編纂・研究・公開

所報 - 刊行物紹介

大日本史料第六編之四十七

本冊には、南朝長慶天皇の天授二年=北朝後円融天皇の永和二年(一三七六)六月一五日から、同年年末雑載社寺項途中までを収めた。雑載は、気象・災異、および社寺のうち山城・大和を収録した。政情の安定している京都では、彗星出現への対応が興味深い。彗星は、六月二三日ころに初めて観測され、幕府はいちはやく七月一九日から五壇法と泰山府君祭を修している。北朝は閏七月一五日に、後白河・後鳥羽・後嵯峨の御陵に山陵使を発遣、同月二八日には徳政条々を議定している。一二月一六日には、内裏で熾盛光法を始め、彗星出現も契機のひとつとなっている。北朝関係の記事では、前々年に行った大嘗会に関わる費用徴収が散見される。六月一八日には、春日社領への大嘗会米免除が話題となり、閏七月一〇日には、大覚寺領播磨小宅荘に免除が確認される。幕府も、東寺領や円覚寺領に免除している(七月七日、一〇月四日、一一月二二日、一二月五日条)。また、太元法の阿闍梨について醍醐寺理性院宗助が正統性を主張した史料を、永和二年のものと判断して是歳に掲載した。太元阿闍梨の相承を知る上で興味深い内容である。崇光上皇は、この頃政治の前面には出ないものの、種々の局面に登場し、注意が必要となる。本冊では、一〇月三日に、祇園社執行顕深に播磨広峯社の管領を認め、一一月一一日には、仏舎利一粒を伊勢大神宮に奉納し、祈願している。南朝では、千首和歌詠進が目立った行事となる(是夏条)。夏末に発意され、まもなく長慶天皇・東宮煕成・関白二条教頼が詠進、つづいて花山院師兼や吉田経高も続き、宗良親王が批評・添削を加えた。その経過は宗良千首の跋や耕雲千首一本の奥書で知られる(宗良と耕雲こと花山院長親の詠進は、天授三年是春条に収録する)。作品は、長慶天皇単独、および同題のもと天皇・東宮・関白の歌を並べた形、二種いずれも抄録ながら宗良の付した合点・添削つきで伝わる。新葉集と対照できるものなど、主要なものに限り掲載した。また、北朝でも和歌会は盛んに催され、九月一七日の菊を題とした十首では、十一人による実作が伝わり、掲出した。将軍義満の発給文書は八通収録した。うち袖判下文二通、足利氏満あて書状一通、あとは御判御教書で、そのうち寺院あて一通となっている。活動の幅の広がりつつあるのが確認される。閏七月半ば、義満は病を得て、仁政沙汰、引付沙汰が止められ、幕府では、禅僧による大般若経の転読や理性院宗助による愛染王法が催行されている(一七日条)。また、八月一三日には、夫人日野業子の著帯が行われた。九州では、島津氏久が南朝方への志向を明確にするなか、九州探題今川了俊は大隅・薩摩守護となり(八月一二日条)、了俊の子息今川満範は肥後から日向に入って軍事行動を指揮し(八月二八日条)、南九州の調略に力を注ぐ(七月二〇日条ほか)。北九州では、今川義範が肥前で軍事行動を起こしている(七月一九日条)。情勢の混乱は中国地方も巻き込み、大内満弘や安芸勢(了俊は安芸・備後守護)が九州へと渡海して筑前の今川頼泰に協力する(九月二七日条)。大内弘世に長門・周防守護職を改めて認めた(閏七月一六日条)のも、九州情勢と無縁ではない。素材となる史料の中心は「禰寝文書」などの年欠書状であり、年次比定を慎重に行いながら編纂を進めた。大部な史料として、閏七月一六日、醍醐寺三宝院光済が、先師賢俊の三十三回忌にあたり、結縁灌頂を行った際の記録(祐盛の記)を掲載した。醍醐寺伝来史料からその関連史料を収集し、一部は本文を掲げた。道場三宝院の指図も豊富である。追善仏事ではこのほか、光厳天皇の十三回忌にあたり、七月七日に七僧法会が催行されている。このほか、豊受大神宮の遷宮と火災後の円覚寺の造営の記事も散見する。豊受大神宮の殿舎造営は思うように進行せず、閏七月二日、遷宮の先行などにつき勅問がなされる。こののち、神宮側の記録では造作の進んでいる様子が窺える(八月二一日条ほか)。円覚寺造営では、閏七月一九日に、関東公方足利氏満は、義堂周信を造営都幹縁となし、一〇月二九日には仏殿の上棟が行われる。造営費用についても、棟別銭・関銭・間別銭・料所など多様な財源が提供されている(八月二二日・九月二四日・一〇月二八日・一一月二四日・一二月一九日条)。死歿条では、八月二七日条の卜部(吉田)兼豊の伝記史料が豊富である。孫兼敦の日記から兼豊の関連記事を類従し、書写などの奥書を掲げ、兼豊記とされる文を収載した。また、「迎陽記」(迎陽文集)から追善仏事の際の諷誦文を収録したが、本冊には、雑載を含めてこの史料群からの掲載がおおい。武士では、九月一〇日に歿する仁木義長の伝記史料として、仏事法語やこれまで未収録の発給文書などを掲げた。禅僧では、前建仁寺頑石曇生(七月二七日条)、前南禅寺在庵普在(閏七月四日条、「蒲菴集」を掲載)、明で歿した約庵徳久(九月二四日条)があり、伝記記事は少ないが、八月一六日条に、山城長福寺簡翁思敬の死歿条を立て、史料編纂所所蔵の頂相をカラー挿入図版とした。なお、本冊には、禅僧入寺の綱文が多く、天境霊致の建仁寺再住(七月二九日条)、言外宗忠の入大徳寺(八月一六日条)、龍湫周沢の入天龍寺(同一八日条)、大拙祖能の入建長寺(一二月二一日条)には、入寺法語を掲載した。また、雑載に、天境と龍湫の住持法語を収録した。対外関係では、一〇月是月の高麗使に関わる条、是歳の高麗への倭寇条に、高麗側の詩文集から関連史料を掲載している。本冊の編纂には、前冊までと同様、研究支援推進員鈴木久美の協力を得ている。また、小川剛生氏ほかから史料のご教示を得、京都府立総合資料館、東寺宝物館、宮内庁書陵部など、史料閲覧にお世話になった。改めて謝意を表したい。
(目次一九頁、本文四三〇頁、挿入図版カラー一葉、本体価格一〇、七〇〇円)
担当者山家浩樹・高橋典幸

『東京大学史料編纂所報』第43号 p.29**-31*