編纂・研究・公開

所報 - 刊行物紹介

大日本古記録 斎藤月岑日記 九

本冊には日記原本第三一冊から第三四冊まで、慶応三年(一八六七)から明治三年(一八七〇)にわたる四年分を収めた。これは月岑が六三歳から六六歳(満年齢)の時期にあたる。刻々と変化する政治社会情勢のなかで江戸の町も緊迫の度を増し、前将軍となって徳川慶喜が江戸に帰還し水戸に退去した後の混乱を経て市中行政も大きく変化した。日記の分量が最多となった本冊については、まず政治・社会関係の主要な記事および青物役所関係の記事を年次にそって取り上げ、次いで家族関係、他の町名主、文化的活動等を紹介していく。
 慶応三年の正月は、前年一二月五日に将軍宣下を受けた(記事は三月一九日条)徳川慶喜が上方に滞在していたため年頭の御城御礼はなく、孝明天皇崩御と鳴物停止が触れ出されて「寂寞」としていた(正月五日条)。四月頃には所々で押込があり、四、五月には「大坂人気騒敷由」(索引)と伝えられるなか、六月には上野寛永寺の黒門等が閉鎖された。九月に旗本が半知上納を命じられ歩卒を解雇すると、無銭飲食や喧嘩等の問題を起こす者も出て、一一月一四日には吉原に六〇〇人程の歩兵が押し寄せ乱暴を働く事件が起きた。町奉行所は強盗の横行など不穏な状況に対処すべく、市中に屯所を取り建てて歩兵のほか町役人も順番に詰めるよう申し渡したため、月岑ら同役が寄合で相談し、須田町や白壁町に設けた屯所に息子の喜之助が泊まっている。そうしたなかで一二月二三日に二の丸が炎上、二五日には三田の薩摩藩邸が庄内藩等の討手との合戦で深夜まで燃えて「諸人安キ心なし」という状況となった。また前年から米価高騰が続き、二月には町会所では御救小屋に入れなかった者に対して二度目の米が下されるなどの対策がとられ、月岑も米を買うため奉公人を水戸藩邸に何度か行かせているが、前年一〇月に外国米の買入が許可され「南京米」が多く入津するようになったという(索引)。
 慶応四年は「京都合戦始り大騒動之由」(正月二日条)と戊辰戦争の開始が伝えられ、まもなく前年一〇月一五日に大政奉還が勅許され一二月九日に王政復古が宣言されて前将軍となった徳川慶喜が蒸気船で江戸に帰還した(正月一二日条)。正月一七日から町兵として町火消の調練が始まり喜之助もこれに参加したが、二月二日に停止されている。歩兵が暴れ、炮声の聞こえる夜が続くなか、慶喜が二月一二日に寛永寺に入ると、諸家方が国許に帰る動きを見せ始め、市中でも諸道具を持ち出す者が多くなった。勅使が江戸に到着し、慶喜が水戸に出立した後、四月一一日に江戸城は尾張藩の預りとされ、官軍が各御門を固める事態となり、翌日月岑の家族は柳島へ疎開した(閏四月三日帰宅)。町奉行所からの達しを受け、三月中から官軍屯所入用の件が寄合で扱われていた一方で、輪王寺門主入道公現親王を擁する彰義隊から世話掛名主を通じて東叡山の外構えに竹矢来をしつらえる代金の要請があり、組合からの出金を含む三千両が閏四月二六日に奉納されている。閏四月二日に市川辺で官軍と旧幕府軍との間で戦争があり、江戸でも両者の衝突がみられるなか、五月一五日に官軍が谷中・上野へ向けて攻撃した。いわゆる上野戦争の兵火は激しく、月岑は家族を姉の婚家である東湊町の遠藤家に避難させ、自身も支配町を廻ってから合流して一泊した。一七日には町年寄から高札建替えの件で呼び出しがあり、官軍方の発行した「江城日志」を渡されている。この後、市中には官軍が日々巡行し、三奉行は廃止されて町奉行所の跡は市政裁判所となった。