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大日本史料 第八編之四十

本冊には、延徳二年(一四九〇)十二月一日から同月三十日までの一ヶ月間を収録した。
本冊で特筆すべきは、薨卒の条の多いことである。わずか一ヶ月間でありながら、事蹟を収録した者は、赤松範行(三日第三条)、芳苑恵春尼(十一日第二条)、畠山義就(十二日第二条)、観心院賢誉(十五日条)、飛鳥井雅親(二十二日第二条)の五人を数える。同月は、ユリウス暦では一月十日から二月八日にあたり、真冬であることが一因をなしているかも知れない。
芳苑恵春尼は、後土御門天皇の同母姉で、将軍義教の意により比丘尼御所安禅寺に入って住持となった。その人となりは、菅原正子「天皇家と比丘尼御所」(服藤早苗編『歴史のなかの皇女たち』〔小学館、二〇〇二年〕所収)に「世話好きで面倒見がよい女性」と評されるとおりである。例えば三条西実隆が十六歳のころ後土御門天皇の意に違うことのあった際には、天皇に取りなしており、実隆はこれを深く恩義に感じていた。また、父後花園院の没後、安禅寺は常にその法事の場となり、彼女の後半生は父の菩提を弔うことに費やされたと述べても過言ではない。そして、思い残すことはないかと尋ねた天皇に対し、恵春尼が望んだのは大徳寺養徳院春浦宗煕に対する賜号であった。叶うならば生前にとの言葉に動かされた天皇は、宗煕に正続大宗禅師の号を与えている(一日第二条)。賜号の勅書に「因安禅之攸奏、知嗣法之有真、」(四頁)と載せる所以である。
畠山義就は、応仁の乱の発端となった御霊合戦の一方の当事者で、乱中は西軍の主将、乱後も河内に拠って独力で幕府に抗した猛将として知られる。東京大学史料編纂所報第42号2007年10月( 32)当初その病死は秘匿されたらしく、情報通の大乗院尋尊も、正確な卒日を掴むことは困難であった。文安五年に持国が義就を家督継承者に定めて以後の畠山氏の家督をめぐる動静については、近年、今谷明・設楽薫・弓倉弘年らの研究によって解明がすすんでおり、義就に即して基本的な史料を収めた。これらを総体として眺めた場合、『応仁略記』の記述の正確さが注目に値しよう。例えば、義就の傅育役となった隅田佐渡入道父子の専横が被官中に軋轢を生じたとする記述は、『蔭凉軒日録』延徳三年七月十六日条に窺われる畠山家中における隅田佐渡入道の位置付けと併せて検討する価値があるだろう。また、独力で地域支配を行っただけに、その施策には軍事的な性格が濃厚で、本所の代表ともいえる尋尊からは仏敵と称された。諸事蹟を総合すると、果断にして軍事的な才幹に富むが、猜疑心の強い人物像が浮かび上がってくる。なお、応仁の乱の終息にともない河内に下国するにあたって東寺に納めた願文(『東寺文書』)を挿入図版として収めた。
観心院賢誉は、醍醐寺三宝院門下の院家で、俗姓は武者小路隆光の子息である。門主義賢の没後、法流の相承について自らを恃むところがあったが、平民出身の中性院重賀が義賢からの附法状を示したため、度を失ったとの逸話を残す。延徳元年夏に関東に向けて下り、京都において重賀が没したわずか四ヶ月後に伊豆で横死している。醍醐寺にはその手にかかる聖教が少なからず残されており、『醍醐寺文書聖教目録』によってこれを収めた。
