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大日本古文書 幕末外国関係文書巻之五十一

本冊には、文久元年三月一日から十五日(西暦一八六一年四月十日~二十四日)までの史料をおさめた。本巻に収録した約二〇〇点の史料のうち、四割近くが外務省引継書類など本研究所所蔵のもの、約三割が国内・海外で収集した和文史料、残り三割が外国史料の翻訳という構成比になっている。
三月一日、英本国では、横浜への一時的退去が公使の江戸駐箚権放棄と看做されないよう注意を喚起するラッセル外相の訓令が発信されている(第六号)。この訓令では、一八六二年一月一日(文久元年十二月二日)に迫った江戸開市期限についてオールコックの意見を求めており、日本側の延期要求はまだ伝わっていない。モス一件で香港へ向かった英国公使オールコックは長崎に立ち寄り、三月九日、モリソン領事の報告をふまえて日本貿易の有望性について本国へ書き送った(第四六号)。その前日、留守中の情勢報告を委ねられた書記官代理マイバーグは、早くも日本情勢は静謐との報を外務次官ハモンドへ向けて発信した(第四一号)。オールコックの離日によって、外交面での英国の動きは極端に少なくなっている。
三月三日、オランダ側の二度にわたる催促を受けて、ヒュースケン暗殺事件後の江戸退去通告への老中返書が総領事デ・ウィットへ対して送付された(第一六号)。もはや二か月以上経ち、文案も大幅に書き直されている。一〇日には領事館横浜移転を認める書翰が出されたが、これも十二月に手交された筈のものであった(第四九号)。
幕府は米国公使ハリスに、新規条約締結中止の意向を諸外国へ報知するよう依頼し、ハリスはその依頼書面案を自ら作成したが(巻之四十八第一号)、この文面は「書取」案に作り直された(第四号)。ハリスの手元から不特定の他国へ回覧するという目的で作られたためか、外交書簡の分類としてはnotecirculaireに相当するものとされ、幕府側はこれに老中「書取」の名称を付与している。ハリスは十三日に老中と会見し、箱館輸出免状や保税倉庫、蝦夷地における鉱山技師招聘の問題などを話し合った(第六二号)。技師招聘の依頼状は翌日付で出されている(第七二号)。ハリスは染井へ花見に出かけたようである(第七三号)。
仏国公使ド・ベルクールは、相変わらず怪しげな日本情報を発信し続けている。彼はオールコックの香港出発など駐日外国代表の動向を報知(第一九号)する一方、「文久」への改元(二月二八日)に関して、ミカドが死亡して「教皇選挙会議のようなもの」が行われるという情報を真に受けており、合わせて主要大名の資産一覧(石高か)を入手したと報じている(第四七号)。
さて本巻でも焦点となるのはロシアの動向である。その出府意図があれこれと取り沙汰されたゴスケヴィッチ領事だったが、安政六(一八五九)年のモフェト少尉殺害事件の連座責任を負わされた神奈川役人の宥免を希望する書翰を手交すると、七日朝には江戸を離れた(第二〇号)。開市開港延期に関する皇帝アレクサンドル二世宛将軍書翰と外務大臣宛老中書翰が三月十四日付けで作成され、交代勤務で箱館へ向かう奉行村垣範正(外国奉行兼任)へ託された(第七〇・七一号)。この書翰が無事にロシア政府のもとに渡ったことは、最近のロシア史料調査(一八六一年十二月のアムール委員会議事録)によっても明らかだが、残念ながらオリジナル書翰は未調査である。
