「洛中洛外図屏風と研究史の概説」 藤原重雄

※Web版のみのメモ。黒田日出男『謎解き 洛中洛外図屏風』(岩波書店、一九九六年)に倣い文中敬称は割愛。2008年10月UP。

《学生さんご注意》 レポート課題へのコピペ禁止!
※学習のお手伝いをしています。手抜きの幇助は致しません。図書館へ行こう→http://webcat.nii.ac.jp/


一、洛中洛外図屏風の眺め方

 京都の景観をパノラマ的に屏風に収めた絵画作品を洛中洛外図屏風と総称し、特に十六世紀の作品を初期洛中洛外図屏風、江戸時代に入ってからの類型を第二定型といいならわしています。以下、初期の作品に限定して述べてゆきますが、それらのなかでも区別するために略称が用いられています。作品として残るのは、佐倉の国立歴史民俗博物館にある二点、歴博甲本(三条本・町田本)と乙本(高橋本)、それから米沢市上杉博物館にある上杉本です。東京国立博物館には、かなり丁寧な模写本があり、これも失われた原本を知る貴重な資料です(東博模本)。文献上の初見は、永正三年(一五〇六)に土佐光信が越前(福井県)の朝倉氏のために制作した「新図」として、三条西実隆がその日記に記しとどめたものです。描かれた景観は、歴博甲本がおおよそ一五二〇〜三〇年代、東博模本の原本が一五四〇〜五〇年代と考えられ、上杉本は永禄八年(一五六四)に完成、歴博乙本も最近では上杉本よりやや降る時期の制作(*1)と考えられています。

 洛中洛外図屏風では、一双の屏風なかに地理的な関係を意識しながら京都の内外を収めています。屏風を向かい合わせに立て、京都の中心から四方をぐるり見回したつもりになると、描かれた景観の位置関係が分りやすいくなります。すなわち、右隻の画面手前側に下京を、遠景となる上方に東山を描きます。画面向かって右が南、上が東です。左隻には上京と北山・西山が描かれ、画面向かって左が南、上が西となります。この配置は、東南西北を春夏秋冬に対応させる四方四季の原理からきており、右隻左側から右方向へ春から夏、左隻左側から秋冬と季節が流れています。上京と下京とを各隻に振り分けるのは、市街地が縮小し、二つのブロックから成り立っていた当時の都市構造と関係します。ただ、右隻には上京の内裏を配するなど、ぴったりと重なり合っているわけではなく、左右のバランスが考慮されています(このことは成立事情に関係するでしょう)。また、左右隻の並べ方については確定していないので、上京隻・下京隻ともいいます(以下、わたしは上京隻・下京隻を用います)。ついでに申しておけば、一般書などによく、屏風を向かい合わせに立てて、その間に上杉謙信を座らせたイラストが載っておりますが、実際にどのような空間でそうした屏風の立て方をしたのかを想像すると、いささか疑問が残ります。歴史的な鑑賞形態の復原としてでなく、屏風に描かれた空間配置を理解するためのシュミレーションとして見るのが適当かと考えます。といってもわたしの感覚的な判断ですので、このあたりについても実証的な研究の深化が期待されます。

※藤原「洛中洛外図屏風の祖型を探る―京中図の視点―」(京都文化博物館編『京を描く―洛中洛外図の時代―』2015年3月)にて、研究状況のアップデートと上記の問題に関わる私見を述べましたので、ご参照をお願い致します。〔2015年3月追記〕


二、上杉本研究の現段階

 ここで議論のかまびすしい上杉本の研究について、ごく簡単にふりかえっておきましょう。
 戦前からの研究の蓄積によって今日の理解に至っているのですが、一九八〇年代における今谷明の『京都・一五四七年』に結実する研究(*2)のインパクトから話を始めるのがわかりやすいでしょう。今谷は、景観年代論−描かれた景観の時期を限定してゆくことによって絵画の制作年代の見当をつけるの方法−を極限まで推しすすめ、寺社邸宅の位置や存否・形態などを文献史料から考証し、景観年代を天文十六年の約一ヶ月間に絞り込んで、天正二年(一五七四)に織田信長が永徳に描かせて上杉謙信に贈ったという通説(ただし永禄年間作とする美術史家の意見もありました)を完全否定しました。
 景観年代論はそれまでの上杉本研究でも行なわれてきたのですが、今谷の方法は、むしろ日本中世史研究の神様的存在である佐藤進一が、鎌倉・室町幕府の守護在任期間を考証し、幕府職員表を復原したのと同じ感覚です。今谷の論では、いわば上杉本=特定の時期に撮影された鳥瞰写真であって、「画家は工房の弟子を総動員して、洛中洛外を手分けして景観の写生に走らせた」ことを前提にしていますが、当寺の絵画制作の実態を無視したものと言わざるを得ません。堂舎が焼亡・破却されてしまっても画面に描くことはできますし、実際にはなくても寺社にあるべきと考えられている建物であれば、描いてしまうことはありうるわけです。景観年代論は、ある年代への収斂という傾向を把握するには適切な方法ですが、絶対的な指標として用いるには、対象となる史料や作品の性質の吟味が必要です。ただ付け加えておくと、個別の寺社の沿革という点では、今谷著書は貴重なデータを提供しました。また洛中洛外図は都市図でありますから、邸宅寺社の位置の変遷にはある程度敏感で、作例どおしを並べてみるとマイナーチェンジでアップデートを図っていることも確認できます。

