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大日本史料 第二編之三十

本冊には、後一条天皇の長元三年(一〇三〇)八月から、同四年(一〇三一)六月までの史料が収めてある。
この時期の主要な記録である右大臣藤原実資の日記「小右記」は、長元三年については八・九月記と十月の二箇条を、同四年については正月〜三月・七月〜九月記を存し、右大弁源経頼の日記「左経記」は「類聚雑例」を残すばかりで、三年の本記を闕いている。なお、経頼は三年十一月五日に参議に任じ(同日の条、八五頁以下)、翌四年二月二十九日、権大納言藤原長家と同日に着座を遂げている(同日の第一条、二五四頁以下)。
この間の主な事柄としては、上東門院藤原彰子の法成寺東北院供養(三年八月二十一日の条、一四頁以下)及び王氏爵事件(四年正月六日の第一条、一四〇頁以下)、平忠常の帰降(四月二十八日の条、三〇三頁以下)とその病死(六月六日の条、三一六頁以下)などがあげられる。
 御斎会に准じて行われた東北院供養の様子については、「小右記」を始め、「諸寺供養類記」所引の「左経記」、権中納言源師房の日記「土右記」の逸文によりその詳細を知ることが出来る。上東門院は供養後の同月二十六日には東北院に移御し(同日の第二条、二九頁以下)、翌九月九日には後一条天皇の同院行幸が行われている(同日の第二条、四二頁以下)。
 王氏爵事件は、四年正月五日の敍位議(同日の条、一三六頁以下)に於いて四位に叙せられた良国王が、実は大蔵種材の男で、以前に大隅守菅野重忠を射殺し、その後改名のうえ王氏を詐称していたことが発覚したもので、その叙位を止め良国追捕の宣旨が下されている。また是定であった式部卿敦平
親王はその釐務を停められ、勘事に処せられている。
 忠常の追討については、すでに平直方及び中原成通が追討使として下総に発遣されていたが(元年八月五日の第二条)、その功なく成通がその官を停められ(二年十二月八日の条)、さらに直方を召還し、新たに甲斐守源頼信及び坂東諸国司等をして忠常を追討せしむることとなった(三年九月二日の第二条、三六頁以下)。頼信は翌四年四月忠常の帰降を報じ(前掲)、忠常を随えて上京の途に就いたが、美濃に於いて忠常の病死に遭い(前掲)、頼信はその首級を携えて六月十六日入京することとなった(同日の条、三三三頁以下)。同月二十七日には、頼信の行賞と忠常の子等赦免のことを議す陣定が行われている(同日の第一条、三四〇頁以下)。この忠常追討に関連する事柄に、任国下向途上の安房守平正輔と同致経との伊勢に於ける合戦とその罪名を議す陣定がある(四年正月二十一日の第二條、一八二頁以下)。なお、実資はこの罪名定に際して、三年十二月以来、伊賀守源光清の配流(十二月二十九日の条、九九頁以下)、藤原相通夫妻の配流(四年八月八日の条)、忠常の追討等の凶事承行に怖畏の念を抱き、寛恕の法を行わるべしとの感懐を頼通に披瀝している。
後一条天皇に関する事柄に、御悩(三年八月二十日の第一条、一三頁)、内裏密宴(同年九月十二日の条、四五頁以下・四年三月三日の第二条、二六〇頁以下)、章子内親王の御着袴(三年十一月二十日の条、九〇頁以下)などがある。
 関白左大臣藤原頼通に関する事柄として、その病(四年二月十七日の条、二一九頁以下)の他、石清水八幡宮参詣(三年九月二十一日の条、五二頁以下)、法成寺五重塔供養(十月二十九日の条、八一頁以下)、賀茂社参詣(四年四月二十六日の条、三〇〇頁以下)、新造東三条第の焼亡(五月三十日の条、三一〇頁以下)などがあり、藤原実資に関する事柄に、その觸穢(正月二十八日の第三条、二〇五頁以下)の他、栖霞寺に於ける文殊像拝観(三月一〇日の条、二六八頁以下)、頼通の白河第観覧(同月二十日の条、二七七頁以下)などがある。なお、前冊に引き続きその日記「小右記」には女婿藤原兼頼に関する事柄が頻出する。正月二十五日に予定されていた縣召除目は、前掲の頼通の病と実資の觸穢とが相俟って延引したが、二月十七日(同日の条、二一九頁以下)漸く内大臣藤原教通初度の執筆を以て入眼を迎えている。
 この他に注目すべき事柄として、太政大臣藤原公季薨去後の太政官・外記庁に於ける左・右大臣倚子の立て改め(三年八月十七日の第二条、九頁以下)、式部卿敦儀親王の御出家(同月十九日の第一条、一〇頁以下)、天変に依る公卿勅使の発遣(九月二十三日の条、五四頁以下)、耽羅人等の漂着(四年二月十九日の第一条、二三九頁以下)、斎宮頭相通夫妻に拘わる大神宮託宣(六月十七日の条、三三五頁以下)などがある。
 本冊に於いて、その事蹟を集録した者は、少僧都遍救(三年十月十二日の条、七〇頁以下)・皇大神宮禰宜荒木田延利(三年年末雑載、社会の条、一〇三頁以下)・紀伊守藤原俊忠(同条、一〇四頁以下)・壱岐守大蔵種材(四年正月六日の第一条、一四九頁以下)・春宮権大進高階成行(同月十五日の条、一七一頁以下)などである。
(目次一九頁、本文三四八頁、本体価格八、二〇〇円)
担当者 厚谷和雄・尾上陽介・加藤友康

『東京大学史料編纂所報』第46号 p.36-37