旗本・御家人は扶持を取り上げられ、下谷御徒町では武家方が商売を始めたほか、武家屋敷の売買や武家地に引越す町人がみられた。また、徳川宗家を相続した田安亀之助は八月九日、駿府へと出立した。九月になると町年寄三軒は役儀御免となり、東京府のもとで庶務方に任命され(九月一五日条)、一〇月初めには月岑の出る先も裁判所でなく東京府へと変化している。京都から品川に明治天皇が到着すると、月岑は息子松之助を連れて拝みに行こうとしたがあまりの群集で実現せず(一〇月一三日条)、新嘗祭の際に遥拝している(一一月一八日条)。また新政府が進めた神仏分離の方針のもとで、浅草寺でも三社権現を分離するためか鳥居に足代が掛けられたり(一二月一六日条)、海苔屋等で菊の紋の付いた包紙が取り上げられ、箱・板木から紋が削去させられるなど、生活のなかでの変化を記した記事もある。
 月岑が取締役を務めていた青物役所関係では、納人から価格や損毛等をめぐる申し出があり、特に難渋願を再三出していた青物納人のうち四人が納方を休み、多町・連雀町で引き受けることになった(慶応三年八月二四日条)。また、例年半夏生御用を担っていた市川村が兵火後で御用を務められなくなる(明治元年閏四月二八日条)など、不安定な社会情勢の影響はここにも及んだ。上野戦争後は諸市場が払底、米や青物類のほか全てがいよいよ高騰したため、江戸城開城後は御用が減少したこともあり、値段や納方の仕法を上申するよう納人に申し渡され(六月三日条)、九月には青物役所が廃止された。青物役所跡については、明治二年七月一〇日・一七日に建物の落札と取り壊しの記事、同一七日と一八日に跡地については入札者が無く入札日延べを東京府へ申し立てた記事がある。
 明治二年の正月は、七日に東京府で名主一同の年頭礼があった。ただし斎藤家は正月三日に月岑妻おまちが没した直後であり、両人とも忌中を理由に出なかった(正月七日条)。
 三月には新政府の市中制度改革が本格化する。三月一〇日、東京府は町名主一同を呼び出し町名主廃止を申し渡した。町名主たちの心境について月岑は「同役一同心中安からず」と簡潔に記す(三月一〇日条)。元町名主の互選により新設の中年寄・添年寄候補者が選ばれ、三月一一日、月岑は添年寄に任じられ、勤役中苗字を許可された。改正前の町名主は約二二〇人であったが、その内年寄に任命されたのは九七人であった(牛米努「江戸町名主の明治」東京都江戸東京博物館調査報告書第二五集『江戸の町名主』東京都江戸東京博物館、二〇一二年三月)。旧一一番組には一〇人の町名主がいたが、中添年寄として活動したのは月岑と岡村庄之助、明田清八郎(明治三年四月一六日条に「アケタ」とふりがながある)の三名のみであった。
 三月一六日、市中を五〇区に分け番組と称することが定められた。三月二四日に月岑は、東京府の指示により自宅玄関の式台を取り払った。四月一五日には岡村庄之助と入れ替わりで中年寄となり(岡村が添年寄に)、月岑の肩書きは三三番組中年寄となった。中年寄・添年寄は、番組の町用取扱所(扱所)へ毎日出るとともに、五区を一組に編成し順番に一名が東京府に詰めた。三三番組の扱所は、多町二丁目の田上定五郎旧宅であった。年寄たちが東京府から早速命じられたのは五十区絵図(区別絵図)の作成と板行であった。月岑と岡村は刷り上がった絵図を東京府へ上げると共に他区同役へ送っている(六月三日条)。七月には沽券絵図調も命じられたが、こちらの完成は翌明治三年に持ち越した。