 美術史・建築史をはじめとする今谷説否定の論調(*3)のなか、瀬田勝哉『洛中洛外の群像』(平凡社、一九九四年)は、今谷の方法を貫くと矛盾をきたしていまう事例を提示した上で、今谷がクリアーにした戦国期幕府の政治体制の描出という点を見事に読み替えます。上杉本には、むしろ年代的には別段階の政治体制が重ね合わせて描かれており、それは「公方の構想」と呼ぶべきものであって、注文主は足利義輝としたのでした。騒ぎが大きくなったという意味で今谷説のインパクトはありましたが、その先を考えていた研究者たちにとって、瀬田の議論はずっと鋭くかつ細部へ行き届いた分析であり、眼から鱗が落ちるような推論へ至るまで、鮮やかにして重いものでした。例えば、松永弾正(久秀)邸の左義長を読み解いたくだり(*4)など、今読み返してもしびれますし、わたしのような凡庸な研究者には一生に一度だってできそうにありません。この瀬田の論を受け止めたうえで現れたのが、黒田日出男『謎解き 洛中洛外図』(岩波書店、一九九六年)であり、ここに上杉本の制作年代について定説化をみることになりました。
 黒田の論は岩波新書として出されており、歴史学研究の方法と実践過程そのものが一書の主題でもあるので、ぜひご一読いただきたいと思います。この本の最後で、黒田は新史料を提示します。『(謙信公)御書集』という、江戸時代に米沢藩で上杉謙信に関わる古文書を集めて年代順に配列しながら記述した歴史書です(*5)。そこに「同(天正二)年三月、尾州織田信長、為使介佐々市兵衛遣于越府、被贈屏風一双、画工狩野源四郎貞信入道永徳斎、永禄八年九月三日画之、花洛尽、被及書札、」という記事があり、これによって永禄八年完成という現在の定説になっています。
 ただこの新史料についても、そのなりたちについて検討を深める必要があります(*6)。『(謙信公)御書集』は、いまわたくしが仕事にしております『大日本史料』という史料集と基本的に同じ構造です。某年某月某日にあった出来事を記し(綱文・地の文)、その典拠となる文書(史料)を引用・収載します。問題の箇所については、綱文のみで史料が提示されておらず、何らかの事情で史料が写されなかった可能性とともに、まず上杉家の歴史において知られている事柄を書きとめておき、これから史料を探そうという段階であったのかもしれません。感覚的な判断となりますが、この記述は詳細で具体性に富み、わたし自身は信頼してよいと現時点では思っています。


三、上杉本の主題的表現

 美術史研究者からは、黒田の功績は新史料の発見ばかりに集約されています。しかしもうひとつ大事なのは、研究史をたどり、画面を読み解くことから、上杉本には漠然と「京都を描く」のみならず、かなり特定的な主題ないしは制作意図があることを論証した点です。中世絵画の遺品は、注文主の何らかの意向に応じて制作されたものが多数を占めたはずですが、具体的な背景の判明する事例は限られ、残された画面のみから注文主像をあぶりだすことが可能な性格を備えた作品はわずかです。上杉本には、洛中洛外図屏風の標準的構成からの継承と想定しうる面と、そこから逸脱する面とが存在し、絵のなかから制作意図を読み解ける貴重な作例となりました。

 それでは、上杉本固有の主題的表現とは、どのあたりに見られるのでしょうか。もっとも注目されるのは、公方様(足利将軍御所)周辺の歳末・年始の光景と、そこへ向かう輿に乗った貴人の大行列です。室町時代の洛中洛外図屏風では、下京と東山を描く下京隻(右隻)に画面向かって左から右へ春から夏が、上京と西山・北山を描く上京隻(左隻)に秋から冬を描くのが定型であったと思われます。しかし上杉本では、上京隻第四・五扇(パネルを向かって右から数えて四・五枚目)の下方に描かれる公方様の周辺に、歳末・年始の光景がたくさん描き込まれています。冬の景が相対的に少なくなることはあって、相当に突出した傾向です。加えて、公方様に向かう行列は、かなり規模の大きなものであり、他の室町期の洛中洛外図に見られません。輿の描き分けや従者の構成を調べてゆくと、その主は管領クラスの人物になります。すなわち上杉本では、定型的な四季の構成をあえて破ってでも、将軍御所へ年賀に参る管領相当の人物を描き込まねばならなかったのです。ここには注文主の意向が働いていたと考えてよいでしょう。さらなる推理のプロセスは省略しますが、黒田も瀬田の論をふまえて、注文主は足利義輝だとします。そして公方様への大行列とは、義輝が上杉謙信に上洛を促がす政治的なメッセージと解釈したのです。

