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大日本近世史料細川家史料二十一

本冊には、細川忠利文書の内、諸方宛書状として、寛永十四年一月から同十五年一月途中までの「公儀御書案文」(『公儀御書案文』寛永十四年一月~十月〔整理番号十―廿三―六〕・『公儀御書案文』寛永十四年十月~同十五年一月〔整理番号十―廿三―七〕)所収の三百七十八通、および『寛永十四年鎌倉御逗留中之御文案』〔整理番号八―一―廿九、以下『鎌倉御文案』〕所収の二十五通を収めた。『鎌倉御文案』は、「公儀御書案文」とは別系統であり、より草案に近いものであるが、「公儀御書案文」のうち、忠利が鎌倉へ逗留していた時期の諸方宛書状を補うものである。この間(寛永十四年一月から同十五年一月中旬)の忠利の所在を確認すると、寛永十四年正月は熊本で迎え、三月十二日に熊本を出発、閏三月九日に江戸着、その後、基本的には年末まで江戸に居るが、養生のため十月十六日から十一月四日までの間だけ鎌倉周辺に滞在していた。そして、翌年一月十二日に島原への出陣を命じられ、即日出発している。忠興は、前年末より療治のために京都に赴いており、この間を通じて京都に居た。光尚は、年頭から江戸に居たが、島原一揆の報が伝わると、十一月十五日に江戸を発して九州に向かい、十二月六日に熊本着、同十日には、天草へ出陣、十四日に川尻に戻り、そこから翌年正月二日に乗船し、同四日島原に着いている。十四年一月から二月にかけて、忠利の関心の中心は、家光の子が誕生間近であるとの情報への対応と、江戸参府への出発をいつにするかという問題の二点にあった。前者について、閏三月五日に家光の長女千代姫が誕生するまで、男子誕生の場合も視野にいれて、様々な噂が飛び交っている(三五九三号文書等)。その後、生まれたばかりの千代姫についても、家光が「つぎ木の台」に喩えたり、尾張との縁組みを考えたりしているといった噂が紹介されている(三七七〇号・三八〇五号文書)。後者については、江戸の老中・旗本や肥後近隣の大名(鍋島・立花・相良・有馬(延岡)・木下・稲葉・久留島等)とやりとりをしながら、虚々実々の駆け引きがなされている。当初、忠利は、前々年の武家諸法度の規定通りの四月初旬に江戸に着くべしという江戸からの指図を強調し、自分は閏三月二十日ころの江戸着を想定し九州大名のあとから三月下旬に出発するつもりであることを表明した。これにより、出発を急ぐ周辺大名の早めの参勤を牽制している(三六六六号文書等)。しかし、結果的には、忠利は、予定よりは早めの三月十二日に熊本を出立、閏三月九日に江戸に入った。忠利が当初の言明よりも早めの出立をするにあたり、近隣大名や老中等に示した書状では、京都に居る忠興の病状見舞いが理由としてあげられていた(三七二七号文書)が、忠利は、それ以前に忠興の病状が回復しつつあるとの情報は得ており(三七〇七文書)、出立直後から、江戸着が当初の幕府からの指示よりも早くなる可能性の高いことを予期していた(三七二八号文書)。この時、伊丹康勝から内々に、一ヶ月前に体調を崩した家光の病状見舞いのためには、むしろ早く江戸に来るのが良いとのアドバイスを受けていた(三七二九号文書)。早めに江戸入りした忠利は、表向きは下屋敷内に隠れるが、到着翌日に「内証」でその早着が幕閣から家光に伝えられた。その時家光の機嫌が良かったということを、忠利は菅沼定芳宛の書状の中で記している(三七六五号文書)。次に大きな関心事となるのは、すでに参勤前から忠利に伝えられていたが、家光の「煩」の問題である。一月廿一日に始まった家光の「虫気」は、一進一退を繰り返しつつ、長引く様子を見せた。その間、家光への御目見もなく、老中も家光への言上をはばかる状態となり、幕政は、停滞の様相を見せた。病状の実態について、忠利は、「常ニ少之物おとも御胸ニひゝき申候、物ニ御おとろき被成候由、此段ハおこり不申候時も同事と承候」「おこり申候時ハ、事之外こゝろよハく、はや御煩もおもり候やと思召候様ニ御座候而、さめ候へハつねのことくニ御座候由候事」(三八〇二号文書)等と、島津家久・榊原職直・馬場利重に伝えている(三八〇二号・三八〇三号文書)。忠利としては、この間、鷹野や能等の慰みをしばしば行う家光を見て、すぐに本復はしないが、命にかかわるものとは認識しておらず、「下々の御人に候へは忠利にとって、領地の目と鼻の先で起こった一揆に対しての自藩の対応には、相当神経をつかった。