【書評と紹介】

瀬田勝哉編『変貌する北野天満宮―中世後期の神仏の世界―』

案内平凡社、二〇一五年九月)

(藤原重雄、『日本歴史』830、2017年7月、pp.101-103 ※一部表記を原稿に戻し、各論文標題を補充、誤植を修正。)


 一九九五年四月に始まった編者主催の『北野社家日記』を読む会の参加者による論集で、空間・組織・信仰の諸相の三部に分かち、長めの論文計八本を収録する。判型が大きく、適切に用意された図表が活き、年表・索引を付して中世北野社の研究提要ともなる。
 全編通読すると、既刊翻刻の訂正や関連研究の厳しい吟味、あるいは史料表記の長さの換算などにも、自己目的化した技巧的な考証や細かな正確性の追求ではなく、時代の現実感・リアリティを掴もうとする意志に基づくことが感じられる。史料で用いられる語彙への拘りも顕著で、当たり前のような言葉を北野社に即して調べ直し、固有の意味を探り出す。編者の学風が長年の勉強会でメンバーに浸透し、扱うテーマを異にしながらも、全体として中世北野社という場の再生を目指す方向性が共有されている。

 三部の構成も練られており、最初の空間の部では、歴史の展開した場に焦点を絞り、空間それぞれの性格に基づく分節を踏まえ、参詣路・馬場(門前境内地)・社頭(築垣内)と、次第に信仰の中核へ近づく。
 野地秀俊「北野の馬場と経堂」は、門前地域の地名の再検証を前提に、空間の質的な違いを解析して、「境内」と「社頭」とが明確に区別された領域を指し、前者に含まれる「馬場」での権利が錯綜した状態を明らかにする。馬場に建てられた経堂とその管理に、清水寺・鞍馬寺などの勧進聖との類同性を見るように、北野社という事例を扱いながら、中世寺社を理解する範型が提示される。
 菅野扶美「空間から見る北野天神信仰の特徴」は、「社頭」の数々の小神や失われた仏教施設を一つ一つ記述して、来歴・性格と営まれた儀礼や置かれた物を確認し、重層的で多様な信仰を包摂した空間を解きほぐす。これは他の規模の大きな神社でも研究課題となろう。史料から分かる範囲で詳しく明らかにされた内陣・内々陣の様子は、神仏習合の「宮寺」を感覚的に把握するのにも資し、二つの連歌会所の混同を正し、後戸といえば芸能神という連想が成り立たないことの指摘など、国文学研究でも留意されよう。

 ついで組織の部では、北野社に関わる諸階層の結合形態や上下関係が明らかにされる。
 鍋田英水子「中世後期「北野社」神社組織における「一社」」は、漠然とした集合名と思われがちな「一社」を、祠官(社僧)集団として明確にする。再録論文に補論を付すもので、別当曼殊院門跡と配下の政所・目代、公文所と将軍家御師を長く勤めた松梅院、その他院家との関係を整理した。
 「一社」は大寺院における学侶集会に相当し、中世寺社における公と私の関係を比較する素材となるが、佐々木創「北野宮寺法花堂供僧の設置」は、鎌倉後期に再興された法花堂とその供僧をとりあげて、鍋田論文よりも詳しく北野社の内部組織を描き出す。その際に鍵となるのは、法会の由緒であり経済的な基盤(供料)であって、菅野論文の視角が活きる。法楽として法螺を時刻に吹くことが法花堂規式の冒頭に定められているが、太郎丸への託宣に根拠があり、天台法華の教えに基づいていた。この応永十八年(一四一一)の規式制定は、翌年の一切経書写と万部経会の開催を見越したものと推測する。
 石井裕一朗「松梅院禅予殺害事件と殿原衆の行動」は、明応三年(一四九四)に松梅院主の禅椿・禅予の対立から後者が殺害された事件につき、興味深い書状を残した松梅院の被官層(殿原衆)の一人を基軸として、新旧院主の抗争を細川政元被官の内部の色分けもしながら辿り、松梅院被官衆の構造と奉公内容とを把握して、譜代タイプの被官を見いだしている。核心的な文書一点を深く理解するスタイルで書かれた佐々木・石井両論にも、編者の影響がある。