ロシア艦ポサードニク号は対馬停泊を続けていたが、その問題に入る前に、もう一人の登場人物を紹介しておかねばならないだろう。フォン・シーボルトである。安政六年再度の来日をはたしたシーボルトは、三月十日ついに横浜へ至り、三日後には神奈川奉行松平康直と会見している(第七七号)。この会見でシーボルトは、しきりにオランダとロシア・プロイセンの修好関係を説き、「加勢」すれば英仏への押さえとなることを強調している。すでに故保田孝一岡山大学名誉教授の研究によって、シーボルトとロシアの結びつきを示す史料が具体的に明らかにされており、本巻でも関連するロシア史料を収録した。三月十三日、リハチョフ司令長官は本国のコンスタンチン大公へ半公信を発し、ポサードニク号が対馬に到着したことを含め、日本および中国情勢を報告したが(第六八号)、このなかでリハチョフは、シーボルトの貢献に触れ、彼が死後自分の日本コレクションをロシア皇帝に贈与するという遺言を残したと書き送った。この事実は同日付けでシーボルトへも知らされ、不断の連絡を乞う旨が要請されていた(第六九号)。この後者の仏文書翰原文は、長崎市のシーボルト記念館が所蔵するフォン・ブランデンシュタイン家所蔵文書マイクロフィルムから収録した。リハチョフの書翰案はロシア国立海軍文書館のファイルに存在する。
さて対馬情勢であるが、二月二九日、新たに来航したナエズドニック号は三月一日に退帆した(第一五号に同艦士官の秘密保持誓約書を収録)。宗家では家中の動揺が広がったため、失脚していた家老仁位孫一郎を再登用して現地の対応にあたらせ、家中へは自重をうながす指示をおこなった。ポサードニク艦は相変わらず浅茅湾を乗り回し、二日には上陸して勝手に材木を伐り出す事件をおこした。仁位らが掛け合っても、艦長は出てこず、副官が代金は支払うというばかりの回答ぶりであった。三月七日には、小船で接近した給人武田吉之助が艦内に拉致されるという事件も発生した。武田は翌朝無事に返されたが、ロシア側が要求した大工派遣や材木供給については、仁位の判断によって容認する問情がおこなわれた(第五・一四・一七・一八・三九・五二号)。この間幕府に対しては、二日付で二通の届書が作成されたが、江戸で提出されたのは四月二三日と五月五日であり、その後に作成された十三日付報告のほうが後者より早い四月二七日に提出されるなど、幕府への情報伝達には乱れがあった(第一二・一三・六六号)。三月一〇日、宗家は幕府へ指揮を嘆願する書状をしたため、五月三日に江戸で提出することになる(第五一号)。長崎奉行岡部長常は、十二日付でポ艦ビリレフ艦長宛に退去勧告文を送ったが、ビリレフがこれを開封することはなかった(第五七号)。ビリレフは密かに、対馬租借を拒否された英国が報復を企図しており、ロシアが味方するので宗家当主に面会したいこと、大砲配備や砲術伝授で協力することなどを伝えたという(第六七号)。
上記一件については、引き続いて韓国国史編纂委員会およびロシア国立海軍文書館の所蔵史料を中核的な史料として収録することが出来た。
次に、長崎・箱館(蝦夷地)関係を見ておこう。
長崎では、英国の居留地拡大要求が動き出しており(第二三号)、長崎奉行から江戸詰への書翰によってシーボルト出府や蒸気艦建造問題などの動向を知ることができる(第二七・三一・六〇・六五号)。長崎製鉄所関係では、残留技師や機械契約に関するやりとりがあり(第九・一〇・二二・四二号)、幕府との残債処理に対する総督府の指示などがある(第四三号)。残債が、東京大学史料編纂所報第42号2007年10月( 40)日本の銅・蝋・樟脳輸出と相殺されていることは面白い。オランダのデ・ウィット総領事は、西洋の港湾規則について情報提供を申し出るとともに武雄温泉行を願い出ている(第五九・六五号)。
