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所報 - 刊行物紹介

大日本古文書 家わけ第十八 東大寺文書之二十一

本冊は、〔第一部一五 兵庫関〕〔第一部一六 観世音寺〕〔第一部第一七燈油田并大湯屋田〕を収録した。以下では、利用の便宜を図るために、内容をいくつかに分類して紹介する。
 〔第一部一五 兵庫関〕
 すでに『大日本古文書 東大寺文書之二十』において、1−15−1より1−15−168までを収録した。兵庫関の概要と、前冊『大日本古文書 東大寺文書之二十』分については『東京大学史料編纂所所報』第四三号の刊行物紹介に譲る。本冊収録分は概ね以下の通りである。
■ 兵庫北関
 本冊で兵庫関経営に直接関わるものは、実は少ない。兵庫関の関料収入を北野社と等持寺に送った際の文安元年(一四四四)他の請取(第一四六一号他・第一四七二号)程度である。兵庫北関の経営権は、文安年間に寺内油倉に移っており、これらの文書は油倉伝来文書と言える。
■ 周防国衙関連
 周防国衙関連は本来第一部第五(『大日本古文書 東大寺文書』第十四〜十六冊)に整理されるべきものであるが、兵庫関への年貢運送のことが見えるために、兵庫関関連に混ざったものと推測される。南北朝期・室町中期の年貢送状がある(第一四五七・一四四七・一四四四・一四五六他各号)。
■ 周防国東仁井令と白石寺
 このふたつもまた周防国衙関係ではあるが、東大寺学侶方伝来の文書である。東仁井令は本来、第一部第七(『大日本古文書 東大寺文書之十六』所収)に整理されるべきものであるが、兵庫関への年貢運送のことが見えるために、混ざったものと推測される。年貢分配状況を示す明徳元年(一三九〇)の第一四六四号、代官補任に関する室町前期・中期の文書(第一四四〇・一四五二・一四四一他各号)がある。白石寺は代官補任に関する南北朝・室町前期のもの(第一四五三・一四三九号)。
■ その他、諸関など
 南北朝期の尼崎関(第一四四二号)、堺南北荘泊(第一四六〇・一四六三号)などは、同じく関所ということで混ざったと思われる。さらに永正一四年(一五一七)の大仏殿燈油料田寄進状(第一四四九号他)は、「兵庫道場」という文言によって混ざったものか。
 〔第一部一六 観世音寺〕
 筑前国大宰府に隣接する観世音寺が、東大寺末寺となったのは院政期保安元年(一一二〇)のことであった。観世音寺領碓井封・金生封・船越荘・黒嶋荘・山北荘から東大寺に年貢が上納された。観世音寺文書については、森哲也「観世音寺文書の基礎的考察」(『九州史学』一二七、二〇〇一年)が網羅的に解明する。現在そのかなりの部分は、東大寺寺外にあり、本第一部一六に整理されているのはわずかな部分に過ぎない。
■ 院政期の文書
 東大寺による年貢収取関するものが全体の三分一を占める。末寺所領の結解状(第一四八六号他・第一四七五号)、運上米引き替えの切符と思われる下文(第一四八三号)、東大寺内での分配を示す注文(第一四七七号)などである。
 また観世音寺に発給された大宰府あるいは筑前国衙の文書の案もある(第一四七三号)。第一四七六号文書は、平治元年(一一五九)に観世音寺文書が東大寺に送られたことを示す。なお第一四八二号藤原公章書状は、按文に記したように〔長承元年十一月廿二日〕藤原実行并藤原公章書状案(1−24−171)と関連するが、さらに進んで本来セットであった可能性もある。その場合、本冊で正文としたのは案文と修正が必要となる。
 また第一四七四号の観世音寺堂舎門廊損色注進状は、この時期の観世音寺の状況を示すものとして有名なものである。
■ 鎌倉中期の文書
 第一四八一号寛喜三年(一二三一)六月廿九日東大寺衆徒等申状案(土代)は、年貢未進を理由に観世音寺別当光恵の改替を求めたもの。光恵は東大寺内院家西室の僧侶。その後、光恵は惣寺への年貢完済を約束する請文を提出したことが、第一四八〇号などから窺われる。一旦は和談に至ったものであろう。しかし、第一四七八号(延応元年〔一二三九〕)に、観世音寺相論の和与のことが見える。具体的な内容は不明だが、同寺をめぐっては不安定な状態が続いたらしい。
