正誤表

お詫びしてご訂正をお願いします。また、刊行後になどに発表された論文などの補注を加えます。(2024年2月更新)


「行列図について―鹵簿図・行列指図・絵巻―」(『古文書研究』53)

50頁上段後ろから4行目: 行末の「二」は返り点

51頁下段1行目割注: 総行列 → 総〔整カ〕行列 (傍注を加える)

55頁上段11行目: 申終頭 → 申終頭〔頃カ〕 (傍注を加える)

58頁上段註14: 『続日本後記』 → 『続日本後紀』


「記録に貼り継がれた絵図―東京大学史料編纂所所蔵『徳大寺公清公記』所収「車絵図」を中心に―」(『MUSEUM』575)

7頁上段6行目: 全仁親王 → 全仁〔明〕親王

7頁上段111行目: 四十余合 → 七十余合 ※刊本の誤り

7頁下段8行目: 諸家写本 → 諸家記写本

15頁上段15行目: 甥公継と伯父道雲 → 兄公継と弟道雲

15頁下段5行目: 紅梅、 → 紅梅花、

27頁2紙目2段目: 料紙の項「6日」を日次記の項に移す 

同:48・49紙:3月26日の日次記・交名は、『大日本史料』第六編之12、959〜961頁(貞和五年九月十三日条)に収録。


「洛中洛外図に描かれた「七野社」」(『画像史料解析センター通信』15)

8頁下段8行目: 共通する神官 → 共通する。神官


「特別展図録の編集」(『画像史料解析センター通信』17)

4頁下段9行目: 執筆いだく → 執筆いただく

同後ろから10行目: できだけ → できるだけ


「大和田原本・楽田寺の勧進帳」(『季刊ぐんしょ』再刊58)

森由紀恵「東大寺蓮乗院と『覚禅鈔』」(『古代学』10、2018年)〔PDF〕にも同史料に言及あり。


「『大乗院寺社雑事記』に記された「天下絵所」」(『画像史料解析センター通信』22)

〔補注〕 「四条堀川」は詫間派の絵所らしく、立政寺所蔵「当麻曼荼羅図」の観応元年(1350)軸木銘に、「画師四条堀川下野法印、後白河法王御画師宅間登賀之子孫」と見える。藤元裕二『詫磨派研究』(藝華書院、2012年)156,163-166頁、および「詫間派史料」47・56を参照。


「史料編纂所所蔵正親町本「後花園天皇像模本」について」(『画像史料解析センター通信』26)

3頁上16行目: 『室町王権の絵画』 → 『室町王権と絵画』

補遺:勢田章純『造内裏御指図御用日記』寛政二年(1790)六月六日条(武田庸二郎・江口恒明・鎌田純子編『近世御用絵師の史的研究』思文閣出版、2008年、356頁)に、同じ「後花園天皇像」の写がみえる。色紙形の色・文の参考とするため資料として土佐光貞が持参したもの。

一、    同人(土佐土佐守)
 此間被仰付候色紙形古図写持参、
 後花園院御影色紙形計にて讃無之、画 《永享之比》弾正忠広周/西林寺 文安五年三月日修補之、奉行耀空
  右之通書付有り、
 [朱     幅五寸二分ツ丶
 [緑青    上下五寸五分  壱枚
 『右一紙、蝶鳥ノ画アリ、』


「中世絵画と歴史学」(『日本の時代史』30)

257頁3行目:『職人歌合』に描かれてており、 → 描かれており、

259頁7行目:であった → となった

276頁3行目ルビ:帽子〈もうし〉 → 〈もうす〉

290頁8行目:(高岸輝・二〇〇四) → (岸輝・二〇〇四)

(補遺)池田忍「『慕帰絵』の人物表象と「覚如像」の構築」(科研費報告書『『慕帰絵』の制作事情をめぐる総合的研究』2019年10月)は、先行研究から本稿を排除する。また桓信に関しても、いわゆる尊氏願経の筆者の一人として実乗院桓信がおり、岡崎門跡(院主は洞院家から出る)とごく簡略ながら言及した(271頁)。


「『兼仲卿記』紙背文書の墨映・覚書」」(『季刊ぐんしょ』再刊71)

16頁の表:歴博番号761・774・777-1・777-2・779を結ぶ線 → 761と779(T)、774と777-1(U)、774と777-2(U)に分ける。


「仏画のなかに描かれた肖像・覚書」」(『画像史料解析センター通信』32〜37)

補注1:長岡龍作編『仏教美術論集 5 機能論』(竹林舎、2014年3月)には、石松日奈子「供養者像―図像による寄進銘─」(日本の事例は対象でない)、渡邉里志「仏涅槃図における参集者の人名と機能―岐阜・崇福寺本仏涅槃図の紹介を兼ねて─」など関連する論考を収める。

補注2:水野敬三郎・前嶋敏「新潟市蒲原神社所蔵「木造伝畠山重宗夫妻坐像」について」(『新潟県立歴史博物館研究紀要』11、2010年3月)は標題作についての詳細な報告。像内銘により、建武元年(1334)大仏師尾張法眼湛賀の作と判明するが、近代初頭においても畠山兄弟像との伝承もあったように、男女の区別は不明確で、明らかに尼とも決め難く、両像ともに膨大な結縁交名を伴うことから、もともとは高僧像(時宗か)として造立された可能性が高いと思われ、初期の夫婦肖像として扱うのは難しい。


「「本槐門・新槐門図序文」について」(『朱』49)

77頁下段1行目:指定 → 確定

94頁下段13行目:記主の中原康富 → 推定記主の中原重貞(康富祖父) ※桃崎有一郎『康富記人名索引』(日本史史料研究会、2008年)参照。

101頁上段・1行目:東北大学所属 → 所蔵

106頁下段・注50の『後法興院記』:五月五日条密々 → 条(改行)密々

107頁下段の注54:大塚隆編『慶長昭和京都絵図集成』 → 『…地図…』

108頁上段・注60:『新編国華大観』 → 『新編国歌大観』

102頁上段の注8のうち、北野天満宮本に関する部分
※藤田勝也氏「「古図 両中門」「両中門図」について」(『裏松固禅「院宮及私第図」の研究』中央公論美術出版、2007年。初出、『日本建築学会計画系論文集』606、2006年8月)に詳しい記述があり、一部差替えを要します。藤田氏論文をご参照下さい。また、前田松韻「過渡期に於ける住宅平面図及び成形状態の沿革的考究(三・四)」(『建築雑誌』498・499、1927年)にすでに紹介のあることを教えられました。序文の翻刻と図版(第61・62・101図)が掲載されています(本奥書部分も掲載。掲載図版で翻刻の校訂は困難)。なお藤田氏は、指図を尚経作として(前掲書800頁上段)、拙稿が指図の「作成者に言及しない」と注記しますが(注15)、拙稿で扱った史料以外に新しい根拠が提示されているわけではありません。

