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大日本古記録 實躬卿記 七

この冊が収めるのは、徳治元年(一三〇六)一月から同年一二月までの日記と、その自筆本に依った部分の紙背文書である。この年実躬は四三歳であった。官位は前年に権中納言を辞してからは散官のままであり、従二位である。
 本冊でも引き続き、前田育徳会所蔵自筆本および武田科学振興財団所蔵自筆本を主要な底本として使用している。加えて、新たに宮内庁書陵部所蔵自筆本を利用した。また、東京大学史料編纂所所蔵自筆本断簡も利用した。このほかに、前冊までと同様に、部類記の記事を編年化して、日次記の間に挿入している。部類記として用いているのは、「御幸部類」(宮内庁書陵部所蔵柳原本)「平座小除目等部類」(同上)「除目部類」(宮内庁書陵部所蔵、三条西実隆自筆)等であるが、今回新たに、「節会部類記」(国立歴史民俗博物館所蔵、広橋家旧蔵記録文書典籍類のうち)を底本として用いている。「御幸
部類」と「節会部類記」には、一部日付の重なる部分があるが、記事の内容には重複はない。本来存在したと思われる日次記から、それぞれの関心に従って抜書し、部類したことがはっきりと分かる。 本冊にも、底本に多くの錯簡が認められる。編纂の過程でこの点の研究を進め、テキストとして復元した。まず、本冊中もっとも慎重な検討を要するのが九月記である。これは、本来一巻であったものが、現在は武田本と前田本に分断しており、さらにその間に史料編纂所所蔵断簡が入る。おそらく意図的な切断によるものではなく、原本の欠損が著しかったために起こった分断であろう。特に、前田本の終わりに当たる一六日条の後に続く部分に欠損がはなはだしく、錯簡も多い。一六日条の後には、武田本二張分に続けて史料編纂所所蔵断簡が挿入されるが、欠損が多いために記事の内容からそのつながりを推定するのは難しく、欠損の状況その他の形態的特徴から推測して慎重に箇所を特定した。その後再び続く武田本についても、現状のつながり具合では記事の内容に矛盾を生じる箇所があり、同じく欠損の状況等から錯簡があるものと判断して一部の張を入れ替えて復元している。
 同じく五月記についても、本来は一巻であったものが、現在は武田本と書陵部本に分断されている(書陵部本については、今江広道「実躬卿記─嘉元四年五月巻─」[『書陵部紀要』二九、一九七七年]も参照)。このうち武田本第三九巻は、その内容が『定長卿記』「文治四年後白河院如法経供養記」であり、一見『実躬卿記』徳治元年五月記の一部とは考えられないようである。このことから、筆者は以前これを、同年月に行われた後宇多院如法経供養の先例勘案のために、本記とは別に実躬によって書写され、『実躬卿記』自筆本とともに伝来したものと推定した(拙稿「「文治四年後白河院如法経供養記」について─新出『定長卿記』の翻刻と研究─」『東京大学史料編纂所研究紀要』一二、二〇〇二年。後に拙著『中世仏教の原形と展開』[吉川弘文館、二〇〇七年]に再録)。しかし、その後宮内庁書陵部の詫間直樹・石田実洋両氏のご指摘もあり、再び原本を子細に検討した結果、両者は本来一巻として成巻されたもの、すなわち実躬が先例勘案のために書写した『定長卿記』の一部を、自身の日記に張り継いだものであると考えるに至った。今回は以上の前提に立って復元を進めた。その他、人名比定や文字読解の誤りなど、拙稿に訂正すべき点も多く、できる限り改訂した。読者諸氏に筆者の不明を恥じるとともに、ご訂正をお願い申し上げる次第である。
