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日本関係海外史料 イエズス会日本書翰集 訳文編之三

本冊には、一五五六年(弘治元年)一月七日から一五五九年(永禄二年)十一月までのイエズス会士による日本布教の記録を収めた。
 既刊二巻では、エヴォラ版『日本書翰集』として知られる、一五九八年にポルトガルのエヴォラで編集・印刷された活字本が底本とされ、手稿写本を以って校訂がおこなわれてきた。しかしながらエヴォラ版『日本書翰集』は、編集の過程でイエズス会内部の検閲によって不適切・不必要とされた情報は削除されるため、日本史研究において重要な箇所も割愛されていることがある。そのため本巻では、原文編において自筆書簡もしくはオリジナルにより近い手稿写本を底本として採用し、翻刻作業をおこなった。この原則は今後も適用される予定である。エヴォラ版『日本書翰集』と内容が著しく異なる場合は、参考としてそのテキストも掲載した。これらの作業により、本巻譯文編では、エヴォラ版『日本書翰集』の既刊翻訳書である『イエズス会士日本通信』(村上直次郎訳・柳谷武夫編)や『十六・七世紀イエズス会日本報告集』(松田毅一監訳)にはない情報も収載することが可能となった。
 また、前二巻からは一四年ぶりの譯文編出版となるため、翻訳にあたっての規則等を厳しく見直した。とくに、前巻までは「神」と訳してきたキリスト教の全能神Deusに相当する語は、本冊において頻繁に登場する神道の神々と区別するために、「デウス」を訳語として採用した。
 詳しい内容については、原文編之三出版年の本所所報四六号に記載があるが、特筆すべき内容について若干触れておきたい。
 一五五〇年代は、ザビエルが後事を託したスペイン人のコスメ・デ・トルレスを中心に、九州・山口地域を中心に布教が進められた。また一五五六年、イエズス会インド管区の総括を担う予定であったメルシオール・バレトが日本の布教状況視察のために来日した。本冊に含まれるバレトや同行者等の書翰からは、マラッカ以東の海域におけるポルトガル人商人たちの動向をうかがうことができる。またバレトは日本行きの船を待って広州湾の浪白澳で越冬中、広州市街へも赴き、中国の地方行政等について若干の言及をおこなっている。特筆すべきは、一五五六年一月に発生した陝西省大地震についての記録である。この地震は人類史上最大級の地震とされ、八三万人が死亡したと推定されている。バレトは浪白澳滞在中、一五四九年の明朝官軍による双嶼討伐で捕らわれていたポルトガル人虜囚の解放交渉のため、広州へ二度赴いている。一部の虜囚は一人につき一五〇〇クルザードで身請けされ、解放された。
 バレト一行が大友領豊後を目指して別の港へ誤って入港した際、豊後は戦乱の最中で、大友義鎮も逃走中であると聞かされた。しかしながら豊後までたどり着いてみると、豊後城下は穏やかで、先んじて日本で宣教活動に従事中のコスメ・デ・トルレスやバルタザール・ガーゴのようなイエズス会士と出会うことができた。一五五六年一〇月には、豊後城下に二〇〇人を収容できる教会が建設された(一〇六号書翰)。トルレスはザビエルから主に山口での布教活動を任されており、その頃山口では千人以上の人々がキリシタンに改宗していた。しかし山口では大内義隆滅亡後、政権をめぐって混乱が続き、決して安定した布教環境にはなかったと報告される。
 平戸布教はガーゴによって進められ、その後バレト一行のメンバーであったヴィレラが着任した。一五五六年頃の平戸のキリシタン人口は、四〇〇名程度であったと報告される(一一二号書翰)。一五五七年一〇月にヴィレラが平戸で記した書翰(一〇六号書翰)は、本巻収載の書翰中、最長のものである。そこではヴィレラが日本到着後に目にした豊後や山口の政治的状況、平戸の宗教状況などが語られる。豊後領主大友義鎮は宣教師に対して好意的であるものの、領内や近隣の反抗勢力との戦いに疲弊し、改宗どころではないと観察される。平戸領主松浦隆信は宣教師に対し、「表面上は親切である」とも観察している。
 平戸布教中の一五五七年春、ヴィレラのもとへ山口より知らせが届き、毛利元就が大内義長を自害に追い込み、山口城下を焼打ちにし、それにより教会も焼失したことが報告された(一〇六号書翰)。大内義長の自害は和暦四月三日のことであったから、この報告は非常に迅速にもたらされたといえる。当時山口にはイエズス会の施設が二か所あり、規模の大きい方は焼失したものの、同地のキリシタンによってまもなく再建されたという。一五五七年頃、日本布教の中心地は豊後であると記され、大友義鎮は同年九月に近隣地域の反乱者を制圧したため非常に満足しており、宣教師たちが豊後で一堂に会するよう、招待している。豊後布教ではアルメイダが築いた病院での治療活動が人々の関心を呼び、多くの患者がキリシタンに改宗する様子が報告されている(一二五号書翰)。一五五九年時点で、同病院では十二人の日本人修道士が働いていた。本巻には一五五八年三月一六日付、ポルトガルのセバスチャン王から大友義鎮へ宛てた親書も収載されている(一一四号書翰)。
 平戸ではこの頃、改宗者が着実に増加し、平戸のみならず近隣の生月島や度島でもキリシタンが誕生していた。とくに生月島領主籠手田一族の改宗は、その領民およそ一五〇〇人をともなうもので、信者たちは寺院への喜捨をやめ、仏像や神像を壊して回るなどしたため、急激に在来宗教勢力との対立が悪化した。ヴィレラは平戸では安満岳を中心に山伏信仰が盛んであり、同時に牛や兎、鹿などを神の使いとして奉じる民間信仰も根強くあることを観察している。一五五九年、仏僧からの讒言にもとづいて領主松浦氏が宣教師追放を決定し、ヴィレラはやむなく博多へ移動した(一二七号書翰)。博多ではガーゴによる布教が進められていたが、筑紫惟門の大友氏に対する反乱により、博多は戦火に巻き込まれた。その最中、修道士のギリェルメ・ペレイラが反大友軍に拘束される事件が起き、結果的に二〇クルザードの身代金で解放された。本巻では全般にわたり、山口と豊後周辺の軍事動向が詳しく語られる。
 一五五九年日本布教長トルレスは京都での布教活動を本格化するよう計画し、平戸から博多へ避難してきていたヴィレラを、日本人修道士のロウレンソとともに都へ派遣することを決定した。ヴィレラとロウレンソは九月二日に、都へ向かって博多を出発している。
 一五五七年の日付を持つ作者不詳の(先行研究では著者をコスメ・デ・トルレスもしくはバルタザール・ガーゴと推定)日本の宗教についてまとめた記録(一一一号書翰)では、日本神道の概略、浄土教、禅宗の詳細など、日本人が一般に奉ずる宗教が事細かに観察され、十六世紀の宗教状況を考察する上で、貴重な情報を提供している。とくに浄土教は、時宗、浄土宗、浄土真宗のそれぞれの特徴が詳述され、妻帯の有無、僧衣の色、尼僧たちの様子などが描かれる。また禅問答が行われる様子を具体的な事例に即して紹介している。
 なお本冊編纂にあたり、非常勤職員の大橋明子氏、松本和也氏、ラテン語翻訳に東洋哲学研究所の柳沼正広氏のご助力を賜った。
(例言六頁、目次五頁、解説三頁、本文三六九頁、索引二〇頁、正誤表一頁、本体価格一三、一〇〇円)
担当者 岡美穂子・岡本 真

『東京大学史料編纂所報』第49号 p.50-52