太平記絵巻

(『別冊歴史読本58 合戦絵巻・合戦図屏風』新人物往来社、2007年1月)

 埼玉県立歴史と民俗の博物館ほか、国立歴史民俗博物館、ニューヨーク・パブリックライブラリー・スペンサーコレクションなどに分蔵。紙本着色、もとは全十二巻。十七世紀の作品で、絵師を海北友雪(一五九八〜一六七七)にあてる説が有力である。絵巻の各巻では、『太平記』全四十巻のうち、約二〜四巻分・約二〇段づつを収めている。各巻冒頭には詞書のみの一紙が置かれているが、その後は詞書と絵とを交互に配する形式ではなく、絵の余白(霞・地・土坡・水面・建物の屋根など)に『太平記』本文を抄録・意訳した詞が書き込まれている。『太平記』という歴史=物語の受容をうかがい知る作品であり、規模も大きく豪華で、あらかじめ『太平記』の内容についての知識も求められ、注文主や制作者像についても関心が持たれる。また絵では、平安末期の『年中行事絵巻』から室町時代の『酒飯論絵巻』に至るまでの多数の絵巻が引用されており、近世における古画学習の様相を知る上でも興味深い。


 南北朝の内乱を叙述する『太平記』は、為政者の徳の欠如が世の乱れを招いたものとして、後醍醐天皇の治世と鎌倉幕府の実権を握っていた北条高時から筆を起こす。文保二年(一三一八)に即位した後醍醐天皇は、みずから徳のある政治を行なおうとしたが、朝廷権威の凋落を嘆いて、幕府の討滅を画策するようになる。
 @第一巻の「無礼講事 付玄恵文談事」(『太平記』巻一)からの場面。密かに討幕の準備を企てる後醍醐の側近日野資朝は、美濃源氏の土岐頼員・多治見国長らを語らい、その本心を探るべく無礼講を催した。一味同心の公卿・殿上人・法眼玄基以下、男は烏帽子を脱ぎ、僧は法衣を着けず、十七・八歳の美しい女二十人ばかりに薄手の絹を着せて酌をさせ、舞い歌った。この間には幕府を滅ぼす計画で持ちきりであった。
 この無礼講については花園上皇もその日記に風聞を書き留めており、「結衆会合して、乱遊あるいは衣冠を着さず、殆ど裸形、飲茶の会これあり」と記している。幕府方の武士が北野祭の警護に出ていいて手薄な日と、六波羅攻撃の日まで決めていた。直前に頼員が六波羅に自首して発覚、六波羅は土岐頼有・多治見国長を殺し、日野資朝・俊基を捕らえ、この計画は失敗した。正中の変(一三二四年)とよばれる事件である。無礼講参加者のリストが六波羅のもとに落ち、追及して摘発が進められたという。
 この絵は、詞で描写されている様子とはかなり異なり、室町時代に作られた『酒飯論絵巻』の図様や『酒呑童子絵巻(大江山絵巻)』の雰囲気をもとにして描かれている。また、坊主頭の人物が頭に手を当ててやや後ろに反り返るポーズは、酒宴の場で上機嫌に酔っていたり、囲碁などの勝負で「参った」仕草として、絵巻から近世風俗画などによく見られる。飾りの盛り付けが場の中央に置かれているが、本作品と同じ十七世紀頃の作品には、島台などとともに巨大化したものがよく描かれている。

 A第二巻の「先帝遷幸事」(『太平記』巻四)の場面。正中の変の失敗により、ひとたび討幕の動きは抑えられたが、後醍醐の運動はこれに終わらなかった。元弘元年(一三三一)、内報を受けた幕府は再び資朝らを捕らえるが、後醍醐は神器を携えて密かに笠置山へ入って立て籠もる。幕府は大軍を上洛させて笠置城を攻めるが、南河内の赤坂では楠木正成が挙兵するなど、後醍醐に呼応する動きもおこった。やがて笠置城は落ち、後醍醐は捕えられて、翌年には隠岐へと配流される。この間には、幕府の奏請によって光厳天皇が即位しており、後醍醐は「先帝」となる。この一連の戦乱が、元弘の変である。
 詞では、千葉・小山・佐々木らの武士五百騎に警固され、後醍醐は隠岐へと遷された。供奉したものは、一条行房・六条忠顕・三位局ばかりで、京中の貴賤男女は立ち並び、これを拝んで涙を流さない者はなかった、とある。
 絵では、中央の輿(天皇・上皇にふさわしいものではない)に先立ち、騎馬の黒袍と緋袍の貴族が描かれる。行房・忠顕に当たろうが、近世の束帯の服飾体系が意識された表現であろう。後ろの騎馬の武士三人も詞に名前のある三名に当たり、頭巾を被るのが佐々木判官入道導誉であろう。赤い流れ旗には三ツ鱗の文(剥落して下書きの墨線見えるが、他巻を参考にすると白く描かれていたか)があり、北条氏であることを表しているが、赤い色も実態というより平氏であることを示していよう。上部の京中貴賤も、通例の行列見物の群衆表現を引き継ぐもので、詞とは全く異なる。