 なお、五月記の底本である武田本第三九巻には、「文治四年後白河院如法経供養記」ではない『実躬卿記』の日次記の断簡も貼継がれており、今回はこれを前後の状況等から五月二五日条のあとに、中欠をはさんで二八日条として挿入し、復元している。しかし、これだと続く日次記はいったん二六日条に戻り、連続して三〇日条までを記していることになる。すなわち、中欠部分を考慮の外に置くとしても、少なくとも二八日条については記事が重複しており、一巻の日次記としてはやや異例である。これについては、日次記が九日条あたりから「文治四年後白河院如法経供養記」を挟んで、先述の二八日条までは、もっぱら実躬も参仕した後宇多院如法経供養についての記事が中心であることが手掛かりとなろう。すなわち、一巻の体裁としては日次記でありながら、この部分は後宇多院如法経供養に関する別記の意味合いが強いと思われる。二八日条で比叡山上における如法経奉納次第までを記した後、先述のように記事は二六日条に戻り、再び二八日条を含んで月末まで、主として嫡男公秀が蔵人頭として参仕した内裏最勝講の記事を記して終わる。これもまた、中世公家日記作成の具体相を考える上で興味深い事例の一つである。
 ここで、書陵部本についても一言触れておきたい。『実躬卿記』自筆本が、中世のある時期から近世を通じて三条西家に伝来していたこと、そのうちの一部が江戸時代に前田家に移動したことは、別に考察したとおりである(拙稿「『実躬卿記』自筆本の伝来・構成に関する一考察」『東京大学史料編纂所
研究紀要』一〇、二〇〇〇年)。一方、書陵部本は、享保六年(一七二一)ごろには引き続き三条西家にあったと思われるが、その後のある時期から「三条家文書」、すなわち閑院流藤原三条諸家の嫡流にあたる転法輪三条家に伝来した文書群に含まれることになった。「三条家文書」は、太平洋戦争敗戦まで東京大学史料編纂所に寄託されており、史料編纂所に残る事務文書等からも、その中に現在の書陵部本に相当する『実躬卿記』自筆本一巻が含まれていたことが確認できる。この時期に史料編纂所では、寄託史料の整理のために「史料備用」のラベルを付したが、これは現在も書陵部本に残されている(口絵参照)。戦後、史料編纂所では、『愚昧記』『後愚昧記』等一部を購入し、残りの「三条家文書」を三条家に返却しているが、その後「三条家文書」は神宮文庫所蔵となって現在に至っている。以上の戦後における史料群移動の過程で、『実躬卿記』一巻は「三条家文書」から分離して宝玲文庫に収蔵されたことが、現在書陵部本に残る蔵書印から確認できる。宝玲文庫の解体後、この『実躬卿記』は一九五七年ごろには反町茂雄氏の手元にあり(史料編纂所架蔵写真帳、架蔵番号六一七三/一八八/一)、その後書陵部に所蔵されて現在に至る。近世中期以降のいつ、どのような理由でこの自筆本一巻のみが転法輪三条家に伝来するに至ったのかは、『実躬卿記』自筆本の伝来論を明らかにするうえで、今後の検討課題である。
 さて、本冊では前冊までと同様、自筆本の部分のほぼ全面に紙背文書が見られ、これらも順次悉皆的に翻刻した。本冊所収の紙背文書には、引き続き永仁三~四年ごろの相論関係文書が多く、これは以前にも述べたとおり、実躬が蔵人頭を務めていたことによって、その手元に集積されたものである。今回は、特に五月記を中心に、他の巻にも散見される、鎌倉時代後期の大工職に関する種々の文書をすべて収載翻刻したことを特記したい。まず、書陵部本紙背については、すでに今江広道氏が翻刻紹介している(今江広道「宮内庁書陵部所蔵「実躬卿記嘉元四年五月巻」紙背文書」『古文書研究』一二号、一九七八年)。