 この当時の観世音寺は、寺内院家による請負経営であった。鎌倉期の観世音寺についての経営を示す文書は東大寺文書中にはない。それらは末寺別当の院家に蓄積されたと考えられる。
 〔第一部第一七 燈油田并大湯屋田〕
 東大寺の燈油田は、大きく二つに分けられる。ひとつめは、天平勝宝二年(七五〇)二月の聖武太上天皇の施入とされる御油荘六六町である。ふたつめは、平安〜桃山時代を通して蓄積された散在寄進田である。
■ 御油荘施入状
 御油荘六六町の施入状は、第一五五〇号(一)他にある。すでに『大日本古文書 東大寺文書之三』第六一三号に別案が収録されている。同号の按文では、院政期に作成された一種の偽文書はあろうとしている。本書の第一六八三号には具書として、同施入状があり、その際のものという可能性がある。御油荘は、高市郡内の高殿・西喜殿・東喜殿・城戸・波多の六荘として、東大寺側には認識されている(第一五八五号)。この荘園は、いわゆる免田型の荘園であり、一定の領域内の免田=燈油田の集合体を「荘」の名称で括っているに過ぎない。
 免田=燈油田を含む領域を押さえる荘園と荘園領主の存在も確認されている。たとえば東喜殿荘の場合、領域を覆うのは、興福寺一乗院領荘園であった。いわば複数の領有関係が重複している。こうした複雑性は大和国荘園の特徴であり、燈油田を理解する上で、この点の十分な理解が必要とされている。
■ 燈油田寄進状
 本冊にある燈油田の寄進状は五二点。鎌倉中期と室町後期との二つの山がある。このうち、鎌倉中期のものには、端裏書に同筆にて郡名を記したものがある(第一五四〇号他)。同種のものは、東大寺文書成巻文書や未成巻文書の他の配架にもある。ある時点での整理を示すものだろう。ちなみに、永仁二年(一二九四)三月日東大寺大仏燈油料田記録(『鎌倉遺文』一八五一七号)とは必ずしも一致しないようである。
 なお第一五八〇号によれば、少なくとも鎌倉中期の早い時期までは、寄進状は印蔵に保管されている。また山岸常人『中世寺院の僧団・法会・文書』(東京大学出版会、二〇〇四年)二二六頁によれば、弘安七年(一二八四)頃燈油田寄進状は大仏殿の壁面に貼り付けられていたようである。これとの関わり注目されるのは、第一六二一号(大永・永正年間)であり、「大仏殿懸札写」として、五点の燈油田寄進状の抄写がある。このうち、第一六二一号(五)の正文は、第一五四一号である。なお札に寄進状を写すことは第一六四二号(東大寺八幡宮経蔵の例)にも見えている。いずれの時点からか、懸札という形で掲示されていたのであった。
■ 経営の変遷
 永村眞『中世東大寺の組織と経営』第四章(塙書房、一九八九年)は、この御油荘・燈油田の経営についての詳細な研究である。その変遷は以下の通りである。
 ①院政期は、別当─三綱系統の燈油目代とその配下の出納が担当。大仏殿の燈油のみならず万燈会など寺内の複数の燈油用意をカバーする。②鎌倉中期より大仏殿燈明に特化した存在として大仏燈油聖が出現。彼らは、大勧進組織に属し、散在諸方よりの小規模な燈油田寄進を募った。③南北朝期の中頃に燈油聖の活動は停止し、同じく大勧進組織に属する楞伽院に替わる。なおこのころまでは燈油目代の存在も知られる。④室町前期には楞伽院から、同じく大勧進組織に属する戒壇院油倉に、大仏殿燈明の経営主体は移る。⑤応仁・文明の頃を境に大仏殿燈油の経営は、東大寺学侶から選定される燈油納所に移り、近世を通してこの体制が継続する。
■ 院政期の文書