補遺:『妙法院史料』五・古文書一五九号「陶原本槐門并月輪殿新槐門図」として序文翻刻・指図影印があります。


「米倉迪夫『源頼朝像』初版刊行後の神護寺三像をめぐる研究動向・文献一覧」」(米倉迪夫『源頼朝像−沈黙の肖像画−』平凡社ライブラリー版)

223頁:「肖像とアイデンティティー討論集会」…報告者・宮島新一・黒田日出男 → 報告者・宮島新一・黒田日出男・大隅和雄・米倉迪夫


「有馬温泉寺の縁起絵をめぐって」(『温泉の文化誌 論集 温泉学@』)

31頁後ろから6行目:Cに描かれた人物 → B

76頁(補注2):五五二函 → 五五三函

図版小番号追加:26頁 図4 中段:図4@ 下段:図4A
        27頁 図5 中段:図5@ 下段:図5A
        39頁 図7 下段:図7@

注20:森蘊「日本庭園に於ける橋梁について」(『建築史』五-五、一九四三年)を追加。廊橋・亭橋と呼んでいる。

44頁:群馬県立歴史博物館所蔵『三論絵詞(酒飯論絵巻)』にも「〈耶蘇聖心〉修女伝教会」印がある。茶道資料館編『酒飯論絵巻』(2018年)No.6解説参照。


「『台記』仁平三年冬記」(『史料編纂所研究紀要』16)

57頁下段3行目(11月22日条):寛敏 → 覚敏
   ※横内裕人『日本中世の仏教と東アジア』(塙書房、2008年)214頁、参照。

60頁下段2行目(12月2日条):南引入 → 南行入
68頁下段15行目(閏12月28日条):藤憲康、 → 藤憲康(点トル)
   ※『東京大学史料編纂所影印叢書』2(八木書店、2007年)解題14頁参照。


「高松宮家旧蔵『定能卿記』(安元御賀記)」(『禁裏・公家文庫研究』U)

205頁 下段11行目:『歴代残闕日記』三〇 → 三一

217頁 上段9行目:侍従資〔師カ〕盛 → 侍従資〔佐〕盛
 同 上段14行目:出自左桙北進南、 → 出自左桙北進、南
 同 上段15行目:至于池岸立笛 → 至于池岸立留
 223頁下段2行目:□立南人向北 → □〔而カ〕立南人向北
 同 下段3行目:不□公時 → 不□〔出カ〕公時


「承安三年最勝光院供養に関する史料」(『禁裏・公家文庫研究』V)

「二、仁和寺所蔵聖教類」のうち(@)『蓮華心院供養請書〈并院御堂供養曼荼羅次第〉』、(A)『鎮壇記』について。
※(@)・(A)は、同寺蔵『法則勘例』と合わせて一連の書に復元されることは、観智院聖教『曼供類聚記』から分かりますが、この史料全体は既に『続群書類従』28下で『法守親王曼陀羅供次第〈院御堂供養儀〉』として翻刻されているものでした。また守覚法親王の日記については、和田英松『皇室御撰之研究』(明治書院、1933年)570頁に引載書が列挙され、これらの史料も見えています。(2009年6月記:石田実洋氏の御指摘を踏まえ、文責筆者)


「京都御所東山御文庫収蔵『政部類記』紙背文書」(『東京大学史料編纂所研究紀要』21)

77頁下段〔第二紙裏〕本文5行目:可令披露給候、 → 可令披露給候、
80頁上段〔第十四紙裏〕習書 → 某書状            →「何事未承…一定候也、…」「自此令…/懈怠候也、御□□/無殊御事候、返々/悦承候、/痢病不快なから/昨日も扶参候、今/日ハ□□休息也、」  ※以上、海上貴彦氏ご教示


「僧玄海笛譜等注文」(『東京大学史料編纂所影印叢書』5)

※『弘安六年〔春日若宮〕臨時祭礼記写』(『神道大系 春日』所収)に、同年(1283)五月廿五日の大衆之楽人の左方横笛の一人に、「法舜房」が見え〔470頁〕、本文書中と同一人物と思われます。同記には「信継〈尭観房五師〉」〔474頁〕も見えますが、こちらは別人でしょう。また「覚舜房」が仕丁として見え〔467頁〕、これは同一人物の可能性があります。
※解説42頁で、「笛譜等の授受が行われた覚舜房の部屋は「中尾」にあったが、興福寺末の菩提山寺にあった地名に気づくものの、寺院にはよくある地名で、これもよく分からない。」と曖昧な記述に止めておりましたが、大原眞弓「和州菩提山正暦寺中尾谷と浄土信仰−牙舎利信仰をめぐって−」(『史窓(京都女子大学)』49、1992年)や斉藤望「直亮の楽器収集−慶俊の笙−」(『日本美術工芸』605、1989年)の参照を怠っておりました(これらは『正暦寺一千年の歴史』正暦寺、1992年、にも再録)。院政・鎌倉期に菩提山寺中尾谷に楽器制作や演奏に長けた僧侶がおり、南都における楽の相承状況を勘案すると、「中尾」は菩提山寺と推定してよいと思われます。
 また例えば、芸能史研究会編『日本庶民文化史料集成』二・田楽・猿楽(三一書房、一九七四年)に所収の『永享元年室町殿御翫延年等日記』(1429)では、管絃者として、横笛の浄禅房、篳篥の蓮観房・琳観房、箏の源宗房、笙笛の春顕房・顕勝房が菩提山の僧侶であり、同じく『永享十二年管絃講并延年日記』の管絃者十七人のうち、琵琶の源聖房、笙笛の良春房・賢珠房、横笛の浄禅房・浄源房、篳篥の琳観房・蓮学房、鞨皷の顕明房、大皷の春明房、計九人が菩提山の僧侶とみえます。


