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大日本史料 第二編之二十九

本冊には、後一条天皇の長元二年(一〇二九)十月から、同三年(一〇三〇)七月までの史料が収めてある。この間の主な事柄としては、後一条天皇の石清水八幡宮行幸(二年十一月二十八日の第一条、九二頁以下)及び賀茂社行幸(十二月二十日の条、一一〇頁以下)、東宮敦良親王妃禎子内親王の御産(同月十三日の条、一〇六頁)、太政大臣藤原公季の薨去(十月十七日の条、四頁以下)、疫癘の流行などがあげられる。石清水八幡宮并に賀茂社行幸については、二年二月頃より準備が進められ、三月二十九日には日時を始め行幸行事等が定められたが、関白左大臣藤原頼通の重病に依る上表等(九月十二日の条)のためか延引し、改めて十一月八日に行幸定が行われている(同日の条、八三頁以下)。この後、行幸の御祈に依る七社奉幣(十七日の条、八七頁以下)・諸社御読経(二十日の第二条、八九頁)等が行われ、二十八日には石清水八幡宮(前掲)、次いで十二月二十日に賀茂社行幸が行われている(前掲)。
かねてその病と太政大臣辞任についての風聞が伝えられていた(九月十四日の第二条)公季は十月十七日に七十三歳で薨じたが(前掲)、二十二日には薨奏が行われ、正一位が贈られるとともに甲斐国に封ぜられ仁義公と諡されている(同日の条、七七頁以下)。また二年秋以降、京中に福来病が流行し、公卿廷臣等の多くが罹病したが、三年三月以降、庚飯病とも伝える疫病が流行し、疫癘祈禳の為の十六社に於ける仁王講(三月二十三日の第二条、二〇三頁以下)を始めとして、大極殿に於ける大般若御読経(四月二十六日の第一条、二二〇頁以下)・同殿に於ける寿命経読誦(五月十九日の条、二三六頁以下)・臨時仁王会(六月二十日の条、二九〇頁以下)等の仏事や鬼気祭(同月九日の第一条、二五八頁以下)が行われるなどしたが、五月二十三日には五畿七道の諸国に官符を下して、丈六観音像一体并に請観音経百巻の図写と同経の転読を令している(同日の条、二三七頁以下)。なお、この時期の主要な記録である右大臣藤原実資の日記「小右記」は「小記目録」を残すのみで、二年十月より同三年三月に至る本記を闕くが、右大弁源経頼の日記「左経記」もやはり本記を闕き「類聚雑例」を存するばかりであり、その詳細を明らかにすることを得ない。
藤原頼通の行動についてみると、前年に重病を患ったためかその寺社参詣に注目される。二月に石山寺に参詣した(二月十九日の条、一五八頁以下)後、四月には賀茂社へ参詣(四月二十一日の条、二一九頁)し、次いで金峯山精進を始めている(二十六日の第二条、二二二頁以下)。その詳細は明らかでないが、翌五月には延暦寺、次いで河内知識寺への参詣を果たしている(五月二十六日の第四条、二四四頁以下)。
この他、藤原実資に関する事柄として、その病と養子である権中納言藤原資平の妻子の罹病と死去をあげることが出来る(四月七日の第二条、二一一頁以下)。なお、その日記「小右記」には女婿藤原兼頼に関する事柄が頻出するようになる。また他に注目すべき事柄として、京中に於ける火事の頻発に関する記事(二年十一月二十四日の条、九二頁・三年三月八日の第一条、一七五頁以下・四月十七日の条、二一八頁・同月三十日の第二条、二二六頁以下・五月二十六日の第二条、二四〇頁以下・同月二十八日の条、二四九頁以下・六月六日の条、二五五頁以下)、平忠常の乱に関する記事(二年十二月八日の条、一〇五頁以下・三年三月二十七日の条、二〇七頁以下・五月十四日の条、二三五頁以下・六月二十三日の第一条、二九三頁以下)、不法造宅の制に関する記事(四月二十三日の条、二一九頁以下・五月二十六日の第二条、二四〇頁以下・六月二十三日の第二条、二九五頁以下)などがある。
本冊に於いて、その事蹟を集録した者は、藤原公季(前掲)・石清水八幡宮司紀兼輔(十一月二十八日の第一条、九五頁以下)・大中臣宣茂(二年年末雑載、社会の条、一二一頁以下)・度会季光(同条、一二三頁以下)・平為幹(同条、一二四頁以下)・主計頭賀茂守道(三年三月四日の条、一六五頁以下)・権大僧都永昭(同月二十一日の第一条、一七九頁以下)・石清水八幡宮寺検校法印定清(同日の第二条、一九三頁以下)・故為平親王室尼(五月二十七日の条、二四五頁以下)・権少僧都念覚(六月一日の条、二五一頁以下)・前大僧正済信(六月十一日の第二条、二六一頁以下)・弾正尹清仁親王(七月六日の第一条、三〇〇頁以下)・右中弁藤原賴任(同月是月条、三一八頁以下)などである。
(目次一三頁、本文三三〇頁、本体価格八、一〇〇円)
担当者加藤友康・厚谷和雄

『東京大学史料編纂所報』第42号 p.30*-31*