即時の援兵が、豊後目付からの指示によって止められていることに対しては、焦燥感を隠さず、豊後目付に対し、国許の家老たちに島原に続いて一揆の起きた天草への出兵の指図がされることを期待する旨を伝えた(三八七二号文書)。また、他の大名が、細川家の一揆への対応をどのように思っているかにも強く反応し、出兵したくともできない事情を詳細に説明するとともに(三八四六号文書、伊達忠宗宛等)、「加勢も成不申候、目前落城可申時ハ、苦々敷御事と腹か立申候事、思召外ニ候」(三八五〇号文書、菅沼定芳宛)と感情をあえて顕わにし、おそらく、細川の出兵が遅いことを詰問してきたと思われる内藤正重には、天草での即時の軍事行動を躊躇することは「人間たる者ハ仕間敷候、御気遣有間敷候」(三八七六号文書)と答えている。煩ニ而ハ無御座候、我等なとも左様之養生仕度計候」との感想を湘雪守■に以後の忠利書状においては、島原天草一揆の経緯および現地の様子につい漏らしている(三七六一号文書)。家光はこの間、しばしば気晴らしのために能や躍り等を江戸城内で催した。とりわけ、側近や大名に躍りの献上が命じられるようになり、忠利も、八月十五日、家光の面前で柳生宗矩と同席している際に、躍りの献上が命じられた(三八二〇号文書)。それから忠利は、自身の体調がすぐれないのを押して、その準備に奔走し、同月廿八日に江戸城本丸で躍りの献上を行っている(三八二七号文書)。右の躍り献上当日には、忠利本人は、体調がすぐれず登城していない。忠利は、八月九日より、「事之外胸へわきはらの引つめ迷惑」な状態となっていた(三八二三号文書)。九月には、登城もできかねる状態となっており、十月、養生のために鎌倉辺に赴くことを願い出て許可された。ある程度休養した後、鎌倉から戻った直後の忠利の許に飛び込んできたのは、国許の家老たちからの島原一揆の報だった。江戸城へは、熊本の細川家留守居からの報告を受けた豊後目付からの注進として十一月九日に第一報が届いており、即日、板倉重昌・石谷貞清の派遣等が命じられた。忠利は、熊本からの情報を伝えるとともに、熊本に届いた島原城留守居からの状も提示した(三八四四)。忠利にとって、領地の目と鼻の先で起こった一揆に対しての自藩の対応には、相当神経をつかった。即時の援兵が、豊後目付からの指示によって止められていることに対しては、焦燥感を隠さず、豊後目付に対し、国許の家老たちに島原に続いて一揆の起きた天草への出兵の指図がされることを期待する旨を伝えた(三八七二号文書)。また、他の大名が、細川家の一揆への対応をどのように思っているかにも強く反応し、出兵したくともできない事情を詳細に説明するとともに(三八四六号文書、伊達忠宗宛等)、「加勢も成不申候、目前落城可申時ハ、苦々敷御事と腹か立申候事、思召外ニ候」(三八五〇号文書、菅沼定芳宛)と感情をあえて顕わにし、おそらく、細川の出兵が遅いことを詰問してきたと思われる内藤正重には、天草での即時の軍事行動を躊躇することは「人間たる者ハ仕間敷候、御気遣有間敷候」(三八七六号文書)と答えている。以後の忠利書状においては、島原天草一揆の経緯および現地の様子について忠利に届けられた詳細な情報が続く。一揆に関連して、本冊の範囲における忠利自身の関心の中心は、光尚の行動であった。幕府の指示に反して、勝手に天草に出陣したことについては、真田信之への状中で「若きものニハいつれも気遣仕事ニ御座候」と歎いてみせている(三八九四号文書)。また、光尚の島原への出陣がなかなか実現しない状況に対しては、老中・上使・長崎奉行等に対して、再三出陣命令の指図や口添を依頼している(三九〇七号・三九一〇号・三九一一号・三九一二号文書)。この他、本冊の内容もこれまでの冊同様に多様であり、当該期の政治・社会・文化を生々しく伝えるものが多い。とくに注目すべき記事として、朝鮮通信使にかかわるもの(三五六四号文書等)、島津家久の病状にかかわるもの(三六九九号文書等)、曾我古祐に語った忠利の家光評(三六〇四号文書)、腹赤贄の後水尾院への献上に関わるもの(三六三九号)、木下延次の領地内分に関わるもの(三七一二号・三七一三号文書)、松井康重家中と町人との大喧嘩(三七八九号文書)、伴天連金鍔次兵衛の捕縛(三八一一号文書)、木下利房旧蔵玉澗筆瀟湘八景図内山市晴嵐図に関するもの(三八四五号文書)等があげられる。
(例言二頁、目次三三頁、本文四三六頁、人名一覧三〇頁、本体価格一三、五〇〇円)
担当者小宮木代良・木村直樹

『東京大学史料編纂所報』第43号 p.32*-34*