 B同巻の「楠出張天王寺事 付隅田高橋并宇都宮事」(『太平記』巻六)の場面。後醍醐は隠岐に流されたが、皇子の護良親王は令旨を発して決起を促し、楠木正成は再び兵を挙げ、天王寺で六波羅の兵と戦った。幕府は大軍で攻め寄せ、赤坂城は陥したが、千早城を囲むも長引き、各地での反乱は抑え難くなり、後醍醐は隠岐を脱出し、ついに六波羅・鎌倉が攻撃され、幕府は滅亡する。絵では、菊水文の旗によって正成のことと分かる。背後の朱塗りの建物は寺社を意味して、ここでは天王寺である。
 C第七巻の「青野原軍事 付嚢沙背水事」(『太平記』巻十九)の場面。後醍醐は京都で新政を始めるが長続きせずに失敗し、足利尊氏の京都の北朝方と吉野に籠もった南朝方との対立を軸に、北朝方の内部分裂が絡み合って長期の内乱状態となる。南朝方の有力な将には、奥州の国司(鎮守府将軍にもなる)として勢のあった北畠顕家がいる。延元三(建武五:一三三八)年、西上して利根川で足利義詮の鎌倉軍を破って美濃まで至り、青野原(大垣市)で足利直義の軍勢を打ち破った。しかし上洛は控えて再起を計るも、高師直に敗れて戦死した。絵は、青野原の合戦を描くもので、騎馬による両軍の戦闘シーン。画面下は、互いに髻をつかみあって首を掻き取ろうとしているところである。ただ作品全体の傾向として、極端に凄惨な情景を描こうとはしない。


 この『太平記絵巻』の全体像が明らかになったのは、比較的最近のことである。現在、埼玉県立博物館(※2006年4月、埼玉県立博物館は「埼玉県立歴史と民俗の博物館」となった)に第一・二・七巻が、ニューヨーク・パブリックライブラリー所蔵のスペンサーコレクションに第三・八巻が、国立歴史民俗博物館所蔵の高松宮家伝来禁裏本のうちに第五・十一・十二巻が収まっている。この他に、東京国立博物館に第七・九巻の模本が、ボストン美術館に第四・十・十二巻の模本があり、原本と模本とをあわせると、第六巻を除く十一巻分が把握できるようになった。【付記】参照。
 埼玉県立博物館蔵のうち第一巻は、一九七二年に都内の古書店から購入されたものである。また、スペンサーコレクションのうち第八巻は、反町茂雄氏(弘文荘)の仲介によるもので、日本でも一九七九年に紹介されている。その後、題不詳の屏風から剥がされた絵がコロンビア大学(当時)の村瀬実恵子氏のもとに持ち込まれ、『太平記絵巻』の第三巻と鑑定され、巻子装に直されて、スペンサーコレクションに収まった。宮次男氏は、埼玉県立博物館蔵の第一巻とスペンサーコレクションの二巻が一具であることを確認し、一九九二年にはこれらが『太平記絵巻』として刊行されたが、この時点では、東京国立博物館所蔵模本との関係が確定できておらず、有力な参考資料との扱いであった。
 しかし、一九九五年秋にニューヨークで行なわれたオークションに第七巻の原本が出品され、緊急の特別予算が組まれて埼玉県立博物館が落札、購入のはこびとなった。これにより、東京国立博物館所蔵の模本が、本来一具であった原本によるものと確定した。さらに翌年春、再びニューヨークで原本第二巻が出品され、埼玉県立博物館が購入した。発見は続き、高松宮家から文化庁へ寄贈され、国立歴史民俗博物館に移管されていた蔵書群のなかに、第五・十一・十二に相当する原本が存在することが確認された。これとは別に、村瀬実恵子氏はボストン美術館に所蔵される第十・十一巻相当の模本を発見して一九九三年に全十二巻説を発表しており、次いで埼玉県立博物館の調査によって第四巻の模本も見出された。こうして一九九六年には、原本八巻・模本五巻が確認されるに至り、ほぼ全容を把握できるようになった。
 しかしながら、成立・伝来の過程については不明なことが多く、明治初年には一具揃いが解体していたと思しいい。高松宮家伝来禁裏本の大部分は、近世前期に形成された天皇家の蔵書群に由来するが、『太平記絵巻』がここに収まった時期は明らかになっておらず、ここから流出していったというより、すでに三巻の残闕本となっていたものが収蔵された可能性の方が高いように思われる。こうした点も含めて、今後も探求が続けられてゆく。

【付記】 二〇〇二年にイギリスのオークションで、第六巻を埼玉県立博物館が落札した。同館図録『国宝太刀・短刀と太平記絵巻』(二〇〇四年)参照。埼玉県立歴史と民俗の博物館では第十巻の原本も所蔵し、計五巻となった。これにより、全十二巻のうち十巻分の原本の所在が確認されている。


【参考文献】
宮次男・佐藤和彦編『太平記絵巻』(河出書房新社、一九九二年)
埼玉県立博物館編『太平記絵巻の世界』(特別展図録、一九九六年)
同編『図録 太平記絵巻』(埼玉新聞社、一九九七年)
太平記絵巻(埼玉県立歴史と民俗の博物館 収蔵資料紹介)
館蔵資料画像データベース(国立歴史民俗博物館)
太平記絵巻(国立歴史民俗博物館 特別展「うたのちから」)


【キャプション訂正】
84頁上図:神器を携え…後醍醐天皇 → 隠岐に配流される後醍醐院


東京大学史料編纂所古代史料部藤原重雄論文目録