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所報 - 刊行物紹介

大日本近世史料 広橋兼胤公武御用日記八

本冊には、宝暦八年(一七五八)正月より同九年三月までの「公武御用日記」と、宝暦八年正月より四月及び同九年正月より三月までの「東行之日記」を収めた。
宝暦八年の兼胤は四十四歳。官位は前権大納言・正二位であったが、九月二十一日に権大納言に還任している(翌年の二月七日に辞任し、再度前官となる)。年頭勅使としての関東下向は、宝暦八年が二月二十九日出立、四月十二日帰洛。同九年が二月十九日出立、三月二十一日帰洛である。宝暦八年の下向の際は、江戸を目前としながら舅の松平忠弘(信濃上田藩主五万三〇〇〇石)卒去の報に接し、忌掛となるアクシデントに見舞われている(三月十日条)。嫡男の伊光もこの年には十四歳となり、四月二日には右小弁に任ぜられて出仕し、九月十八日には蔵人・左小弁へと昇進を果たしている。また、宝暦九年の春からは小番を勤めるとともに近習に召し加えられ(宝暦八年十二月二十八日条)、朝廷内で順調に歩を進めている。
本冊に見える大きな人事移動としては、宝暦八年十月十八日の京都所司代交替がある。宝暦六年五月より所司代の任にあった松平輝高が老中に昇任し(十月二十五日条)、代わって大坂城代の井上利容が十一月二十八日に新所司代を拝命する(十二月五日条)。新所司代の井上は遠州浜松城(六万石)を賜り、翌宝暦九年正月二十五日に着任をしている。
朝廷内の人事では、議奏の正親町三条公積と東久世通積が辞役を申し出で、それぞれ六月十七日と八月十二日に御役御免を仰せ出されている。当時五十一歳であった東久世の退任は所労によるものであったが、正親町三条については、宝暦事件に関連した事実上の罷免である。欠員は直ちには補充されず、議奏は姉小路公文・葉室頼要・五辻盛仲の三名だけとなった。剰え、葉室が故障のため十月三十日から十二月二十日まで二ヶ月近くも参勤不能の状態となり、五辻もこの時期、出仕が叶わないことがあったようである(十二月二十二日条)。そのため、山科頼言と平松時行に議奏加勢が仰せ付けられることとなった(十二月二日条)。山科・平松の両名は翌年の二月十五日に本役を仰せ付けられ、ここに漸く議奏五人体制の常態に復している。
宝暦事件の処罰は近習(近臣)の公家衆にも及び、宝暦八年の六月から七月にかけて、徳大寺公城をはじめとする多数の者が近習を除かれている。そのため、その補充が必要となり、飛鳥井雅香以下六名が新たに近習に召し加えられている(宝暦八年十一月二十四日条)。
そのほか、女御肝煎が姉小路公文から五辻盛仲に(宝暦八年七月二十七日条)、女院肝煎が平松時行から植松賞賀に(宝暦九年二月十五日条、相役の綾小路俊宗は続投)、それぞれ交替をしている。
女官に目を移すと、大御乳人を勤める土御門連子に不都合があり、宝暦八年八月十六日より里に退出し(八月十九日条)、二十一日には所労と称して御暇となっている(八月二十二日条)。実家に戻った彼女は「ふき(富貴)」と名乗り、番人を付けられ、座敷牢同然の厳しい監視下に置かれている(宝暦九年正月十三日条)。そのほか、御差の周防が一人にて長年精勤せることを賞され、二十石加増されたこと(宝暦八年九月二十八日条)、内侍が無人のため、鷲尾隆煕の女が御傭として出勤を申し付けられたこと(宝暦八年十二月二十一日条)などが見える。
続いて、人事以外の大きな事件について紹介しよう。
宝暦八年の朝廷は、女御(一条富子)の懐妊という慶事で始まった。正月七日、禁裏附から両伝奏に、女御懐妊との風説を耳にしたが事実か否かの問い合わせがなされた。両人とも初耳であったので返答できず、大御乳人に密々尋ね合わせたところ、確かに懐妊の様子であり、既に五ヶ月ほどであると思われる。ただし、いまだ医師などには診させておらず、十五日に拝診が予定されているとの返答であった。二十四日になって漸く大御乳人から懐妊治定のことが報ぜられ、禁裏附へは翌日その旨を申し聞かせている。女御は五月二十六日に着帯し、そのまま里元である一条道香亭へ退出する。出産は七月二日の戌刻であり、降誕したのは皇子であった。後に即位して後桃園天皇となるこの皇子は桃園天皇の第一子であり、八日に若宮と称され、二十七日には姉小路公文と愛宕通貫が若宮肝煎に仰せ付けられた。若宮は八月四日に、女御は九月十八日に、それぞれ一条亭から女御御所へ移徙・還御している。十二月になると両伝奏は御前に召され、来年五月に親王宣下を執り行いたきこと、親王御料を関東より進献あるべきこと、宣下後も若宮は暫く女御と同居すべきことなどの御内慮を承っている(十二月二日条)。年が替わり宝暦九年正月十八日には、今より皇子を儲君と称すべきことが仰せ出され、三月二十一日には、五月の立親王宣下に先立ち、生母である女御へ准后宣下がなされている。