 明治二年三月二八日、明治天皇が再度東京へ下った。ただし、駒場や越中島の練兵御覧、武蔵大宮氷川社への行幸など、郊外への御幸が積極的に見られるようになるのは明治三年になってからである。また、明治二・三年には「御救」や「救育所」入り関係の記事が頻繁に現れる。明治三年五月に始まる神田川の浚渫工事にも貧窮人が多数罷り出ている。この時期、貧窮人の調査・上申・救育所への入所同行が町役人の主要な職務の一つになっていたとも言える。
 月岑と親しかった村田又夢(先代平右衛門)の処分は、このような変化の中で起きた事件であった。又夢は元浅草平右衛門町名主。明治元年家督を息子新九郎に譲り隠居剃髪して又夢と号したが、二年三月の改正で息子平右衛門(三八番組中年寄)とは別に四二番組世話掛中年寄となり、さらに全市中で二人置かれた年寄肝煎のうちの一人に任命されていた。三年三月一二日に肝煎御免となり、同五月二九日に役儀御免、さらに六月一三日には召捕・御吟味となった。又夢は天保一四年『日記』から月岑と同じ青物掛として名前が見え、以後二〇年以上にわたり相役であった。『日記』六月二五日条に「村田氏此程之一条、直ニ見舞ニ参兼候間、浜氏へ参り、此程之見舞・一同へ伝言之義、御家内へ預置候」と内々に言づてを依頼した様子が記される。月岑の町役人としての活動はまだ続き、明治三年一一月に鍋町で起こった英国人(大学南校教師ダラス・リング)襲撃事件への対応(明治三年一一月二三日条~三〇日条)のように緊急を要する事件もあったが、一方で職務に対する意欲が減退していたようでもあり、『日記』には次のような文章が見える。「扱所へ出る、用もなし」(明治三年九月七日条)、「酒のミ快し、稗史読む」(一〇月七日条)、「寂 空ろ 安逸 御恩沢知るべし、夕、中くミ酒呑」(一〇月二〇日条)、「会儀(中添年寄会議)御答之相談、無益之事なり」(一〇月二七日条)。
 新政府は明治二年になると寺社の祭礼を許可したが、山王社・神田社はともに神輿渡御ばかりで、練りや踊り台は無かった。また亀戸天満宮では五十日間の開帳を計画したところ、神道だから開帳は不可とされ、祭と称することになった(明治三年三月一五日条)。一方で政府が新設した九段坂の招魂社では、花火・相撲・神楽などを交えて賑々しく祭礼が催された。花火は月岑宅の座敷から正面に見ることができた(二年七月四日条)。また明治二年一二月一二日の火事で類焼した外神田では、翌三年正月一部が御用地として召し上げられ、そこに鎮火社が勧請された。麻布専心寺の住職が鍬を手に畑作(二年七月二八日条)、三崎法住寺の荒廃(三年二月一九日条)など、経済的に困窮する寺院の記事も散見する。
 家族関係では、息子喜之助が慶応三年二月(二一歳)、根岸の村上嘉六の娘おとせと結婚した。妻おまちは同年五月に不快の記事が見え、医師から咳の薬を処方されたが、八月に吐血した。また、東湊町名主の遠藤家に嫁いでいた月岑の姉が明治元年七月に六七歳で病死している。妻おまちは明治二年正月三日に五三歳で病死。四日の葬式には多数の参列者があった。ほかに息子喜之助の岳父村上嘉六が同年一一月二一日に、おまちの実母お瀧(今村老母)が明治三年一二月二〇日にそれぞれ死亡している。また元富山町名主飯塚市蔵が明治三年五月に、三河屋隠居が明治三年七月一〇日に没している。明治三年七月一五日の記事等からは、この人物が個人名としては利平太であり、水菓子問屋三河屋当主としては三河屋利介、御用商人御水菓子屋としては三河屋五郎兵衛を名乗ったことが分かる。