「中世春日社社記拾遺」(『此君』4)

84頁(旧表紙2外題):□〔説カ 〕→ 〔秘カ〕。垂迹之処 → 垂迹之儀
85頁6行目:尺・薬・地・観、文/如此 → 尺・薬・地・観・文、/如此
102頁b7行目:スヘテアノ → スヘミナノ
102頁b14行目:異姓 → 異性〔姓〕
102頁c最終行:併合 → 〓(称)合
103頁f10行目:本地則人 → 本地則久
103頁f11行目:金釣 → 金餉
103頁g18行目:打手 → 打平
104頁h2行目:至安久 → 至于安久
※久しぶりに読み直しましたが、まだ疑点が残ります。ご教示賜れば幸いです。


「春日大社所蔵大東家本『〔皇年代記〕』解題」(『春日大社所蔵 大東家文書目録』)

〔補注〕注2:『奈良市史』書跡編(1973年)63「皇代記断簡」(永島福太郎執筆)もあり、口絵に1図を掲載。


「『玉葉』の「図絵春日御社」参詣をめぐって」(『巡礼記研究』6)

〔補注〕高橋秀樹『玉葉精読 ―元暦元年記―』(和泉書院、2013年)を参照。
「藤枝叩松関」の出典については、同氏「大吉文庫」の「第六函 調べる書棚」>「1.日本語・漢語を調べる(11)」参照。


「院政期の行事絵と〈仮名別記〉・試論」(『文学』〔隔月刊〕10-5)

(注12) 群書類従公軍部 → 公事部。文末に「。」を付加。


「「中御門逆修」地蔵菩薩像の像内納入印仏」

24頁後ろから2行目:入給 → 入御

27頁16行目:現生安穏 → 現世

28頁図5キャプション:所蔵 → 所載

29頁11行目:一紙ものの結縁交名 → [No.13-9]を追加。

32頁1行目:二二八 → 二二八、地蔵菩薩立像


「掛幅本「鞍馬寺縁起絵」の絵画史的位置」(『中世絵画のマトリックス』)

〔補注〕 松尾芳樹「近世土佐派記録(一)」(『京都市立芸術大学芸術資料館年報』三、一九九三年)に翻刻紹介の
「土佐家所持絵本目録」(享保十年〔一七二五〕、土佐光芳)に、「鞍馬寺縁起 同人(行秀)」と所見あり。
同目録に「経隆」筆としては、「魔仏一如之絵」が見える。


「中世白描源氏絵への視座」(『源氏絵集成』)

89頁後ろから10行目「これらの図」の前に追加:個人蔵本(図版篇作品7、100頁)「葵」と、

93頁注13:引用の[ ]内は前者による補入。 → 前者にない部分。

98頁注58:美恵子 → 実恵子

〔補注〕注29:臍緒を切る刀について。勝浦令子「古代・中世前期出産儀礼における医師・医書の役割」(『国立歴史民俗博物館研究報告』141、2008年)を追加。

〔補注〕注12:専称寺本「遊行上人縁起絵」巻6第1段(『新修日本絵巻物全集』23のオフセットカラー6として図版あり)、他阿上人が聖道門の学匠から論難を受ける場面で、他阿の背後には尼たちが裁縫と洗濯をしている様子を描く。

〔補注〕84頁あたり:『時慶記』慶長七年(1602)八月二十日条〔刊本2冊255頁〕
「女院(勧修寺晴子)御所御落髪ノ義〔儀〕アリ、照高院(道澄)殿御参、ハサミハ九条(兼孝)御持参ト、其儀式可尋之、」
 ※落髪の儀式に用いられる鋏の提供者が、元服などの儀式での諸役のような意味合いがあるのか、他例を未勘。

〔補注〕 京都文化博物館所蔵「誓願寺門前図」に、呉服屋の男が和鋏を用いて紐(?)を切ろうとしている姿が描かれる。
大塚活美・洲鎌佐智子・野口剛2006 「京都文化博物館所蔵「誓願寺門前図」の概要」(『朱雀』18、2006年)の人物No.100。

〔補註〕89頁:中国での鋏の描写として、台北・故宮博物院所蔵「擣衣図巻」(南宋・1240年)には、握り鋏(剪刀)で布を切ろうとしている場面がある (『故宮書画図録』16〔國立故宮博物院、1997年〕モノクロ図版、東博『台北 國立故宮博物院−神品至宝−』No.70〔2014年〕カラー図版ほか)。

〔補註〕注37:秋山浩三「古代の男性墓・女性墓―奈良・平安時代墳墓の副葬・伴出品にみる性差―」(『古代文化』51-12、1999年12月)
論文執筆時に参照できたはずの論文で、見落とし。化粧道具出土の8〜12世紀代の主要な墓を一覧、鋏が出土する例を確認しやすい。女性墓と化粧道具類の副葬という相関性を認めるが、武器類と化粧道具類という男女両特性を備える事例は男性墓と推定する興味深い指摘がある。


「絵画史料に描かれた蔵」(『中世人のたからもの』)

〔補注〕 安藤邦廣+筑波大学安藤研究室 『小屋と倉』(建築資料研究社、2010年5月)というお仕事を見落としていたのは失考(少なくとも活字化に際しては、反映させることが間に合ったはず)。礎石立ちのセイロウ組の倉の諸事例が、素晴らしい写真の多数により紹介されています。「信貴山縁起絵巻」に描かれた飛倉については、高床式でない校倉(甲倉)の有無という論点と、倉の床下の束を省略した絵画表現か、という論点とを切り分ける必要(86・87頁参照)。

〔補注〕 105〜106頁:藤原頼長『台記』の文倉の記事、「芝垣」の参考資料として、知恩院本四十八巻伝「法然上人絵伝」巻四十二第五段に、腰の高さまで土を盛り(一面に緑青を塗るので芝の表現ならん)、その上に網代を立てる垣根あり。

