会は終了した。
 ここに紹介した堀河天皇の急逝による鳥羽天皇への皇位の移動は、白河院政が本格化する契機となった。ただし本冊の範囲では、諒闇中で朝廷の活動が控えられており、法皇の恣意的な振る舞いもまだそれほど見られないようであるが、先述の尊勝寺潅頂阿闍梨の件のように、法皇の思い付きで人々が振りまわされることもある。宗忠は七月十九日条で堀河天皇の英邁さを讃えながら、それにもかかわらず世が乱れたのは、天皇一人の責任ではなく、法皇が存在し世間のことが双方に分かれたからだと書いている。
 宗忠自身は堀河天皇の在世中側近として篤い信頼を受けており、その点では法皇に認められていたようで、天皇の病状が重くなった七月十二日、法皇に命じられて後三條天皇陵への山陵使を勤めた。天皇の死後そうした記事は見えなくなる。
 この他の内容としては、前にも述べたが、実務能力の高い中納言として、行事・儀式の上卿を勤めた詳しい記事が多い。そして従兄弟であり関白から摂政となる藤原忠実の補佐に尽力するにことに変わりはない。また忠実の嫡男忠通が四月に元服した際には、宗忠が後見役を務めており、その立場は以後も続くようである。
(例言二頁、目次一頁、本文二九三頁、口絵二葉、本体価格一一、〇〇〇円、岩波書店発行)
担当者 吉田早苗

『東京大学史料編纂所報』第49号 p.48-50