こうした慶事の一方で、同年の朝廷は、八十宮吉子内親王の薨去という凶事も経験する。周知の通り、吉子内親王は霊元天皇の皇女で、七代将軍徳川家継に降嫁することが約されていた人物である。しかし、家継が夭折したことにより降嫁は実現せず、山城国の西院村・中島村・石田村内で知行五〇〇石(「基量卿記」享保元年七月二日条)と合力金年二〇〇両(「院中番衆所日記」享保十四年十月二日条)を進献され、幕府が世話する築地内の屋敷(十一月六日条)で不婚のまま暮らしていた。宝暦八年にはいまだ四十四歳であったが、痢疾と口中の吹き出物とに悩まされるようになり、ついには絶食、重態となる(九月十四日条)。九月十八日には容態書が天皇に披露され、ついに二十二日の申下刻、薨去となった。朝廷では三日間の廃朝となり、関東からも三日間の鳴物停止が申し越された。もっとも、普請は構いなしとされ(九月二十七日条)、葬儀と法事は他の宮方並みとし軽く取り計らうよう、関東より指示がなされている(十月三日条)。
また、この年には宝暦事件が起き、兼胤と相役の柳原光綱は六月からその処理に追われることとなる。宝暦事件の顛末とその歴史的意義については、徳富猪一郎『近世日本国民史宝暦・明和篇』、高埜利彦「後期幕藩制と天皇」(『講座前近代の天皇』第2巻)などに詳しいが、それらの研究は主に、本冊に収めた「公武御用日記」の記事を基本史料としている。本冊の刊行により、宝暦事件の主立った経緯を通覧することが可能となったわけである。
注目すべき記事をいくつか紹介しよう。①宝暦八年七月十五日条と八月二十一日条には、門弟への講談における竹内式部の言説が記されている。式部は、人々が将軍の貴きのみを知り天子の貴きを知らざることを歎き、その原因は天子・廷臣の不学不徳・非器無才にあるとし、垂加流を学んで五常の道や徳を身につければそうした状況は改まり、やがては将軍より朝廷に「天下之政統」が返上され「如昔公家一統ノ御世」になるであろうと説いている。また、保元・平治物語や太平記などを引いて当時の出来事と比べて説いたり、将軍徳川家重のことを「月代あたま之内大臣」と嘲弄し、公家衆についても「今之公家ハ実之公家ハ一人も無之、又只今食候米ハ本之米ハ不食」などと批判している様子も見える。②七月二十三~二十五日条には、摂家の要請を受けて式部の再吟味に乗り出した所司代が、徳大寺家より式部へ暇を出すタイミングについて、伝奏と遣り取りをしている様子が記されている。公家家臣に対する検断権行使に関わる幕府の意識が窺える。③七月二十六日条と八月十四日条には、門弟堂上の処分について、人数が多く役儀にある者も処罰されたにもかかわらず、武家伝奏より事前に関東へ掛け合いのなかったことが、所司代により問題視されていることが記されている。兼胤と光綱は、この度のことは摂家中で取り計らい急に仰せ出されたので、自分たちは詳しいことを知らないと弁明し、摂家からも所司代に、隠密裏に急ぎ取り計らった事情が説明されている(八月二十日条)。しかし結局申し訳が立たず、両伝奏は不行届を詫びる答書を所司代へ差し出している(八月二十一日条)。④八月二十日条には、式部門弟の近臣による、桃園天皇への内奏の内容が記されている。式部の学説受容の必要性を説くのみならず、若き天皇への影響力を有していた女院(青綺門院)や、朝廷運営の要である関白・武家伝奏などを、天皇から遠ざけようと企てていた様子が窺える。⑤九月十一日条と十五日条には、門弟堂上による武器購入の噂に対する所司代の厳しい詮議が行われる中、そのことによって、武官を経歴する公家衆の武具購入に差し障りが生じぬよう配慮されたい旨、所司代へ要請していることが見える。
なお、本冊の底本となった兼胤自筆の日記原本は虫損が甚だしく、残画による推定のほか、明治期に史料編纂所が作製した謄写本「兼胤記」(架番号:二〇七三―一〇二)によって校訂を行い、欠損文字が確認しうる場合は注記した。また、前冊まで人名注は各月の初出箇所にのみ付していたが、本冊より各日ごとに付すこととし、利用者の便を計る工夫を試みた。
(例言一頁、目次三頁、本文三一九頁、本体価格一二、五〇〇円)
担当者松澤克行・山本博文・荒木裕行

『東京大学史料編纂所報』第42号 p.35*-37*