〔補注〕 野本寛一『軒端の民俗学』(白水社、1989年)386〜415頁、「住まいの民俗」のうち「蔵」の章では、蔵や鍵に関する写真を多数掲載し、参考になります。

〔補注〕 大東急記念文庫所蔵「白描絵料紙梵字陀羅尼経断簡」(梵字経刷白描伊勢物語絵巻)は、第六十五段の一部「笛を吹く男」で、女が閉じ込められた蔵を、底面を井桁に描く建物で表現しています。小野家本・大英本では別構図。千野香織編『伊勢物語絵』(『日本の美術』301、至文堂、1991年)図93・95、羽衣国際大学日本文化研究所編『伊勢物語絵巻絵本大成』(角川学芸出版、2007年)資料篇、断簡18参照。

〔補注〕 同時期に刊行されており、参照できなかった論文で、建築としての経蔵について整理したものです。併せてご参照ください。 堀祥岳「《経蔵》再考―類型と機能―」(『臨済宗妙心寺派学研究紀要』9、2011年5月) 〔PDF〕

〔補注〕 藤井恵介「中世の経蔵における聖教・文書の収納状況」(『正倉院紀要』45、2023年)〔PDF〕
     清水真一・藤井恵介・春日井道彦・中西將「正倉院聖語蔵(旧尊勝院経蔵)調査報告」(『正倉院紀要』45、2023年)〔PDF〕


「垂迹曼荼羅の環境・景観描写ノート」(『仏教美術論集2 図像学T』)

375頁:挿図5:朱線を示す薄墨線が製版時に消えている。

376頁上段後ろから2行目に参考文献:土谷恵「後鳥羽院の熊野御幸」(三井記念美術館・明月記研究会編『国宝熊野御幸記』八木書店、2009年)を追加。

383頁最終行の参考文献〔泉1998〕の前に、林温「円覚寺蔵虚空蔵菩薩画像における問題」(『三浦古文化』52、1993年)を追加。

 378頁下段に引いた大東家本『皇代記』の解釈は誤りで、「社頭浄土観」による宮曼荼羅成立の直接的な史料として用いた点は撤回する。引用史料の後ろ二行は、「大明神仰せられて云く、御宝殿より、『本体観世音、常在補陀落、為度衆生故、示現大明神、』と云々。」(ないしは「御宝殿より仰せられて云く」)と読む。
 「本体観世音、常在補陀落、為度衆生故、示現大明神、」は著名な偈頌で、大江匡房『本朝神仙伝』の泰澄伝に「又向諸神社、問其本覚、於稲荷社、数日念誦、夢有一女、出自帳中告云、『本体観世音、常在補陀落、為度衆生故、示現大明神、』」と見えるのが比較的早いものか。『山王秘記』(正和三年)の客人社(白山妙理権現、本地十一面観音)には同一の頌がみえる。『梁塵秘抄』巻二・神分(275)にも、これを訓じた「本体観世音、常在補陀落の山、為度や衆生、生々示現大明神、」が収められる。このほか賀茂・厳島・諏訪など、観音を本地とする諸神の偈として広く流布し、「山王講式」「天神講式」などにも伽陀としてある。Niels Guelberg 氏「講式データべース」も参照。
 春日信仰の文脈では、『春日権現講式』などに「本体廬舎那、久遠成正覚、為度衆生故、示現大明神、」という、類似した釈迦・舎利信仰の偈がしばしば見られ、春日曼荼羅の上部に書される画賛としても採られている。この点は、行徳真一郎「春日曼荼羅と画賛」(古筆学研究所編『古筆学のあゆみ』八木書店、一九九五年)に事例が紹介されている。本記事は、貞慶の釈迦信仰に先行する、観音を本地とする春日信仰の現われと評価できる。

 380頁下段より引用の「日吉社大宮橋殿供養表白」(『転法輪鈔』神社下)に関し、381頁上段3行目にて、「次第・釈でも、落丁で途中が連続しない」と記した点につき、原本を管理される神奈川県立金沢文庫の高橋悠介氏にお問い合わせし、ご多忙のなかご教示頂いた。御礼とともにご紹介する。
 『安居院唱導集』上、299頁下段後ろから5行目の「凡其』三十四ウ」の箇所にて脱落があることは、同文を載せる284頁下段最終行以下によって判明する。この点につき、原本に残る丁付により、脱落の分量は粘葉装の一紙(二丁、四頁)分であり、その後ろについては丁付が連続するので、脱落・錯簡はないとのこと。これにより、表白に続き、復元できない部分(285頁上段8行目の「哀愍納受」までの後に続く内容で、299頁下段後ろから4行目「虚名不人…」の前に入る)分量は、翻刻で約8行分程度になる。


「民族誌としての上杉本「洛中洛外図屏風」覚書」

〔補注〕 「園城寺・日吉社遊楽図屏風」の筆者について、佐藤康宏「日本美術史不案内75 アトリビューション」(『UP』513、2015年7月)に孝信筆か否かの諸説整理あり。孝信筆は、注に掲げた小嵜善通「狩野孝信の作風について」(『美術史』128、1990年)に加え、狩野博幸「6 北野社頭遊楽図屏風」・「7 園城寺・日吉社遊楽図屏風」「8 洛中洛外図屏風(福岡市博本)」(『日本美術全集』12 狩野派と遊楽図、小学館、2014年)・山本英男「35 北野社頭遊楽図屏風」(『桃山時代の狩野派』京都国立博物館、2015年)など(狩野博幸氏は別の作品解説でも触れていたように思うが未確認)。孝信でない筆者で候補として光信とするのが、成澤勝嗣「無落款の作品をめぐって」(『もっと知りたい 狩野永徳と京狩野』東京美術、2012年、66〜68頁)および佐藤康宏氏の上記エッセイ。


「京都御所東山御文庫本「大臣似絵」覚書」

〔補注〕「「天子摂関御影」解題」(宮内庁書陵部、1968年)に触れざるは失考。東山本・陽明本・早大本の内容についての記述あり(『新修日本絵巻物全集』18にはなし)。


サントリー美術館編『お伽草子』解説

〔訂正〕 IX 英文目録68:× Lord Iehisa → 〇 Shimazu Iehisa


「古代出雲歴史博物館所蔵の中世神仏関係絵画」(『神々のすがた・かたちをめぐる多面的研究』)

〔訂正〕19頁上段12行目:誤:『京都古典籍・古書画資料目録』21号(二〇〇八年) → 正:10号(二〇〇九年)


「延慶三年実遍書写本『覚禅鈔』管見」(『画像史料解析センター通信』59)

