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大日本近世史料 廣橋兼胤公武御用日記十

本冊には、宝暦十年五月より同十一年四月までの「公武御用日記」と、宝暦十年六月より九月まで、及び同十一年正月より四月までの「東行之日記」を収めた。
 宝暦十年の兼胤は四十六歳。官位は前権大納言・兵部卿・正二位であったが、十二月二十六日に権大納言に還任している。嫡男の伊光は蔵人を勤めていたが、十一年二月二十八日に右衛門権佐を兼任し、検非違使となっている。また、福岡藩主黒田家との間で縁組の話が進められ、同年四月五日、藩主黒田継高娘との縁組願書が内覧に附されている。
 本冊での朝廷における主要な人事としてまずあげるべきは、兼胤の武家伝奏就任以来同役であった柳原光綱の薨去と、後任の武家伝奏補任である。
 宝暦十年八月、兼胤と光綱は、徳川家治への将軍宣下勅使として江戸へ下向した。下向する以前から光綱には発熱の症状があったが、途中、桑名での渡海後に足が浮腫み、着府後には尿が赤濁し、手足にも顕腫が現れるようになった。病状からは腎臓病が推測される。江戸滞在中にも病は進行し、将軍宣下規式後の能見物は中途で退座している(九月五日条)。京都への帰路、馬入川が満水となり、帰洛を急ぐために木曽路の通行を願っている(九月十三日条)。九月二十一日には、息が迫り、脈も微かになるほど病状が悪化し、兼胤は白須賀に光綱を残して、一人で帰京することになった。兼胤は二十五日に帰京するが、光綱はその三日後、二十八日に帰洛する。そして、直ちに武家伝奏辞役の書附を提出するも、同日亥刻に死去した。もっとも、光綱の嫡子柳原光房(後の紀光)の日記によると、光綱は既に二十三日辰刻に三河吉田宿にて薨じており、遺体となっての帰洛であったことが知られる(「柳原紀光日記」宝暦十年九月二十五日条、宮内庁書陵部所蔵)。
 さて、光綱の薨去が届けられた二日後の九月三十日、参内した兼胤は、伝奏の跡役を姉小路公文か山科頼言(両名ともに議奏)のどちらかにしたいという桃園天皇の御内慮を幕府に伝えるよう、関白から命じられた。この時、天皇が二人のうち姉小路の就任を望んでいることも合わせて伝えられている。翌日、御内慮の趣が所司代に伝えられ、十月十九日には関東から、天皇の希望もあるので姉小路を武家伝奏の跡役とするよう返答があった。元禄期以降、武家伝奏の任命には天皇の意向が関わっていることが、すでに明らかにされており(平井誠二「武家伝奏の補任について」『日本歴史』四二二)、本事例でもそのことが確認できる。即日、姉小路に仰せ出され、二十二日に所司代役宅で誓詞血判が行われた。なお、姉小路の後任の議奏は直ちには補充されず、翌年五月まで空席となる。そのほかの人事としては、飛鳥井雅重と冷泉為泰が近習に召し加えられていることが注目される(十月十一日条)。近習は宝暦事件の関係で宝暦九年十月に五名が免ぜられたが、同年十二月二十四日に柳原光房が召し加えられたのみであったため(前冊参照)、その補充である。
 また、本冊では京都所司代の交代もあった。十一月十八日、所司代井上利容は京都を発ち江戸へ下向し、十二月三日に老中に任じられる。八日に井上の老中転任と後任の所司代が阿部正右となったことが禁裏附より伝えられ、十日には老中奉書が披露されている。阿部は翌十一年二月四日に上京し、七日に参内して着任の御礼を行っている。所司代交代のタイミングと重なったため、上京した関東年頭使は前所司代が参内を誘引し、賜暇は新所司代へ伝達するといった変則的な形をとることになった(二月二日条)。このほか幕府の役人に関わる出来事としては、前年に修復したばかりの常御殿の襖が破損したため、検分を担当した京都代官小堀邦直の進退が問題となっている。当初は小堀を再検分に立ち会わせた上で修復を行うことが予定されたが、再検分させて失態が表沙汰となれば小堀は差控などの処分を受けることとなり、そうなれば修復が遅くなるとの意見が禁裏附から出されたため、修理は禁裏の御手沙汰となり、内々に処理されることとなった(四月十二日・十八日条)。