一方、武田本紙背については、早くに赤松俊秀氏がその一部を紹介して以来(「座について」第三章、『古代中世社会経済史研究』平楽寺書店、一九七二年)、職人史研究に欠かすことのできない文書として注目され、『鎌倉遺文』にも「神宮文庫所蔵三条家文書」(先述の通り、実際には神宮文庫所蔵三条家文書には含まれない)として収録された。しかし、赤松氏はその時点では原本所蔵者は明らかにし得ないとされ、原本にもとづく厳密な研究や悉皆調査は進められてこなかった。今回、他の武田本に残された関連文書や墨影文書も含め、既翻刻のものについても改めて原本によって子細に検討を加え、そのすべてを翻刻することができた。その中には、当時建仁寺長老であった無隠円範が、建仁寺支配下の大工に関して認めた挙状も含まれ、円範の自筆である可能性が高い。円範は臨済宗大覚派の初期の禅僧として注目されるものの、その活動には不明な点も多く、墨跡等も知られていない。その筆跡や、具体的活動の一端を知るうえでも重要な文書であろう(口絵参照)。紙背にはその他、伊勢神宮関係の訴訟についても、様々な荘園や御厨等に関してその一端を示す文書が多数紙背に残されており、こちらも注目に値しよう。一例を挙げれば、森幸夫氏が平頼綱と公家政権をめぐって検討された文書(「平頼綱と公家政権」『三浦古文化』五四、一九九四年)も、本冊に収められている。なお、紙背文書との関連で料紙の利用法という点から、武田本第四六巻・四七巻の紙に言及しておきたい。この二巻の紙は、文書を反故にして料紙として再利用したものであり、結果として紙見返に反故の文書が残ることとなった。本冊では、これも紙背文書として扱っている。中世公家日記の成巻の具体的方法を知るうえで興味深い事例である。
 最後に、内容についても紹介しておく。前々年の嘉元三年(一三〇四)の亀山法皇崩御により、後宇多院はいよいよ自らの意志にもとづき治天としての活動を本格化させてゆく。もちろん、幕府による圧力から自由であったわけではなく、その働きかけにより、前年末に西園寺公衡に課していた勅勘を解き、所領を返付することとなった。一方、院独自の活動としては、儀式の復興に熱心であったことが特筆される。例えば、二月の列見に意を砕き、また年末には翌年の白馬節会のために、自らが臨幸して念入りな習礼を行う。この習礼は特に、尊治親王(後の後醍醐天皇)のためであったといい、親王はこの直前に勅授帯剣の宣旨を受けている。このときには、宗尊親王の例が詳しく引かれた。その政治的意図については一考の余地があろう。ともあれ、後に皇統をめぐって対立する親王は、このときは院と良好な関係あったことがうかがえる。習礼の当日、親王は群臣の見守る中、ゆっくりと練歩し、作法も種々古礼に従うなど衆目を引いた。このように、大覚寺統の治世が進む中、持明院統では年末の二八日になって、主要な御所の一つとして後伏見上皇・女御藤原寧子(後の広義門院)・東宮富仁親王(後の花園天皇)らが使用していた富小路殿が焼失した。歴代の日記や宝物の多くを失い、一同は大覚寺統の御所であった常盤井殿に寓居することとなる。その他、幕府の動向との関連では、先述の公衡勅勘免除の他、将軍惟康親王女(久明親王室、守邦親王母)没による石清水放生会延引、安達義景女(北条時宗室、同貞時母)没による天下触穢などの記事も散見される。また、伊勢国に女子の三つ子が生まれたことが後宇多上皇に奏聞され、東竪子として召されんことを請うたが、その顔は鬼のようで、在所において養育すべきこととされたといった、珍奇な伝聞も記されている。なお、先例勘案の過程で『三長記』『山槐記』『台記』などの逸文が見えるのも貴重であろう。
(例言一頁、目次二頁、本文三四二頁、口絵図版三頁、定価一二、〇〇〇円、岩波書店発行)
担当者 菊地大樹

『東京大学史料編纂所報』第47号 p.46-48