〔補注〕2頁下段後ろから4行目(注4):大山公淳編「野山宝亀院聖教調査概要」は、『大山公淳著作集』8(ピタカ、1979年)に再録。

〔訂正〕10頁上段1行目:藤井永観堂文庫 → 藤井永観文庫
図版掲載していない立命館大学アートリサーチセンター所蔵藤井永観文庫本「大威徳法(中)」は、藤井永観文庫研究資源データベースより公開。『覚禅抄』[eik2-0-16]

〔補注〕『天野行宮 金剛寺古記』(1935年)に所載の「(聖教)断簡」の本奥書に「永仁七年〈己亥〉(1299)卯月十六日、於四天王寺勝曼(ママ)院、戌時書写之、賜師主御本写了、/金剛弟子実遍〈生年卅九才〉」(150頁)と見えるのは、延慶三年(1310)に五十才と記す実遍と同一人物であろう。

〔補注〕宝楼閣法(円満金剛・水歓喜天合写)一巻
  東京古典会平成26年(2014)度『古典籍展観大入札会目録』No.430
  茶表紙の同装幀。表紙直書外題「宝楼閣法〈複円満金剛/水歓喜天〉 (擦消跡:阿闍梨覚(?)□□之)」、本紙端裏外題同じ。約15紙、彩色図像一点。延慶三年二月二十五日書写奥書。
  →木下浩良「高野山大学図書館所蔵の『宝楼閣法・円満金剛法・水歓喜天供口伝』(覚禅鈔)一軸」(『高野山大学図書館紀要』五・六合併号、2023年)に全巻影印。

〔補注〕愛染王法 上〈中下〉 一巻
  『東北大学附属図書館本館所蔵 貴重図書目録 和漢書篇』(2006年3月)3頁。古二三、乙B 3-4-105。「延慶三年書写の奥書あり、白描図あり」とあるが、原本閲覧により実遍書写『覚禅抄』として一具。

〔補注〕弥勒法 一巻
 史料編纂所写真帳『四天王寺所蔵文書』二(1974年撮影)。奥書末尾「延慶三年〈庚戌〉五月二日、於菩提院書了、/金剛仏子実遍」。本紙端裏「弥勒法〈中下〉」。表紙は改められている。「小汀氏蔵書」「をばま」印あり(小汀利得旧蔵、一九七二年売り立て)。勧修寺本(影印7、『大正蔵』図像5)とは出入りが多く、万徳寺本の独自箇所(『図像蒐成』W、55〜62頁)と共通する要素が多いが、全体未見のため全く同一とも判じ難い。万徳寺本の本奥書は「寛元四年二月□□〔之比〕誂同法書写畢、/〔弘安四年〈辛巳〉七月廿二日〕高野山勧学院〔書了〕、/金剛仏子頼空」と復元される(四天王寺本に「頼空」なしだが別巻には弘安四年書写あり)。

〔補注〕六 国文研「六字明王経法」:三都古典連合会『古典籍展観大入札会目録』(1964・S39年5月)No.358(図版57頁:109)、同『展観入札目録』(1966:S41年5月)No.291(図版62頁)に掲載あり。現所蔵館よりカラー画像公開。

〔補注〕那羅延天法 一巻
 明治古典会『七夕古書大入札会』(2023年、第58回)No.1211に巻末部分(図像2点のうち1つと半分を含む)カラー掲載。大山公淳目録に所見あり。


「平子氏関係史料の紹介」(『横浜市歴史博物館紀要』17)

〔訂正〕2頁下段後ろから7行目:□刑罰 →□/刑罰 ※□を前行末に移す。「刑罰」より第二紙。


「中世春日社社記拾遺」(『此君』4)

〔訂正〕83頁注6:「貞慶上人式」の出典は、貞慶作『中宗報恩講式』第四段(舩田淳一氏より御教示)。翻刻は、ニールス・グュルベルク氏「解脱房貞慶と後鳥羽院―正治二年の水無瀬殿に於ける法相宗教義御前講と『中宗報恩講式』―」(山田昭全編『中世文学の展開と仏教』おうふう、2000年)115行目、および同氏「講式データべース」[294]を参照。

〔補遺〕95頁:E1の部分と同文が、佐々木信綱編『百代草』(1925年)「中臣祐春筆御本地并御託宣記」(弘安八年書写)として途中までの図版掲載。同編『竹柏園蔵書志』(1939年)8頁の図版には載せず。本書は天理図書館所蔵(『天理図書館稀書目録』和漢書之部五、2010年)192。


「16延文五年後七日御修法記(翻刻)」(『金光図書館の具注暦』)

〔訂正〕57頁上段最終行:〓(人去) → 〓(人去) 


「『古今最要抄』第十・清祓事」(『大東家文書目録』)

〔補注〕解題にて触れた龍門文庫本『春日社家記録』の画像、礪波美和子「龍門文庫蔵『春日社家記録』「神木御入洛并御遷座事」をめぐって」(『叙説』40、2013年3月)に一部翻刻。春日大社本の『古今最要抄』第六については、史料編纂所架蔵謄写本[2012-346]もある。


「「日吉山王利生記絵巻」復元の前提」(『絵が物語る日本』)

〔訂正〕69頁7行目:滋賀県立琵琶湖文化館『日吉山王』展 → 『日吉山王権現』 

〔補注〕参考文献:田嶋一夫「日吉山王利生記成立考」(『説話の講座』五・説話集の世界(U)中世、1993年)は、同著『中世往生伝と説話の視界』(笠間書院、2015年)に再録。

〔補注〕69頁:一具となると思しき模本の巻一が、『大阪青山短期大学所蔵品図録』第一輯(1992年)No.167として掲載。『思文閣古書資料目録』125・善本特集3(1991年)No.40にカラー部分図掲載(第三・四・七段)。

〔補注〕大津市歴史博物館所蔵模本(巻二)が、『三都古典連合会創立十周年記念 古典籍下見展観大入札会目録』(1972:S47年12月)No.197として掲載。第二段絵・第三段詞冒頭部分をモノクロ掲載(図版38頁)。