 久安三年(一一四七)七月の御油荘所当公事注進状(第一五八五号)は、東大寺領興行を図った東大寺別当寛信の時期に当たる。この注進も燈油田興行のためのものと推測される(守田逸人『日本中世社会成立史論』校倉書房、二〇一〇年、九九頁以下)。仁平年間には東喜殿荘の押領停止を命じた宣旨が発給された(第一六八三号)。ついで長寛二年(一一六四)頃および嘉応元年(一一六九)の高殿荘相論関連の文書がある(第一五五五号・第一六八三号)。ちょうど東大寺南大門再建に重なる時期であり、それとリンクした寺領回復運動と考えられる。
■ 大仏殿燈油聖の活動
 燈油目代に比較すると、本冊では、大仏殿燈油聖の関連文書が圧倒的に多い。燈油聖は、鎌倉中期の信覚・西迎上人蓮実・善教、鎌倉後期の信聖・道誡・忍西・円実・良兼、そして南北朝期の性恵(凱応)がいる。また燈油田としては、大和の東喜殿・大野荘、伊賀の名張郡など見える。第一部第一七にまとまってあるのは、信聖・道誡・円実・良兼・性恵(凱応)の四名の時期のものである。
① 信聖
 信聖は、永仁二年(一二九四)三月日東大寺大仏燈油料田記録(『鎌倉遺文』一八五一七号)を作成した燈油聖として著名である。この記録は、信聖が燈油聖を辞退する(第一六二八号)に際して作成された。その後、東大寺年預五師他の慰留があり(第一六二〇号・第一六六八号)、翌年三月に翻意している(第一五五二号)。永仁三年十二月二日に、それまで燈油目代のもとにあった東喜殿荘の経営権が燈油聖に移管された(第一六〇九号)。
 永仁五年四月に書写された聖武太上天皇大仏燈油田施入勅願文案(第一七〇一号)の端裏書に、「東喜殿御油段別一舛」の由来を明らかにするために、年預五師より案文を入手した旨が記されている。信聖によるものだろう。同月には、段別一舛を基準とする用途請文(第一五三八号)が残っている。また第一五八三号の百姓の押書もこの時期のものである。
 この他、第一五四三号他の真阿書状がある。百姓の未進について、燈油聖との間でやりとりを交わしていることから、真阿は燈油用途徴収に携わる人物であり、東喜殿荘沙汰人と判断した。興味深い史料ではあるが、翻刻・年次比定など十分に検討が行き届いておらず、今後の研究を期待したい。
② 道誡
 関連文書は、乾元元年(一三〇二)からの隣接する南喜殿との用水相論(第一五四六・一五四四・一五三三号)、沙汰人則能の用途未進問題(第一四九四・一六〇四号)、延慶二年(一三〇九)秋篠田相論(第一六〇五号)がある。このほか、第一五六四号の燈油田百姓職請文や、第一五二五号の某所(伊賀国名張郡?)よりの所当送状は経営の実態を示す。なお第一五六一号東喜殿荘沙汰人真阿書状は、発給月が「後十二月」であることから、嘉元三年(一三〇五)に比定される。ただし前述の沙汰人則能と活動時期が重なる。今後の検討が必要である。
③ 円実
 某所の燈油畠で請作人北野荘住人の濫妨停止を求めた正和二年(一三一三)の第一五九二号他や、興福寺大乗院寄人符坂油座との相論(第一五八九号)がある。
④ 良兼
 元亨二年(一三二二)年預五師賢俊は、大仏燈油田未進分を、東大寺学侶の給付物(学生供)などで補うことを約束(第一六九七号)。興福寺一乗院寄人による燈油田作人傷害事件(第一五八八号)、さらに大和国宇陀郡にあった興福寺東門院領大野荘内の燈油田に関する文書として、次の性恵の任期に及ぶが、第一六一六・一五一二・一五五三号がある。良兼は東大寺尊勝院の口入によって解決を図ろうとしている。
 なお良兼と重なる時期であるが、元亨二年と推測される第一五六三号は、燈油目代が大和国高殿荘の未進を東大寺別当聖尋に訴えた文書土代である。他に第一五五七号・第一五九七号が関連文書である。これらは、良兼など燈油聖系統の伝来文書とは異なり、惣寺もしくは三綱系統の伝来文書である。この点から、第一部第一七には異なる系統の伝来文書が混在していることが判明する。
⑤ 性恵
 性恵は、最後の燈油聖である。文和二年(一三五三)の大仏殿燈油押領人交名注進状案(第一五八二号)は、この時期の東喜殿荘の実態を示すもの。この他、同荘については、新たに燈油田を買得した豊浦寺とのやりとりを記す第一六三五号他がある。また薬師寺との相論(第一五九八号他)も見えている。
■ 楞伽院