長崎関係で特記されるものは、蓮池鍋島家中処罰の一件史料(第四四号)かもしれない。前年十一月、数人の日本人が、酩酊の上米国人宅に投石して二名が取り押さえられた。米国領事の口利きもあり、長崎奉行所の吟味では無宿人という扱いで追放処分となる。ところが彼らは蓮池鍋島家の家中で、台場詰の武士であった。奉行所の隠密方によれば、帯刀せずに長崎で遊んでいたところ米国人宅で騒動となり、あまつさえ異人に取り押さえられて脇差を奪われるなど国辱の至りであると、本藩の鍋島斉正が激怒、三人を斬罪(一人は追放)に処したというわけである。
一方北蝦夷地では、ウショロ領の住民が山丹交易に関連して「洋銀」二枚を所持していたことが発覚し、引き換えたことが報告されている(第四〇号)。同地の警衛については、仙台・鶴岡・会津・久保田の四家が隔年交代で務めることが取極められ、さらに警衛目的の際には船改めを受けずに直航して良いことなどが定まっている(第二八・三三号)。同地の国境談判について、箱館奉行村垣範正は北緯五〇度の交渉委任を願い出ている(第七八号)。配下の要請(巻之四十九第三二号)などとともに基本史料である。
箱館では、英国人の南部領上陸問題(第三七・七六・七九号)や市中発砲人の取締問題(第五八・七五号)、脱走船員収監要請(第六三号)など、次々と事件が起きた。なかでも、前巻に登場した米国人領事裁判の件では、隠売女をかかえ、痴情のもつれからそれに暴行した米国人が閉門・罰金の判決を受けている(第三・二六・三〇号)。翻訳が稚拙なためか細部が読み取りにくいが、当時の箱館社会を知る上でも大事な史料である。裁判記録は米国領事館から送付されたのち、翻訳されて江戸の老中に提出されていた。
もう一件、入り組んだ一件史料(約三〇点ほど)を取りまとめて収録することができた。英商ポーターが関与する昆布販売にからんだトラブルである(第二五・五五・六四号)。伝次郎は昆布十五万斤をポーターへ売り渡す約束をしておきながら、品物を引き渡さなかったため、ポーターが召し使う中国人に呼び出されて監禁され暴行を受けた。英国領事代理ユースデンは約束の履行を箱館奉行へ要求したが、奉行勝田充は暴行事件の解明が先だと主張して、十一・十三の両日、領事裁判が開催されるのである。その結果中国人二名は傷害・監禁の罪で罰金五〇ドルと決し、続いて箱館奉行所で昆布取引の件が吟味され、四月四日に申渡しがあった。これによると、自称「仲買」の伝次郎は、仲介者の周蔵らに荷主への手付金を支払い、ポーターと契約したが、その後に手付金不足として破談になったという。周蔵らは出奔して行方知れずとなり、荷主もそんな取引は知らないと証言したため、伝次郎は元手も不十分なままにいい加減な取引を行った罪で、手鎖三〇日と外国人取引停止の処罰となったのである。一方これに先立ち、ポーターは別途契約した昆布取引でも争いを起こしており、相手人利右衛門は運上所の吟味でポーターを「バカ」と呼んだとして手鎖処分を受けている。いずれも箱館での商取引と領事裁判の有り様を知る興味深い史料群である。
このほか本巻に収録した史料には、英字新聞で素行(茶屋の女性を暴行)を批判された長崎のモリソン英国領事が、記事は不当かつ根拠の無いものだと批判・弁明する一件史料(第五六号)や、長崎を引き払ったロシア艦隊の軍医による水兵の健康状態報告などがある(第二九号)。後者では梅毒が問題になっている。三港の居留地地代の一件などは、貸借料の基本的な資料データとなりうる(第四五号)。また、アロー戦争での英仏軍雇用船はオランダの保護下におかないとする総督府の決議(第八号)や日本船への蘭国旗掲揚問題など(第三八号)、国際法に関係する興味深い史料も収めた。小笠原派遣船の準備に関する評議史料も大事である(第八〇号)。
(例言二頁、目次二八頁、本文四七一頁、往復書翰一覧二頁、略号一覧一頁、本体価格一〇、八〇〇円)
担当者小野将・保谷徹・松澤裕作・横山伊徳

『東京大学史料編纂所報』第42号 p.39*-41*