 注文主を足利義輝とするのは、まさにふさわしいという側面と、ほかにはありえないという面からで成り立っており、早速、宮島新一から異論(*7)が出されていたりもします。宮島は、上杉本制作の翌年に三好義継が聚光院襖絵を永徳に発注していることから、義継を上杉本の注文主とします。しかし今回の展覧会〔京都国立博物館『狩野永徳』展〕でも、聚光院襖絵の制作年代を下げる説に拠っているように、代案となるほど説得的ではありません。瀬田が「公方その人かそのごく周辺」と言っているように、「周辺」の人物を探ってみる価値はありそうですし、大行列の主のサイドが注文主で、公方に献上予定であったというようなストーリーも、試行するとどうなるでしょうか。むろん瀬田・黒田の推理のなかで考慮されなかったわけでないのですが、完成から謙信への贈呈までの時間的なギャップも説明の難しいところですし、想定注文主をめぐる議論はまだこれからの課題でもあります。

 またこれらとは全く別に、高橋康夫からは論議を呼びそうな意見が出されています(*8)。上杉本に関する部分を乱暴にまとめてみます。@上杉本では、順勝手(奥行き方向の斜線が左上がり)・逆勝手の画法の選択の面から、「公方様」は大きな主題であっても、もっとも大切な主題でない。A戦国期に花御所の敷地に将軍御所が営まれた証拠はなく、過去の理想化・概念化された将軍御所としての義政の花御所が描かれる。B京都を支配する武家権門の権威・秩序・体制の象徴としての「公方様」と、その実体としての「細川殿」を対比的に描き、京都の現実の姿を示す。上京隻の小川の町々は、細川殿体制の都市的所産であり、細川殿とその「城下」といえる、といった分析です。わたし自身がこの時代のプロパーでなく、この論証手続きの妥当性を検証できないので紹介するにとどめます。
 さらに小島道裕は、歴博甲本の成立事情について、細川高国が狩野元信に描かせたという新説を発表しました(*9:全文)。屏風に表出された政治体制を読み解くという意味で瀬田の提示したパラダイムを引き継ぎ、画中に描かれた人物像に個人名を特定してゆきます。
 高橋・小島の新しい議論は、いずれも戦国時代の幕府ないし京都の複雑な政治史・政治過程を細かく踏まえることに立脚していますが、こうした研究の深化の前提には、今谷明の『室町幕府解体過程の研究』以来の一連の仕事があったことは確認しておきましょう。黒田の『謎解き 洛中洛外図』が出てから約十年、また少しずつ研究が動き始めているという感触です。


【注】

(*1)馬淵美帆「歴博乙本〈洛中洛外図〉の筆者・制作年代再考」(科学研究費研究成果報告書『描かれた都市−中近世絵画を中心とする比較研究−』研究代表者・佐藤康宏、二〇〇四年)。
(*2)『文学』「特集 洛中洛外屏風の世界」五二−三号(岩波書店、一九八四年)、今谷明『京都・一五四七年』(平凡社、一九八八年)。
(*3)『国華』「特輯 洛中洛外図」一一〇五号(一九八七年)。
(*4)飯島吉晴「門松と二人の年男−上杉本洛中洛外図左隻の正月風景−(一)」(『月刊百科』三二七、一九九〇年)の指摘をベースにしています。
(*5)『謙信公御書集・覚上公御書集』(臨川書店、一九九九年)。
(*6)阿部哲人「上杉本洛中洛外図屏風−景観・制作をめぐって−」(『日本歴史』七〇〇、二〇〇六年)、および同氏より御教示の木村康裕「上杉・織田氏間の交渉について」(『駒沢史学』五五、二〇〇〇年)。
(*7)宮島新一「自らの中世を突破した永徳」(『三の丸尚蔵館研究紀要』二、一九九七年)。
(*8)高橋康夫「描かれた京都−上杉本洛中洛外図屏風の室町殿をめぐって−」(高橋康夫編『中世のなかの「京都」』中世都市研究一二、新人物往来社、二〇〇六年)。
(*9)小島道裕「洛中洛外図屏風(歴博甲本)はなぜ描かれたか」(『歴博』一四五、二〇〇七年)。


東京大学史料編纂所古代史料部藤原重雄論文目録