「兵庫県立歴史博物館所蔵の「〔第七櫃絵目録〕」」

〔補注〕18頁下段:「天狐報恩絵」に関し、称名寺聖教『七天狗絵』第六に収める「中比西山に隠居して」の僧に給仕した天狗の説話(第五〜七丁)が報恩譚である点、三角洋一先生より御示唆を賜った。翻刻は高橋秀榮「『七天狗絵』の詞書発見 ―付 翻刻『七天狗絵』詞書―」(『文学』隔月刊4-6、2003年)。鎌倉絵巻「天狗草紙」は現存しない部分にあたる。

〔補注〕注(7):田中稔「仁和寺所蔵絵目録断簡ならびに貞観格一逸文」(『奈良国立文化財研究所年報』1967年)を追加。塔中蔵161「折紙聞書〈明王部/如来部〉」紙背に断簡、同じく顕証筆「絵目録」。


「軒端の鞠」(『非文字資料研究』14)

〔補注〕天理図書館所蔵『蹴鞠庭木之秘書』(室町末写)に、鞠挟を用いて鞠を鞠場に運ぶ指図あり。図版掲載の有無不明。同書は『蹴鞠』(天理ギャラリー、1969年)に別の部分を掲載。


「洛中洛外図屏風の祖型を探る」(京都文化博物館『京を描く』)

〔訂正〕 226頁下段、231頁注2:鋤柄夫 → 鋤柄

〔訂正〕 228頁上段3〜7行目:《東博模本》に描かれた将軍御所ついての記述を差し替え
《東博模本》は内裏を収める東山-下京隻に室町殿(花御所)を移すが、実際の方角とは齟齬している。南北(左右)方向では庭・鎮守の位置関係が逆であり、東西(上下)方向も、ハレの門が室町通に面して観者と向き合うはずが、ウラの門(ただし仕える者が参入する)が室町通に開いてしまっている。室町殿(花御所)を西山・北山-上京隻に描いた場合、すなわち《上杉本》と同様の方位関係で描いた将軍御所の図様を、そのまま東山-下京隻にはめ込んだようになっている。

〔補注〕浅井了意撰『京雀』(寛文五年:1664刊)巻五・一条通の挿絵(画像:国立国会図書館デジタルコレクション)に、「札の辻」が描かれている。

〔補注〕 229頁:山本尚友『被差別部落史の研究』(岩田書院、1999年)109・110頁に洛中を罪人を渡す経路について記述あり。室町時代は一条室町を起点に鴨河原を南行して六条河原に向かうルート。元亀四年(1573)七月以降、信長により所司代に任じられた村井貞勝の支配がはじまってから、一条辻から室町通の経路が固定化した可能性が高いと指摘する。


「「台紙付写真に写された史料の行方―朝吹英二氏所蔵の場合―」(『画像史料解析センター通信』68号)

〔訂正〕 16頁一覧表No.18:現蔵 ×東京国立博物館 → 〇不詳 備考:×『時を超えて語るもの』… → 〇東京国立博物館所蔵本(重要文化財:絹本)とほぼ同内容の別作品(紙本)で、東博本を写したものと推測される。


「文献案内」(『画像史料解析センター通信』69号)

〔訂正〕 タイトル: ×『備国西大寺縁起絵巻』 → 〇『備国西大寺縁起絵巻』


「隆兼筆の「絵本」を所持する隆章」(『画像史料解析センター通信』70号)

〔補注〕12頁下段:『官史記』に「竹中入道左府〈公衡、〉ヲハ竹林院ト被号ケル也、〈竹中寺号ナリ、〉」とある。黒田彰子 「翻刻 静嘉堂文庫蔵『官史記』」(『愛知文教大学論叢』5、2002年)〔PDF〕198頁参照。


「東寺本『弘法大師行状絵』の灌頂行列図」(『描かれた行列 武士・異国・祭礼』)

〔補注〕西弥生「東寺蔵「弘法大師行状絵」の詞書―観智院賢宝の編纂意図―」(『仏教史学研究』57-2、2015年)も参照。


「画像資料と歴史研究・叙述・教育」(『岩波講座 日本歴史』史料論)

〔補注〕文化史懇談会については、太田智己「1950年代日本の美術史学の史学化志向―文化史懇談会の活動を中心に―」(『鹿島美術研究』年報32別冊、2015年11月)も参照。
おなじく、宮川寅雄『歳月の碑』(中央公論美術出版、1984年)「私の点鬼簿」20〜27頁、「逝くこと速き」32〜35頁(井上光貞・田中一松について)にも言及あり。


「日本中世の図譜的な舞楽図」(『日本音楽史料叢刊』1)

〔訂正〕72頁後ろから4行目:(誤)奚婁鼓・壱鼓カ〔一曲カ〕 → (正)〔一曲(奚婁鼓・壱鼓カ)〕
〔補注1〕『思文閣古書資料目録』248(2016年7月)No.70「応永年中図 古画舞楽之図」一巻(江戸後期写、紙本墨画、高野辰之旧蔵、紙高27.7糎、長さ5米53糎、巻子装、箱入)として、東博模本の類品が掲載。
〔補注2〕『吉川霊華先生遺愛品展観入札』(1929年、東京美術倶楽部)No.11「光信 楽人白描」一幅(竪五寸七分、巾二尺九分)として、東博模本の垣代・青海波の部分を描くもの(各1紙で計2紙か)が掲載。


「藤原光頼(桂大納言入道)出家後の動向」(『日本古写経研究所紀要』1)

〔訂正〕46頁6行目:跼懼蹐迷、開広劫難遇之蜜蔵、曲躬〓頭、得多生未聞之真乗、と句点を加える。
〔補注〕注10・11:翻刻した尊経閣本『大納言入道灌頂記』は金沢文庫本とされているが、文明末年頃成立の『方便智院聖教目録』(『続 高山寺経蔵古目録』高山寺資料叢書22、東京大学出版会、2002年、担当・宮澤俊雄)第一冊[199函2号]8ウの灌頂日記などを含む「灌頂内下」箱に、下半欠損であるが「桂大納言[ 」の文字があり(影印152頁・翻刻299頁)、記録としては対応するものと思しい。


〔訂正〕『東京大学史料編纂所報』51(2016年10月)74頁:東京大学総合図書館所蔵『愚管抄』[A00-4076](2016年11月記、坂口太郎氏ご教示)
  識語の「椎かもと」は、黒河春村なり。浦野都志子「伴信友宛黒河春村書状について」(『書状研究』17、2004年)を参照。
  国立国会図書館蔵『播磨国風土記』[830-119]所収「日本感霊録」識語に「椎本春村」として花押影あり。


