藤原重雄「都市の信仰−像内納入品にみる奈良の年中行事−」(『中世の都市』東大出版会) 補注(2009年6月記)


【訂正】

160頁4行目:(誤)応永二八年三月一八日 → (正)一五日
162頁8〜11行目:(誤)受け取り候り → (正)候ひ
170頁13行目:(誤)楽ありと云々 → (正)音曲等ありと云々
 ※写本に拠って疑点のみを原本写真で確認し、当該部が『史料纂集 経覚私要鈔』七(2008年5月刊)に収録されて気づいた次第。

【補記1】
 かなり重要な史料を見落としており、逆修法会の別の側面に目を向ける必要があります。
 『大乗院寺社雑事記』文明元年八月十三日条「寺中諸院・諸坊事」のリストには、寺外坊等の丑寅方分として逆修坊がみえ、新禅院・知足院・極楽坊などとともに、興福寺末寺で律の要素の強い院坊とわかります。「祈願所」と位置づけるのがよいでしょうか。(この記事は、渡辺澄夫「興福寺六方衆の研究」『増訂 畿内庄園の基礎構造』下に全文引用があります。『大乗院寺社雑事記総索引』に採録がされず、永島福太郎氏『奈良文化の伝流』『奈良』、泉谷康夫氏『興福寺』、『奈良市史』などで引用がなく、自ら確認する手間を惜しみましたこと反省。)

 156頁に引用の『東院毎日雑々記』応永二年三月十一日条の「大頭」、175頁の『正中嘉暦之記』、182頁付記の『〔東院〕年中行事記』などから、中御門逆修には興福寺の院家の横断的な関与の可能性を指摘でき、寺内院家に仕える人々の個人的な追善・作善の受け皿というのも、重要な側面であったように想像しております。
 まだ史料の探し方にむらがあり、たとえば『大乗院寺社雑事記』『経覚私要抄』の時期に降ると、逆修坊のみならず、知足院・新禅院・極楽坊・小塔院あるいは在地の恒例逆修を拾い直すことで、法会の具体像をもう少し描くことができ、逆修坊坊主の関わる相論が記録に残るので、トレースしておくことも必要になります。

 巻末の文献目録では、参照した先行研究は網羅しておりませんが、出版後に気づいた新しい論文に、野村卓美「解脱房貞慶と地蔵信仰−貞慶と地蔵説話・貞慶著『地蔵講式』を中心に−」(『文芸論叢』〈大谷大学〉七二、二〇〇九年)があります。本稿の観点からは既出の材料に限られた議論ですが、記述を端折った部分につき一覧するご参考として紹介しておきます。

【補記2】
 大和文華館に図1上と同印の地蔵印仏が所蔵されていることが、すでに指摘されていました(佐々木守俊氏御教示)。『大和文華館所蔵品図版目録』2、絵画・書蹟〔日本篇〕(1990年増補改訂版)No.24参照。一巻、縦30.5×横46.6p。解説に「消息文の表裏に地蔵の印仏を一面に捺しており、紙背に「合三百六十六体、南弥、南無阿弥陀仏、良快」の墨書が読みとられるから、良快という人物の日課念仏であろう。」とあります。良快の名は交名には出てこないようですが、歴博所蔵分の包紙と一具になるものである可能性があります。鈴木喜博「大和文華館の仏教版画」(『大和文華』113、2005年)No.21としてもあり。

【補注3】(2011年4月追記)
 160頁の「地蔵迎」の具体像について、迎講との連想で面白く記述しておりますが、いささか飛躍があるとの自覚もあり、別の可能性を考えさせる事例に気づきました。
 根立研介「快慶作八葉蓮華寺阿弥陀如来像の納入品について」(『MUSEUM』442、1988年)図15および12頁、『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代・造像銘記篇』二(中央公論美術出版、2004年)No.41(納入品2-2)に紹介のある納入文書の「ア(梵字)阿弥陀仏御房宛僧賢印書状」(『平安遺文』・『鎌倉遺文』未収)を適宜文字を改めるなどして掲げます。建久後半頃と推定され、宛所の「ア(梵字)阿弥陀仏」は仏師快慶「アン阿弥陀仏」でないかと考えられています。
「御仏迎人々令進上候、
又布三段・莚九枚・雨皮・竹等沙汰仕候て、進上仕候、
又見苦候とも次て候は、白米一斗七升・御菜三種・瓜二荷令進上候、
返々乏少候とも便宜にて候申候也、委此僧申上可候、恐々謹言、
  八月四日    僧賢印
 ア阿弥陀仏御房                     」
ここでの「御仏迎」は、仏像を制作する仏所へ、発注者が人を遣わして受けとることのようです。
 これを参考に「地蔵迎」について改めて想像をめぐらすと、仏所へと完成した仏像を迎え取りに行く行事で、しかも音楽を伴ったことから、奈良街並みを逆修坊へと地蔵像をを中心に奏楽を伴いながら行道するものとも考えられます。

【補注4】(2011年8月追記)
 中世後期から近世にかけての子院の変遷についての参考文献。
藪中五百樹「興福寺坊舎の位置と変遷」(『藤澤一夫先生卒寿記念論文集』同刊行会・帝塚山大学考古学研究所、2002年)
幡鎌一弘「戦国期における興福寺六方と奈良−子院・方・小郷の関係を中心に−」(GBS実行委員会編『近世の奈良・東大寺』東大寺、2006年)

【補注5】(2014年2月追記)
 金沢文庫・称名寺聖教『地蔵因縁』(309-0079)
一折一紙の枡形本の残闕ながら、表紙「地蔵因縁〈楊州劉宗/開善寺尊像〉」、内題「開善寺地蔵因縁」として劉宗の蘇生譚を記す。本説話の受容を示すものとして重要。

【補注6】(2017年5月追記)
 【補注3】とも関連して、「行像」(仏像を車に載せて引き廻す行事・芸能)について注意しておりますが、アップを忘れていた記事がありました。平安中期、京都での出来事です。
『小右記』万寿四年六月八日条(『大日本古記録』7冊245頁
《大峯聖人奉迎仏事》
八日、丁丑、大峯聖〈以通大峯、世号大峯聖、〉今暁奉迎地蔵菩薩、〈従仏師宅奉迎、〉暫安置左近馬場馬出舎、構力車、其上如輿少荘厳奉載、奉移馬場殿、輿前師子舞・音声人相従、数十人念仏僧前行、又暫奉安置馬場殿、午時奉渡大峯堂、見物車并雑人無処容肩云々、件堂当馬場殿乾方、板葺堂云々、見物男女等所申也、馬場舎官舎也、最足為恠、可有事徴歟、

【補注7】(2020年11月追記)
伴瀬明美「像内納入品にみる結縁の形態とジェンダー」(国立歴史民俗博物館編『性差の日本史』2020年)、同展に出陳。

【補注8】(2020年12月追記)
東大寺文書[1-24-444]の〔長禄三年(1459)〕二月二十三日「東大寺年預五師某書状案」(『大日本古文書』24冊2256号)https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/sda/w21/20200504000136に、中御門逆修坊辺郷の公事を二十箇年免除することを認める内容がある。欠損のため文意を取りきれないが、逆修を興福・東大「両寺の通修」と認識していたことがうかがえる。

【補注9】(2021年12月追記)
杉ア貴英「中世の宗教彫像における骨・身片の像内納入をめぐって」(狭川真一さん還暦記念会編『論集 葬送・墓・石塔』二〇一九年)にて、本像を含めた事例一覧表と総説あり。


東京大学史料編纂所古代史料部藤原重雄論文目録