他に、清元師匠佐登美太夫が同年一二月八日に没している。直前に八十歳を機に佐登寿と改名したばかりであった。これらは、慶応三年に縁続きとなった村上嘉六以外は、いずれも月岑と長年付き合いのあった人物であった。なお、明治二年六月一〇日条には、「大橋斧八郎死去之由」との記事がある。同人は今村老母の縁者で常陸水戸藩士。大橋氏は諸生党であったらしく(元治元年索引「七月始筑波山一揆退治御出役」・同六月二三日条「(大橋)金太郎ハ筑波山へ発足」)、藩内抗争による落命とも考えられる。明治三年二月二七日条には縁談の記事がある。「此方へ後妻縁談申込候、裏四番丁高五百石旧幕府御家来小川惣左衛門殿厄介、しげ殿と申婦人、三十五才之由、御亭主ハ討死之由、真平〳〵〳〵〳〵」と、「真平」の下に三回おどり(くり返しの符号)を書いている。
 他の町名主の動向として、新革屋町名主の木村定次郎は、慶応二年一一月に元乗物町から出火し一四〇余町を焼いた大火で風上の町役人として責任を問われ、慶応三年三月に押込の処分を受けた。富山町名主の飯塚家では養子才助の借財が増大したことから、慶応三年四月に月岑に離縁の相談があり、八月に才助の名主見習御免願を申し立てた。通新石町名主の竹内家では慶応三年七月に善右衛門が病死したが、娘が一人のみであったため相続が懸案となり、竹内支配の御救を喜之助が扱うなどしている。また村松町名主の村松家では明治元年閏四月に源六が隠居、剃髪して牛歩と号し、浅草平右衛門町名主の村田家でも、前述の通り、息子の新九郎が家督を継いだ。町年寄では、慶応三年八月に先々代の樽藤左衛門が病死、明治元年五月には舘の代替わりがあった。
 明治二年の「索引」には、月岑知り合いの町名主たちの転職先が記される。このような記事は他に類似の史料が無く貴重である。本文記事と合わせ、旧一一番組町名主たちの身の振り方について見ると、平田宗之助と佐柄木忠次郎が商法司玄関番、小藤権左衛門が雑道具屋、田上定五郎が唐物反物屋、竹内は当主不在で娘一人、久保啓蔵(平野嘉右衛門と改名)が塩屋・素読師匠、飯塚市蔵が羅宇屋と分かる。このほか東湊町の遠藤は道具屋、小網町の普勝は反物屋。また、後家へ入聟(田中平四郎)、芸者屋(宮辺五郎三郎、佐久間源八、熊井理十郎)、道具辻売(内藤吉良)といった例もあった。
 文化的活動に関連しては、「振災記」四冊等を南町奉行所同心の笹岡小平太に(明治元年五月一〇日条)、「巷談操筆」の草稿を大伝馬町名主馬込勘解由に貸し(同年八月二六日条)、御肴役所書役の七兵衛には「睡余操瓢」五巻をはじめとする本を度々貸している。また絵師の長谷川雪堤が久しぶりに来宅し(慶応三年四月晦日条)、月岑が画人の中野其明宅へ寄る(明治元年閏四月一日)などの交流が知られるほか、浮世絵師の豊原国周が引越した音羽町の新宅で酒に酔った河鍋暁齋と喧嘩したこと(慶応三年五月六日条)が書き留められている。慶応三年六月には人形師の秋山平十郎が病死し、明治元年九月には歌舞伎役者の河原崎権之助が強盗に斬られ殺害された記事もある。明治二年に入り月岑は古い錦絵(古絵)をしばしば購入するようになった。これに関連して、明治三年八月二四日に浮世絵巻物七巻が出来たとの記事、同九月二九日に巻物外題を頼んでいた矢島岩松(息子松之助の手習師匠)から箱が届いたとの記事がある。
(口絵一葉、例言一頁、目次一頁、本文四一二頁、本体価格一二、〇〇〇円)
担当者 鶴田 啓・杉森玲子

『東京大学史料編纂所報』第48号 p.51-54