「泊浦・道智上人周辺の夢語り」(『年報中世史研究』42)

〔補注1〕66頁注14:「造経之料足合八十文」
  『水原堯栄全集』五・高野板の研究(同朋舎出版、1981)537頁ほかに引かれる正安二年(1300)印板目録を参照。

〔補注2〕 中原師種『外記日記(新抄)』弘安十年(1287)十一月二日条「今日、伊世鳥羽浦道智上人、於京極悲田堂入滅、」とみえ、卒年が分かる(重大な見落とし)。『続史籍集覧』一(1930年)194頁、その底本国立国会図書館本[寄別9-2-2-2]『新抄』。前田育徳会尊経閣文庫編『外記日記〈新抄二〉 享禄二年外記日記』(尊経閣善本影印集成73、八木書店、2020年8月)89頁にカラー影印。
  「京極悲田堂」は、三条京極の悲田院(東悲田院)とみられる。網野善彦「古代・中世の悲田院をめぐって」(『中世の非人と遊女』明石書店、1994年。講談社学術文庫、2005年。網野善彦著作集』13、岩波書店、2007年。初出1985年)では、1994年再録時に加えられた補注(3)に、この記事を「伊勢国鳥羽浦の遍智上人」として言及する。「遍智」とも読みうる範疇とも言えるが「道智」でよい。


「広橋家旧蔵・東洋文庫所蔵「擬似曼荼羅」(北野種子曼荼羅)について」(『画像史料解析センター通信』81)

〔訂正〕6頁下段21行目:※橋「釈迦 普賢」 → 「釈迦 多宝


サントリー美術館編『扇の国、日本』

〔翻刻訂正〕
233頁上段翻刻5行目:No.16野府記:□〔無〕 → 〔至〕
245頁中段翻刻:事書1行目:□〔義カ〕成等 → 成等
      :副進
        一通 追捕物注文 「正応四年十一月二日」(別筆カ)
        二通 院宣案
        一通 充給商人等札案
        一通 綸旨案
      :本文2行目:院御[ ]蔵人所  → 院御方・ 殿下御方・ 蔵人所
245頁下段翻刻後ろから3行目:No.50経光卿記:遠山松、 → 遠山松

〔補遺〕
52頁:長野美波留『徴古図録』(文化八年〔1811〕序)に「立柱上棟次第〈妙心寺蔵云々〉」の扇次第の図あり、京大蔵の挿図5と同一品ならん。早稲田大学図書館蔵本


「東大所蔵史料からみる/鼠を捕る益獣としての猫」(『淡青』37)

〔補注〕
図1:国芳「猫の妙術」の詞書ありの版「古猫妙術説」:稲垣進一・悳俊彦『歌川国芳 いきものとばけもの』(東京書籍、2018年9月)三八としてカラー図版掲載。


「上杉本「洛中洛外図屏風」をめぐる新説について」(『画像史料解析センター通信』87)

〔訂正〕
注12:細川馬頭殿 → 細川馬頭殿


「国文学研究資料館所蔵『春日御遷坐御帰坐日記』(法隆寺記録)」(『年報中世史研究』45)

〔訂正1〕
193頁上段後ろから4行目・下段後ろから5行目:人別三充 → 三
199頁下段7行目:貝吹三人 → 貝吹三人〈舜勝房、/泉定々、/了覚々、〉 ※200頁下段12行目の重なった文字を移す。原本画像
200頁上段15行目:時亥〔、下同ジ〕 → 〔、下同ジ〕
同  下段12行目:十月八日に重なる〈舜勝房、/泉定々、/了覚々、〉は削除。
188頁下段・注(5):「法隆寺記録」ハ-「春日明神帰座日記覚」 → ハ- ※写真帳「法隆寺文書」一三[6171.65-23-13]

〔訂正2〕 ※河野昭昌氏御教示。
195頁下段1行目:舟後・桑井 → 後・五百
 奈良県立橿原考古学研究所編『大和国条里復原図』(一九八一年)No.38・45、および奈良女子大学古代学学術研究センター「奈良盆地歴史地理データベース>小字データベース」参照。

〔補注〕
河野昭昌・田中順一「鎌倉後期 法隆寺別当・小別当拝堂を探る―「寺務拝堂旧記」の紹介を兼ねて―」(『史影 いかるが』創刊号、2020年1月)に翻刻する法隆寺所蔵「寺務拝堂旧記」[甲函14]も、『嘉元記』成立に深く関わる松立院慶祐の書写で、解題中でも事蹟の整理がなされている。


「口絵解説 異本『本朝文粋』断簡」(『日本歴史』627)

〔補注1〕
『湖北省博物館蔵日本巻子本経籍文書』(2006年)図四六:2.2516「古文書状 背書仏経下反面一切業集」一巻
12世紀末諸種書状、反面(一切業集)鎌倉初期(13世紀初)書写、朱「冬蔵」。
能満院本(大河内本)の外題にも「冬蔵」とあり、僚巻と推定される。13紙のうち、書状面のカラー図版2カット掲載。「西南院」あての書状あり。

〔補注2〕
中尾真樹「大河内本『本朝文粋』巻第十三・十四の構成について―通行本との比較検討―」(『国語と国文学』96-4、2019年4月)


「近世即位儀の絵図」(科研費報告書『画像史料解析による前近代日本の儀礼構造の空間構成と時間的遷移に関する研究』)

〔補注〕 五十嵐公一「御所の障壁画制作」(野口剛・五十嵐公一・門脇むつみ編『天皇の美術史』四、吉川弘文館、2017年)
京都国立博物館編『初公開!天皇の即位図』(2019年) *五十嵐公一「狩野永納筆「霊元天皇即位・後西天皇譲位図屏風」について」所収
福士雄也「即位図屏風はなぜ描かれたのか」(京都国立博物館編『皇室の名宝』2020年)


「東寺本『弘法大師行状絵巻』の披覧記事」(『造形のポエティカ』)

訂正:548頁:永正七年経純書状の充所「東寺年預御房」
   549頁:永正十年宗芸奉書の充所「年預法印御房」 →いずれも傍注(金勝院杲〓[王深])