飛鳥井雅親(法名栄雅)は、歌鞠両道を家業とする家風をよく伝え、同家で初めて大納言に昇った人物である。祖父雅縁以来、幕府と深い関係を有し、歌道家として重要な位置を占めたが、雅親も、父雅世が撰者を務めた最後の勅撰集『新続古今集』の撰集に参画し、二十代前半で五首の入集を果たすとともに、応仁の乱で頓挫した二十二番目の勅撰集(いわゆる寛正勅撰)の単独撰者にも挙げられた。『新続古今集』入集者で最も遅く没したのは雅親なので、最後の勅撰歌人と呼ぶこともできる。蹴鞠についても公武の師範を務め、伝書も少なくない。典籍を書写したことも多く、本冊では奥書を集成した。応仁の乱前は京都にあって義政に親昵し、乱後は近江柏木に退隠しつつ歌鞠の権威として公武の尊崇を集めた。その人となりは、穏健中庸の語を以てして大過あるまい。東京大学教養学部所蔵『飛鳥井家和歌関係資料』から禁裏に充てた仮名消息を挿入図版として収めた。
つぎに事蹟以外に目を転じよう。この間、幕府については、前月に悪化した義視の健康状態が回復しないままであったため、目立った動きは見られない。幕府関係でめぼしい記事を収める史料は、ほぼ『蔭凉軒日録』に限られる。禅院の人事(坐公文を含む)以外でまとまった記載としては、幕府の主催した義政の一周忌仏事の預修(七日条)がある。東山の慈照院(翌年、慈照寺と改称)で行われたこの仏事に、義材は義視の病気を理由に臨席しなかった。さらに、義視・義材父子と軋轢を生じていた日野富子も、これには臨まず、翌年正月七日の正忌に独自に仏事を行っている。義政の死去から一年を経て、幕府周辺の亀裂が固定化しつつあったことの表れとみることができる。
かかる動向の一環として捉え得るのが、細川政元の摂津下向(三日第二条)である。政元は、義視・義材父子に対面ののち下向しており、表立って反抗していたわけではない。表向きは狩猟を理由にした下向だったようだが、幕府の年頭儀礼をサボタージュすることが目的だとの風評があり、幕政に対する非協力の姿勢を示したものと捉えるべきである。
一方、禁中関係に目を移しても、義視の病気の影響の大きさが窺われる。ひとつは、義視の病気平癒の祈として内侍所御神楽の行われたこと(十一日第一条)である。これは幕府の要請にもとづき、その費用負担で挙行されたものだが、義材の側近葉室光忠と後土御門天皇の側近忠富王との交渉により決定された金額は、本来の必要経費の八掛けであったという。
いまひとつは、後土御門天皇の病気(二日第一条)に際して表れる。天皇は数日にわたって腹を病み、一旦はかなり重篤な症状を呈した。その治療にあたり投薬を行ったのは祖舜蔵主という禅僧だが、後日療治の賞に与かったのは医師竹田定盛であった(二十一日第一条)。祖舜は定盛の子であり、定盛の処方に従って医薬を調製したものと思われる。果たして、壬生晴富は定盛が良薬を献じたという風聞を記している。ここで定盛自身でなく、祖舜が出仕したことも義視の病気に由来していた。義視の治療にあたっていた定盛は、前月二十五日に効験がないことを理由に解任され、天皇も幕府を憚って禁中に召すことができなかったのである。そのため、天皇は葉室光忠を通じて幕府の諒解を得て、ようやく定盛を禁中に召すのだが、その出仕が叶ったのは、天皇がほぼ回復を果たした七日のことであった(六日条)。
禁中関係ではこれ以外に、江南院龍霄の申請・三条西実隆の仲介により美濃立政寺を勅願寺としたこと(九日条)、同じく実隆の仲介により、天隠龍沢が建仁寺大昌院内に設けた観音堂に勅筆の額を与えたこと(二十六日第一条)などが目立つ。ほかに、この年三月閉籠した土一揆の放火で焼失した北野社の社殿について、仮殿が出来上がって遷宮を行ったこと(二十六日第二条)もまとまった記事を有している。
本冊の編纂、殊に飛鳥井雅親の事蹟に関しては、多数の方からご教示を得たが、なかでも井上宗雄・小川剛生の両氏には種々格別のご助力を賜った。記して感謝の意を表したい。
(目次七頁、本文四六七頁、挿入図版二葉、本体価格一二、〇〇〇円)
担当者末柄豊・前川祐一郎

『東京大学史料編纂所報』第42号 p.32*-34*