 信仰の第三部では、まず西山剛「室町期における北野祭礼の実態と意義」が、縁起絵巻も参照しながら、「三年一請会」を伴う北野祭を把握しなおす。毎年執行される北野祭だが、三年に一度、祭礼に先立ち神輿の損傷が点検され、とくに染織類による荘厳(懸装)を新調する。これが三年一請会で、北野祭の関連儀礼として営まれた。北野祭を構成するのは、神輿の神幸・還御とそれに伴う渡物等で、何より神輿の荘厳に人々は注目した。それは大宿直織手の系譜を引く大宿禰神人により調進されたが、幕府による職人支配を介して、技術的な洗練と安定的なサイクルを維持した。
 最後に飯田紀久子「天神信仰における牛の由来」は、北野信仰における牛をめぐる諸事象を整理する。天神と牛の結びつきの初発はよく分からないが、諸説を整理して、天神縁起の詞・絵にみえる牛を通覧し、道真墓所安楽寺の説話と八月大祭(北野祭)における牛飼(大座神人)に注目する。小社として祀られる牛飼の老松を介して、太宰府・九州との関係をみるとともに、近世への転換を見通す。

 さて、いよいよ冒頭に置かれた編者の「北野に通う松の下道」である。著書『洛中洛外の群像』(平凡社、一九九四年)に「失われた中世京都へ」の副題があるごとく、本稿でも、洛中洛外図屏風を参照しながら、失われたもの・ひと・脈絡を甦らせる緩やかな歩みで北野社への道をたどり、別の著書『木の語る中世』(朝日新聞社、二〇〇〇年)のように、樹木・自然を切り口として社会を描くことが果たされる。
 まず屏風と地図により、上京から北野へ参る松並木の一条通を浮かび上がらせ、最初の焦点を沿道の北野社領「内野」に絞る。明徳の乱(一三九一)の内野合戦の死没者追善を目的とした、北野の経堂創建と万部経会の成立を再検討し、同時期の足利義満の働きかけによる内野寄進を掘り起こす。野地論文が指摘する経堂管理の特質を念頭に、「神約」の語義を鍵として、経堂敷地提供との双務的約束として、内野は北野社修理料所に寄進されたという、説得力ある跳躍を見せる。行論中の「陣官人」等の検討は別の論点へ結びつき、幕府の宗教政策における位置づけも他に評価の適任者があろう。加えて、内野の畠では何が栽培されていたかに拘り、北野社関係史料に「蔓菜」と見え、今の感覚では豆類と類推してしまうところを、古辞書を駆使して蕪(菜および根菜としての)であることを突き止め、絵画表現・職人歌合との照応を確認し、通年栽培であることから、文献史料に記される季節の偏りを指摘する。
 次の話題は北野への道が渡る橋、そして並木・森の松である。これ以上の内容紹介は、論文未読の方々への手前、控えよう。折々に視点を洛中洛外図屏風へ移してそれを読み解き、注文主や制作意図に議論が集中しがちな昨今、絵画史料の豊かな可能性を取り戻す。本来なすべき「調べる」ことが徹底・貫徹され、読者は痒いところに手が届く末尾の注を意識に留めながら、自分の頭で理解するペースを保って、著者の追跡の流れに乗ってゆく。この探索の手順の身体性は、読み手にも確実に、失われた世界へと近づいて行く手応えを与える。学会誌に掲載する論文であれば、文字通り迂遠な「道草」である。
 しかし学問としての歴史学が、社会に対して何をなしうるか問いかけられている現在、「分かりやすい」説明よりも、自ら学び取ってゆく生き生きとした感覚こそ、多くの読者への訴求力が備わった叙述となる逆説に思いを致す。誰にも模倣のできない個人性に属した手腕だが、目標の共有は学徒として罪になるまい。


東京大学史料編纂所古代史料部藤原重雄論文目録