 次に江戸への下向であるが、本冊では、宝暦十年八月十七日から九月二十五日と、翌十一年二月二十日から三月二十七日の二度、東行している。宝暦十年の下向は、前述したように、九月に行われた徳川家治への将軍宣下によるものである。前将軍家重は四月一日に隠居し、五月十三日には江戸城西丸へ移った。替わりに同日、家治と御台所の閑院宮倫子が西丸から本丸へと入っている。書札での呼称については、将軍宣下までは家重は前大樹、家治は右幕下と称することになった(五月九日条)。五月二十一日には所司代から、関東での宣下の規式は九月二日か三日とすること、宣下陣儀の日取りは決定次第伝達されたきこと、御台所の叙位は先例通り将軍宣下後とすべきこと等が示されている。七月二日には将軍・源氏長者・奨学淳和両院別当の陣儀が行われた。なお御台所の従三位叙位は、陣儀から将軍宣下の規式まで日数があるために、先例とは異なり将軍宣下以前に行われることとなった(七月二十五日条)。六月十五日、兼胤と柳原光綱の武家伝奏両人は、将軍宣下の勅使兼親王使を命じられた。女院使は難波宗城、准后使は石山基名、衣文は樋口基康、身固は土御門泰邦に仰せ出され、他に摂家の鷹司輔平と九条道前も参向を命じられた。兼胤と光綱は八月十七日に京都を出発し、二十八日には江戸に到着、九月二日には登城し、将軍宣下の規式が行われた。規式では、告使山科正生が大広間前の庭に立ち、御昇進と二度唱え、その後に左大史壬生知音が宣旨を高家前田長泰に渡し、それを家治が頂戴している。
 宝暦十一年の二月から三月にかけては、年頭勅使として江戸へ下向している。二月二十日に京都を出発し、三月四日江戸着。六日に登城して年頭祝儀を伝達し、その後は能見物・御三家への参賀などを恒例の通り行う。そして、十二日に将軍からの返答・賜暇があり、十四日に江戸を発し、二十七日に帰洛している。相役の姉小路は武家伝奏就任後はじめての下向であり、年頭祝儀の登城の際に就役の御礼を述べている。両伝奏とともに三条実顕・万里小路稙房・荻原兼領の三名、そして千種有補と梅溪通賢が将軍の代替わり御礼に下向している。千種と梅溪の両名は、新将軍徳川家治に由緒があるために下向を強く望んだのであるが、先例が存在しない異例の願いであった。そのため伝奏と所司代との間で数度にわたる交渉が行われ、千種と梅溪が関東に直接問い合わせて了解を得た上で、ようやく認められることとなった(宝暦十年十月十四日・十六日・十九日・十一月十日・十一日、宝暦十一年正月四日・五日・三十日)。
 次に、本冊に見られる主要な事件を紹介しよう。
 宝暦九年四月から九月にかけて、大乗院門跡の大立願いを巡り、大乗院と一乗院の間での違乱の発生が危惧されていたが(前冊参照)、十年八月に現実のものとなった。一乗院門跡尊映親王は八月四日得度の予定であったが、両院の間で得度をめぐる違乱が生じて延引となった。大乗院門跡と一乗院門下などを京都に呼び出して、吟味を行った上で(八月四日・五日・七日条)、関白の取り扱いにより問題は解決し(十一月十六日・二十一日・二十二日・二十四日条)、十二月六日に尊映親王は得度した。