補遺:546・7頁:延徳四年飯尾清房書状の項
『高山寺古文書』第四部五四号「室町幕府奉行人奉書」(高山寺典籍文書綜合調査団編『高山寺資料叢書』四、東京大学出版会、一九七五年、四七三・四頁)

当寺 大師絵事、急度被御覧度子細候間、早々相副此使可被進之由、被仰出候、以雑掌可有進上候、恐々謹言、
 五月九日〈巳刻〉    (飯尾)清房(花押)
             (松田)長秀(花押)
 東寺年預御房


 東寺に対して『弘法大師行状絵巻』の進覧を急ぎ求める文書である。延徳四年(明応元年:一四二九)として掲げた「飯尾清房書状」(ニ函二六〇)も五月九日付で、雨中にすぐに届けてきたことを労っている。本文書には巳刻とあって午前中のことで、その日のうちに届けられ、両者が対応していると理解できる。

訂正:538頁(応永三十一年)6行目:(誤)弘助法親王(…) → (正)弘助法親王(一三七八〜一四五一、後常瑜伽院御室永助弟子)
             11行目:(誤)弘助の没年(五十歳) → (正)弘助の年齢(弘助の項の末尾に「応永卅四年、入滅、〈五十、〉」とあるうち年次と年齢が対応)


「建暦元年「蔵人所孔雀経御修法用途奉送状」―醍醐寺地蔵院旧蔵の宿紙文書―」(『画像史料解析センター通信』92)

補遺:梯信暁・竹本晃・苫名悠・馬部隆弘「大阪大谷大学図書館所蔵史料の紹介」(『大阪大谷大学紀要』55、2021年2月)〔PDF〕にも6点の地蔵院旧蔵文書が紹介される(各一図ずつ図版あり)。
いずれも影写本『森田清太郎氏所蔵文書』所収分とは重複せず、今回紹介の分とも伝来過程が近いと想定される。
 文書1  顕杲灌頂勘文:承安3年(1172)2月27日 ※続紙
 文書2@ 仁王経法伴僧交名注進状案:建保7年(1219)2月13日 ※翻刻収録。
 文書2A 毎月阿弥陀護摩巻数案:安貞2年(1228)12月20日
 文書2B 孔雀明王護摩巻数案:寛喜元年(1229)12月24日 ※森田清太郎氏所蔵文書に直接の関連文書あり。
 文書2C 北斗供巻数案:寛喜4年(1232)正月9日
 文書2D 降三世御修法巻数案:文永4年(1267)月日 ※親快


「春日大社所蔵『文正元年中臣延祐記』」(『東京大学史料編纂所研究紀要』30)

訂正
 182頁下段(正月元日条):断簡が別途あり、『紀要』32掲載予定。
 182頁上段:中臣氏人 (誤)祐友 → (正)祐夏 ※183頁下段17行目、184頁下段12行目、189頁下段最終行


「『寛正五年中臣祐識記』(上)」(『東京大学史料編纂所研究紀要』31)

訂正
 116頁上段8行目、131頁上段5行目:(誤)加任預…祐父 → (正)祐文BR>  118頁上段8・9行目(四行分切取リアリ):断簡が別途あり、『紀要』32号171頁下段参照。
 122頁上段8行目、131頁下段2・23行目、132頁上段10・22行目:(誤)抽留木・袖留木 → (正)柚留木
 124頁下段5・8行目:(誤)湯気殿 → (正)陽舜房
 129頁上段13行目:(誤)十二月十二日 → (正)二月十二日


「法華寺所蔵『大般若波羅蜜多経』について」(金沢文庫『武蔵国鶴見寺尾郷絵図の世界』)

補注
 阿諏訪青美「新指定文化財・港北区法華寺蔵の大般若経をめぐって―鶴見川中・下流域の中世的信仰世界の解明の試み―」(『横浜市歴史博物館紀要』25、2021年3月)も併せて参照。


九条家本『定能卿記部類』二「臨時行幸」」(『禁裏・公家文庫研究』8)

補注
 注24に追加:菅野扶美「若王子神社(禅林寺新熊野社)の創始―覚讃と後白河院―」(『共立女子短期大学文科 紀要』62、2019年)
 161頁以下:吉田友之「粉河寺縁起絵の背景」(『芸術論究』5、1978年)への言及を落としたのは失考。


「国立歴史民俗博物館所蔵『聆涛閣集古帖』所収「二条良実似絵写」」(『画像史料解析センター通信』98)

訂正 10頁上・下段(6箇所):土佐行→行 (*法名経光)


国立歴史民俗博物館編『いにしえが、好きっ!』展図録(担当部分)

訂正
 121頁下段・図版キャプション:岡本保考 → 山口行厚 ※天保七年(1836)七月二十七日任、同九年閏四月十一日卒。
 155頁2行目:明治九年(一七六) → (一七六)
 158頁9・11行目:明治二一・二年(一八八・九) → (一八八・九)
 224頁下段2-30解説:「聆涛閣鑑蔵記」の模刻 →「聆涛閣鑑蔵記」および楕円印「吉敬」(吉田道可)の模刻


「野口遵氏寄贈原本類についての覚書」(『画像史料解析センター通信』100 )

訂正 15頁注4:野口充太編 → 野田允太


「洛中洛外図屏風の祖型を探る―行事図像の理解:歴博甲本の能舞台―」(『中世文学』68)

補注 注1に追加:西島太郎「戦国時代(西国)」(『史学雑誌』132-5「2022年の歴史学界―回顧と展望―」、2023年6月)91頁
         水野智之「書評と紹介 小谷量子『上杉本洛中洛外図屏風の研究』」(『日本歴史』907、2023年12月)
         木下昌規・中西裕樹『足利将軍の合戦と城郭』(戎光祥出版、2024年1月)
訂正 11頁下段1行目:作品史的世界 → 作品から史的世界
補注 酒匂由紀子『室町・戦国期の土倉と酒屋』(吉川弘文館、2020年)206頁・注36にて、『八瀬童子会文書』234号の一部に関し、「今熊野」を諸役免除の東福寺領法性寺大路を指すとするが、「彼社之境内」は新熊野社と理解しておく。


東京大学史料編纂所古代史料部藤原重雄論文目録