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大日本史料第十一編之二十五

本冊には、天正十三年年末雑載のうち、「武家」「医薬・治療・疾病・死没」「学芸・遊戯」「知行・年貢・課役」「訴訟・判決・法制」の各項を収めた。各項ともまず記録類を収め、次にその他の史料を地域ごとに収めている。ただし、「医薬・治療・疾病・死没」「学芸・遊戯」については、それぞれ後に述べるような編集とした。「武家」では、十一月二十一日付豊臣秀吉掟書(二五頁)が異彩を放っている。秀吉の自筆と思われる筆跡で、「きいたか(気居高か)」なる者は「ふちふち(藤鞭)」で叩く、口答えした者は一日一夜緊縛する、などと記されている。無礼な振舞のあった侍女などを、厳罰に処することを定めたものらしい。なお、口答えのくだりは「秀吉・おねゝニくちこたへ候ハゝ」となっており、「おね」の次に明らかに「ゝ」が書かれている。秀吉室の名前については、近年「おね」とされることが多いようだが、この問題に一石を投ずることになろう。本文書はすでに知られたものではあるが、これまで判読・解釈ともにあやふやなままであった。今回の作業によって、一定の前進を得ることができたと考える。このほか、紙数の点では、加冠状・官途状が「武家」のかなりの部分を占めている。その大半は、安芸の毛利氏および対馬の宗氏に関するものである。史料の残り方の偏りがこの状況をもたらしたのか、あるいは毛利・宗両氏に限ってこの種の文書が多用されたのか、興味深いところである。「医薬・治療・疾病・死没」については、まず記録類を収めたのち、①過去帳類(八六頁以下)、②金石銘類(一〇三頁以下)の順序で細項目を設けた。①・②それぞれの中は、地域ごとに配列してある。大和の柳生家厳(新陰流で知られる柳生宗厳の父)が十一月二十一日に死去しており、その過去帳・墓碑銘を収めた(八六頁)。また、信濃の住人の位牌が、七月三日、高野山成慶院に多数建てられていることも目を引く(九九頁)。「学芸・遊戯」の項は、これもまず記録類を収めたのち、 ①奥書類(一三八頁以下)、②茶会記(一四四頁以下)、③能楽(一六三頁以下)、④和歌・連歌・漢詩文(一六五頁以下)の順序で細項目を設けた。それぞれの中は、おおむね日付順になっている。④に収めた「徳大寺公維詠草」(一六五頁以下)は、これまで未紹介の史料である。「知行・年貢・課役」では、「北野社家目代日記」が興味深い(一八六頁以下)。社領に段銭を懸ける際の手続きが明瞭にわかるのもさることながら、手続きの一部を飛ばして賦課を強行した様子や、飛ばされた関係者が激しく抗議する場面などが生々しく記されている。記録以外の史料では、寺社領に関する長大な帳簿が目立つ。東寺領西九条庄の田畑の帳簿(二二七頁以下)、賀茂別雷神社の氏人領の帳簿(二五二頁以下)、興福寺大乗院領の小五月銭の帳簿(二九五頁以下)などがある。中央の大寺社に関するものばかりでなく、能登気多社の「納帳」(三四四頁以下)、紀伊和田庄領家分の「内検帳」(三九〇頁以下)なども見られる。また、地方の大名領に関するものに、伊達氏が出羽東置賜郡から上がる段銭について取りまとめた帳簿がある(三二三頁以下)。これらのうち賀茂別雷神社の帳簿は、同社領の専門家として知られる須磨千頴氏の著作にも言及がなく、今回が初めての紹介・翻刻である。ただし、いずれも大部であるため、原則として一頁当たり二〇行組で収録し、紙数の有効利用に努めた。帳簿以外では、洛中洛外の東寺領や下鴨社領からの年貢収納に関する切符類(二一二頁以下)、毛利氏が備後の土地を家臣に給与する際に作成した打渡坪付(三七五頁以下)、豊前の成恒鎮直が自領の実情を詳細に書き上げた覚書(四一五頁以下)などが目に留まる。「訴訟・判決・法制」には、四月二十七日付葛山与右兵衛尉返答書(四四〇頁以下)を収めた。これは、徳川家康の法廷における裁判で、当事者の一方である葛山が、相手側の主張に反駁する目的で提出した文書である。家康の法廷で取り扱われた訴訟書類の実例として注目される。内容の点でも非常に興味深く、相論の背景として今川氏の没落、徳川・北条両氏の抗争など、著名な政治的事件が次々と登場する。ただし、本文書が天正十三年のものかどうか、論理的に確定できる材料は見当たらず、(天正十三年カ)として収録した。天正十三年年末雑載は、なお「売買・譲与・寄進・貸借・算用・物価」以下数項目が残るが、これらは次冊に収録し、さらに天正十三年の補遺に進む予定である。
(目次一頁、本文四五九頁、本体価格一一、二〇〇円)
担当者鴨川達夫・村井祐樹・遠藤珠紀

『東京大学史料編纂所報』第43号 p.31*-32*