 宝暦八年に顕在化した竹内式部一件(宝暦事件、前冊・前々冊参照)に関係する記事も散見される。五月四日、一件で咎めを受けた徳大寺公城・高野隆古・中院通維の家督相続に関して、関白から仰せがあった。続いて八日には、処罰された各公家から相続や養子、落飾などの願書が提出され、それを受けて二十七日に申し渡しが行われている。
 伏見宮家は宝暦九年六月二日に邦忠親王が薨じて以来、当主不在であった。同年の五月から七月にかけて継嗣について議論が行われ、桃園天皇の二宮の誕生を待ち、相続を仰せ出されることが決定されていた(前冊参照)。二宮は宝暦十年二月二十三日に誕生し、五月二十四日には早速、二宮に伏見宮相続を仰せ出されたいとの御内慮書付が所司代へ差し出された。六月九日には、相続は御内慮通りにするよう老中から返答が来ている。十八日に相続が仰せ出され、姉小路公文が二宮御世話、園池房季と石井行忠が肝煎に任ぜられた。これにともなって、閑院宮・有栖川宮・京極宮・青蓮院宮・勧修寺宮は伏見宮家の世話を免じられ、伏見宮家の殿上人以下へは、世話人及び肝煎の指図に従うようにとの指示が出されている。邦忠親王の姫宮の世話は、青蓮院宮と勧修寺宮、および伏見宮家と由緒のある庭田重煕が行うこととされた。また、一条道香は二宮の外戚ではあるが、心添えは無用である旨も伝達されている。伏見宮家の所領は、二宮へ旧来通り下されることになった(八月十五日条)。
 前年から続く事柄としては、緋宮別居に関する一件もある。緋宮の御殿は、幕府からの進上と道具料をあわせて建設される予定であったが、それでは不足することが明らかになった。禁裏附からは、京都代官が預かっていた緋宮知行地よりの貸付金利用を提案されたが(五月五日条)、結局は取替金に頼ることになった(五月十一日条)。また前年までの緋宮知行地からの貸付金は、そのまま京都代官が管理し、この年の収納分から緋宮の台所に収めることとされた(十一月十五日条)。
 吉田・土御門家からの再触願も前年以来の案件である。吉田家は寛文五年に出された諸社禰宜神主法度、土御門家は天和三年の霊元天皇綸旨の再触を求めている。この願い出は、神職・陰陽師の全国的な組織編成の動きであり、最終的には寛政三年に幕府により全国触が出されている(高埜利彦『近世日本の国家権力と宗教』東京大学出版会、井上智勝『近世の神社と朝廷権威』吉川弘文館)。本冊では、関白の命により所司代への申し入れを行ったことが、八月十五日条に見える。
 以上のほかに本冊には、以下のような出来事も記されている。①愛宕通貫ほか三名から知行を返上して蔵米を拝領したいとの願い出(十月二日条)、九条家から幕府への拝借金の願い出(十一月十六日条)、雑掌の不届きによる持明院家の勝手向き難渋にともなう京都町奉行への掛け合い(十一月二十九日条)など、公家衆の財政窮乏を示す記述が散見される。②二条基子の西本願寺への縁組辞退についての後処理の相談が、所司代との間で行われている(七月十日・十一日・十六日・八月十五日・十一月十日条)。③禁裏小番の不法な行いがあったため、番頭および老輩の者へ取り締まりを強化するようにとの申し渡しがなされた(十一月二十日条)。④徳川家治御台所の閑院宮倫子が懐妊・着帯したため、享保十八年の徳川家重御台所伏見宮培子着帯時の先格通りに、所司代へ祝儀の申し入れを行っている(四月六日・七日・八日条)。
 なお前冊同様、巻末に人名索引を附した。
(例言一頁、目次二頁、本文三〇一頁、人名索引三十六頁、本体価格一二、五〇〇円)
担当者 松澤克行・荒木裕行

『東京大学史料編纂所報』第46号 p.42-45