 燈油聖より楞伽院が引き継いだ直後の文書は、大和国添上郡鳥羽荘内燈油田に関する第一五八六・一七〇二号である。もっとも点数が多いのは、東喜殿荘関連で、応安四年(第一五〇九号)より明徳元年(第一六六七号)までのものがある。なおこの頃に東喜殿荘は小山荘とも称されている。収納に関するもの(第一五〇九・一六一二・一六六三・一五二四・一六二二号)、用途徴収にあたった小山下司の書状(第一五六五号他)や、小山下司との関係は不明だが、同じく「小山殿」との名前が見える第一六三六号などがある。なおこれらの文書には、燈油目代の配下である出納の活動も見えている。
 至徳二年(一三八五)の興福寺大乗院寄人符坂油座との相論では、楞伽院は大乗院と直接交渉を行っている(第一五四九号他)。同様のことは、応永年間の神殿荘での段銭免除でもあった(第一六一〇・一五一三号)。
 この他、楞伽院の文言が見えないものもあるが、時期と内容から見て、伊賀国名張郡に関する文書(第一五六〇・一六四八号)や明徳五年(一三九四)の山城国散在の燈油田関連文書(第一五一一号・第一五六八号他)などもおそらく楞伽院宛とすべきではないだろうか。なお山城国散在田の史料からは、東大寺大仏殿に対する室町幕府の庇護が窺われる。
 第一五五八号応永三一年(一四二四)頃の大仏殿燈油方結解状を最後に楞伽院の活動は見えなくなるとされる。
■ 油倉関連
 楞伽院消滅後、大仏殿燈油関連の経営は、戒壇院に吸収された。第一部第一七には、宝徳年間頃から文正年間(一四四九〜六七)の戒壇院油倉関連文書がある。ただしいずれも燈油田とは関わりはない。周防国衙(第一六三七号)、蒲御厨(第一六七〇・一六八〇・一六八一号)、足利義政南都御成(第一六三四号)などである。
■ 惣寺方燈油納所
 本冊に収録したもののうち、燈油納所が東大寺惣寺に移管された後の文書は無年号が多く、内容もまとまりがない。経営実務に関するものは、永正〜天文頃(一五〇四〜五八)の請文類(第一五三二・一五六六号)・百姓職充文(第一五三〇号)があり、やや遅れて文禄二年(一五九三)の結解状がある(第一五二二号)。この他、他の領主と関連するものとして、十市遠忠書状(第一五〇七号)・筒井順興書状(第一五一四号)、反銭関連として第一五九九・一六六五・一五二六号が見えている。
〔大湯屋田〕
 大湯屋田については、高橋一樹「中世寺院のくらしを支えるしくみ─東大寺の湯屋料田を素材として」(『中世寺院の姿とくらし』国立歴史民俗博物館編、山川出版社、二〇〇四年)が、本冊収録以外の文書も利用して、詳細に論じている。
 湯田は湯司が管理に当たった。湯田の作職を宛行った中院北坊あるいは信花坊がいる(第一六四七・一六五四号)。この他、正慶元年(一三三二)の第一六五〇号に見える水門少輔公行瑜も湯司であろうか。湯田への他役免除を惣寺年預五師代に要求している。さらにまた第一六四一号の宛所信花房も同様か。
 この他、実際湯を沸かす役職である湯那については、第一六三三号に同職をめぐる相論が見えている。
 大湯屋の財源となる湯田。その寄進状は大仏殿燈油田と比較すると少ない印象を受ける。本冊に収録した寄進状は、鎌倉前期と鎌倉中期の前半天福元年までに限られる(第一六八四号他)。これらの寄進状は、印蔵の温室櫃に収められたことが鎌倉中期の第一六四三・一六五三号から判明する。
 寄進が低調であったことの反映であろうか、室町前期になると、大湯屋の経営は惣寺・年預五師によって財務支援を受ける。そのための帳簿が大湯屋結解状であり、一六点を収録した(第一六三一号)。注意しなくてはならない点は、これは大湯屋の財務構造すべてを覆うものではない点である。支出部分は、本来の寄進湯田での不足を補った部分であり、また収入部分も、その補填のために特別に設定した財源ということになる。
(例言四頁、目次二三頁、本文三五一頁、花押一覧一〇葉、本体価格八、九〇〇円)
担当者 遠藤基郎

『東京大学史料編纂所報』第46号 p.46-50